スリー・クォーター(45)

@nekobell61

第1話 幸せの黄色い鳥

 カナリヤ色の鳥たちは息も乱さず、世界中を剽軽(ひょうきん)にするような笑顔で、七万人を超える大観衆に手を振っていた。



 「三時キックオフじゃなかったっけ?なあ、三時って言ってたよね?」

 能美(のうみ)水流(みずる)の呟きに応える者はいない。少し間の抜けたような、高く頓狂な声は、ロッカールームを覆う静寂に飲み込まれようとしていた。

 私は、大きく深呼吸をした。然して意味があるのか分からないが、選手たちにそれが溜息や嘆息に聞こえないように、配慮はしたつもりだ。

 「うるせえなあ。14時だよ。三時ってのは日本時間の午前3時のことだ。時差があんだろ?お前それグループリーグん時も同じこと言ってたよな。少しは成長しろ。天然野郎が」

 苛立ったように能美の独り言に応じたのは、彼と同い年、25歳の柳井(やない)祐(ゆう)希(き)だった。柳井に目をやると、神経質そうに貧乏揺すりを繰り返していた。

 そういったストレス行動を取っている者は、他にも数人いた。忙しなく腕を組み替えたり、髪の毛を掻き毟ったり。私は同じ舞台に立ったことがないので、本当の意味で彼らの重圧を理解してやることは出来ないのかも知れない。だが、日本代表の監督である以上、彼らに残された45分に、命の息吹を与えてやることが出来なければ、何のためにここにいるのか分からなくなることだけは心得ていた。

 「落ち着けよ、ユウキ。皆も落ち着け。そう言ってる俺も、落ち着こう。………藤崎(ふじさき)監督、後半に向けての、指示を、お願いします」

 切れ切れに、ようやく言葉を絞り出したのは、チーム発足以来キャプテンを任せてきた今宮(いまみや)泰士(たいし)だ。ハーフタイムに入って既に3分程が経過したが、まだ大きく肩で息をしている。無理もない、と私は思った。

 20xx年7月17日、日曜日。気温は31℃。天候は曇り。にも関わらず湿度はそれほど高くなく、サッカーをするには悪くないコンディションだった。

 今、世界中でサッカーをプレイしている人々はほとんどいないことだろう。普段サッカーに興味が無い者もテレビを点ける。サッカーが好きな者であれば、例えボールを蹴っていたとしても、今だけは足を動かすことを止め、その行く末を刮目するであろう。

 ここはアメリカ合衆国、ニューヨーク州。ナショナル・アリーナ。

 私たちサッカー日本代表が戦っているのは、FIFAワールドカップ・アメリカ大会決勝、ブラジル戦なのである。


 前半45分を終えて、ここまでは0対2。日本は2点のリードを許していた。

 サッカーという競技において、2点のビハインドはかなり重たい。サッカーをよく知る者の間では、『2点差が最も危険』という格言めいたものがある。2点のリードは慢心を生み、もし相手に1点を返された場合、追い掛ける側には大津波のような勢いが芽生えるというのだ。確かにそれは間違っておらず、世界中のサッカーの歴史の中で、重大な逆転劇は幾度となく「0対2」のビハインドから生まれている。

 しかし、今回ばかりは相手が悪い。敵は『サッカー王国ブラジル』。ワールドカップで7度の優勝を誇る、ディフェンディングチャンピオンなのだ。

 万全の準備というのがあるとするなら、私たちはこれ以上ない程、敵国の研究をし、試合展開をシミュレーションし、ミーティングを繰り返してきた。今ピッチに送り出している選手や、ベンチメンバーを含めた23人に、「ブラジルのサッカー」というものを徹底的に叩き込んできた。試合中どんなことが起こりうるのかを想定しておけば、動揺や畏怖や迷いが減る。王者ブラジルと一戦まみえるための最初の用意は、周到に出来ているつもりだった。日本の歴史上、かつてないほどの攻撃力を持ち得た私たち日本代表は、正々堂々真っ向勝負でブラジルと対峙するに値するチーム、と形容されていたはずだった。

 現実というのはかくも残酷なものだろうか。

 決勝戦のブラジルは、準決勝までのブラジルとはまるで別のチームだった。猫がライオンに化けた、とまでは言わないが、百獣の王ライオンが、それまでは単独で狩りをしていたライオンが、群れで、賢く、狡猾に、そして最も効率よく、我々の守備網を何度も切り裂いてみせたのだ。観衆は沸き立った。スタンドを埋め尽くしたカナリヤ色の大応援団は、真っ青な私たちには目も呉れず、たてがみの生えたカナリヤを囃(はや)し立てた。前半だけで実に13本のシュートを放ったブラジル代表は、その内の2つを日本のゴールに突き刺した。

 成す術なく失点した日本代表は、点だけでなくこれまで培ってきた自信さえ喪いそうな青褪めた表情で、命辛々(いのちからがら)ロッカールームへと引き上げてきたのである。


 「この大会が終わったら、代表引退を考えている奴、手ぇ挙げろ」

 私の発したこの言葉で、俯いていた選手全員が一斉に顔を上げた。訝しい表情、苛立ちを交えた睨むような表情、疲弊しきった表情、何を考えているのか読み取れない表情。23通りの顔がそこには並んでいた。

 「いないのか?全員、次もあるんだな。だったら…」

 そう私が続けたところで、3人の選手がそれぞれ利き手を挙げた。

 新藤司沙(しんどうつかさ)、鈴木(すずき)駿(はやお)、飯村(いいむら)俊(しゅん)輔(すけ)。彼らは長く日本代表を牽引してきた、チームの象徴とも言える存在だった。3人共この決勝戦も先発で、ブラジルの猛威にずっと曝されながらも、息絶え絶えの前半の戦火をくぐり抜けてきていた。今の日本代表の中では、経験値も高く、頼れる者の筆頭である彼らでさえ、味わったことのないような重圧に苦しんでいるのが見て取れた。

 「俺は、この大会を最後に日本代表を引退します」

 3人の中でも最年長の新藤が、そう告げた。他の2人も呼吸を整えることを優先するように、小さく首を縦に振った。

 「そうか。じゃあ後半、お前ら3人は足の骨が折れるまで走れ」

 冗談に聞こえたのか、何人かの選手が目を丸くして、周囲と顔を見合わせた。それと同時に、柳井が私に食ってかかってきた。

 「骨が折れるまで走れば勝てるってか?いつになくつまんねぇ冗談言うなよ。具体的な戦術がなければ、あのブラジルには手も足も出ねえ」

「私は冗談は言ってない。もう引退するんなら、この試合に負けたらこいつら3人は『ワールドカップ優勝』って栄誉は、一生得られないってことだ」

 この言葉に大した意味はない。これまでワールドカップ・ベスト16の壁を突破することすら出来なかった日本サッカーにとって、今回の決勝進出は快挙であり、新しい歴史の1ページとなった。それだけで栄光であり、名誉である。これはもう、現時点で誇っても良い快挙である。

 「このまま負けて、準優勝で帰っても、空港ではきっと凄まじい歓迎を受けるだろう。『感動をありがとう』『勇気をもらった』色んな賛辞がお前らを待っている。お前らは一躍時の人となり、メディアにも引っ張りだこ。街を歩けば英雄扱い。たくさんの好条件な移籍話も浮上し、テレビCMなんかにも出る奴は出るだろう。だけど私は、このまま負けたら後悔すると思う。準優勝に導いた自分を褒めてやるんじゃない。優勝出来なかったことを、一生後悔すると思う。一生後悔して、悔しくて悔しくて何度も何度も同じ夢を見て、負ける夢を見て、毎朝悔しさで目が覚めるんだ」

 いつの間にか、選手23人全員が真剣な面持ちになっていることに私は気付いていた。何度も言う。ワールドカップで準優勝は、快挙であり、望外の成果である。世界からずっと遅れを取ってきた日本サッカー界にとって、優勝出来なくとも、準優勝のカップとメダルは勲章である。

 けれども、本気で目指してきたからこそ、ここで負けたら死ぬまで後悔する。生涯二度はないのだ。このチャンスは。

 そのことを、選手たちは思い出したようだった。

 怒涛の前半戦。強烈で正確無比なシュートの雨あられ。豪雨のような45分では、一矢も報いることが出来なかった。顔面蒼白でふらつきながら戻ってきた選手たちに、戦う意義と強い意志をもう一度。


 幸せの渦中にいる黄色い鳥どもよ、混じり気ない青き火の、逆襲叫ぶ歌を聞け!


 私には見えていた。

 さあ、ここからが本番だ。残された45分で全てを奪うか失うか。泣いても笑っても必ず決着はつく。

 勝つための道標が、私にははっきり“数字”で見えている。

 『奇跡の目』。誰が言ったか知らないが、日本代表監督である私を評する二つ名だそうだ。

 一通りの指示を伝え、私は選手たちを後半のピッチへと送り出した。最後にこのチームのキャプテンである38歳の老兵、今宮泰士の肩を抱いた。

 「お前に残された現役生活はあと何年だ?今日から、今から、もう、一度たりともお前は負けるな」

 今宮の目に激しく静かな、赤くて青い炎が点っていた。



20XX年7月17日 日曜

現地時間14:00キックオフ(日本時間午前3:00。)

アメリカワールドカップ ニューヨーク州

ナショナル・アリーナ



日本代表監督 藤崎浩継 53歳


1 GK 那須野 洸 なすの こう 28歳

2 DF 依田 大記 よだ だいき 24歳

3 DF 橋本 渚 はしもと なぎさ 30歳

4 MF 掛軸 晋太郎 かけじく しんたろう 21歳

5 DF 羽塚 拓馬 はづか たくま 29歳

6 MF 新藤 司沙 しんどう つかさ 34歳

7 MF 飯村 俊輔 いいむら しゅんすけ 32歳

8 MF 名郷 宗寛 なごう むねひろ 29歳

9 FW 能美 水流 のうみ みずる 25歳

10 MF 蜂ケ谷 玲央 はちがや れお 22歳

11 FW 羽山 翼 はやま たすく 20歳

12 GK 向井 岳登 むかい がくと 25歳

13 DF 三橋 親 みつはし しん 22歳

14 DF 今宮 泰士 いまみや たいし 38歳

15 MF 真鍋 脩斗 まなべ しゅうと 30歳

16 MF 柳井 祐希 やない ゆうき 25歳

17 DF 鈴木 駿 すずき はやお 32歳

18 MF 氷室 洋輝 ひむろ ひろき 18歳

19 FW 矢倉 篤人 やぐら あつひと 23歳

20 FW 揖斐 曜一朗 いび よういちろう 27歳

21 MF 鋪野 紘基 しきの こうき 22歳

22 FW 滝川 オルフェン たきがわ おるふぇん 19歳

23 GK 松本 康裕 まつもと こうすけ 35歳


      FW能美       FW揖斐

           MF飯村

  MF蜂ケ谷             MF新藤

           MF掛軸

 DF鈴木                  DF橋本

       DF依田      DF今宮

           GK那須野              

4―4―2



ブラジル代表監督 ネオジーニョ 61歳


1 GK アントーニオ 24歳

2 DF ジロ 29歳

3 DF マヌチーニョ 26歳

4 DF ニッキートン 23歳

5 DF ポピット 30歳

6 MF ブルーシャ 34歳

7 MF ミカ 22歳

8 MF オ・ドラガオ 25歳

9 FW ドラード 21歳

10 FW ロ‘レックス(ロビー・アレックス) 29歳

11 FW コントラジシオ 24歳

12 GK ヨシヒサ・ノダ 27歳

13 FW スペリーニョ 27歳

14 DF マイッコ 31歳

15 DF ソクラテス 30歳

16 FW アダイウトン 26歳

17 MF エメルソン・ドス・サントス 28歳

18 MF パッキゥガ 29歳

19 FW ジスペルタドール 19歳

20 MF ジュニーニョ・パラナエンセ 21歳

21 FW バスキーニョ 24歳

22 DF ログランデル 26歳

23 GK カマルン・アクオ・ドーシ 32歳


 FWコントラジシオ  FWロ‘レックス  FWドラード

  MFブルーシャ  MFオ・ドラガオ    MFミカ

DFジロ                DFマヌチーニョ

    DFニッキートン   DFポピット

        GKアントーニオ              

4―3―3



(日本代表、ブラジル代表メンバー ※参考資料)

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