殺し屋は月曜日に寝坊する
美尾籠ロウ
第1話 殺し屋は月曜日に寝坊する
八時十四分
月曜の朝、殺し屋は寝坊した。
けたたましく鳴る目覚まし時計に起こされた。昨夜、七時半にセットしたのだ。
否応なく落ちてくる瞼をこすりつつ、殺し屋は起き上がった。半ば条件反射的に枕元からテレビのリモコンを取り、スイッチを入れる。
NHKの朝ドラが終わろうとするところだった。
飛び起きた。
もう一度時計を見る。七時三十四分。テレビを見る。八時十五分。どちらが正しいか。考えるまでもなかった。
「アホ時計がっ!」
声に出して罵った。つい一週間ほど前に電池を入れ替えたばかりだ。が、高校入学の頃に買って、もう十年以上も使っている。今日まで正しい時を刻んできたことのほうが、奇蹟と言えた。
慌てて身支度をする。顔を洗い、髭を剃るのはあきらめ、手のひらに水道水を受け、逆立つ寝癖を押さえつける。通常の二倍の速度で行なったつもりだったが、やはりそれでも遅刻だ。
殺し屋は、未練がましく昨夜から保温状態にしてあった炊飯器を見やった。ちくしょう、朝食は諦めざるを得ない。
水道水で濡れた頭にキャップをかぶった。マンションの部屋を出る。が、今日は燃えるゴミの収集日だったことを思い出す。先週の木曜の収集日に出し忘れたため、ゴミ袋二つがすでにたまっていた。流しの三角コーナーにも、生ゴミが山になったままだ。
殺し屋は舌打ちをして部屋に戻り、ゴミをまとめた。部屋に三つあるくずかごは、ティッシュペーパーで一杯になっている――彼は、花粉症なのだった。
三つのゴミ袋を抱えて、マンションの階段を駆け下りた。ゴミの集積所で、同じ四階に住む自称女子大生と出会った。
「あ、おはようございまーす」
その台詞を文字にしたら、末尾に「♥」と付けたくなるような男に媚びるエロい声。殺し屋は、愛想笑いをして「おはようございます」と挨拶を返した。このところ、自称女子大生が自分に色目を使ってくるように思えるのは、単なる自意識過剰であろうか、と殺し屋は思った。いずれにせよ、悪い気分ではない。
自称女子大生はつい半月ほど前に、このマンションの彼と同じフロアに引っ越してきた。部屋は、殺し屋の隣の隣だ。
彼女が大学で何を専攻しているのか、そもそもどこの大学に通っているのか、彼は知らない。尋ねたこともない。
家賃が共益費込み月十八万の単身者用マンションに独り暮らしをして、、小綺麗でお洒落な格好をし、ブランドバッグを手に提げ、駐車場には二百五十万は下らない車まで停めている「女子大生」が、まっとうな学生生活を送っているとは思えなかった――殺し屋にとっては、どうでもいいことだったが。
自称女子大生は、駐車場に歩き去った。手に提げたブランド・バッグにノートやテキストやノートパソコンが入っているようには見えなかった。おそらく、化粧品と携帯電話とゴム製品くらいだろう、と殺し屋は思った。ジーンズに包まれた形のよい尻をこれ見よがしに振っているように思えるのも、彼の自意識過剰のなせる技であろうか。
九時五分
愛用の自転車にまたがり、「会社」に向かった。いわゆるママチャリである。一応、三段の変速は付いている。「会社」までだいたい二十分くらいかかった。九時の出勤時間は、すでに過ぎている。
〈三ツ星出版〉は、四階建ての雑居ビルの二階と三階にオフィスを持つ、小さな出版社だった。殺し屋が〈三ツ星出版〉の入り口のドアくぐったときには、汗びっしょりになっていた。タイムカードを押すと、「9:27」と打刻された。社長は遅刻にうるさい。毎日、全社員のタイムカードの打刻時間をチェックしているのだ。殺し屋は、お小言を覚悟した。
三階のオフィスに足を踏み入れると、真っ先に社長と眼があってしまった。うわっちゃあ、である。
「遅いじゃないか、たまの出勤日だというのに」
社長はマッチ棒のように痩せ、額が広くはげ上がり、度の強い眼鏡をかけた猫背の小男だった。一見すると貧相な男だが、フレームの奥の眼は知性と決断力に鋭く光っている。
殺し屋は、ぺこりと頭を下げてデスクについた。
オフィスはさほど広くない。十坪ほどのスペースがファイルキャビネットに囲まれ、デスクが六つ島になっている。うち五つが常勤の社員のもの。末席の一つを、彼のように週に数日しか出勤しない「特殊業務従事者」が共同で使っている。
椅子に座り、一息つく。不意にくしゃみが襲ってきた。立て続けに四回。それでもなお足りぬとみえる。五回目が襲ってくる前にティッシュで鼻を押さえた。はくふぉん、という間抜けな音を立てて、鼻から息が漏れた。
隣のデスクのゆう子ちゃんが、「くすっ」と笑った。それと同時に彼の心臓も、「どくん」と跳ねた。
「花粉症、ひどそうですね」
ゆう子ちゃんはまっすぐに彼を見て言った。
「いやはや」
憧れの女性に不意に声をかけられ、彼は年寄りじみた言葉しか吐けなかった。
ちらっと、心臓がほんの一回打つか、打たないか、といったあいだだけ、ゆう子ちゃんは笑みを見せた。が、微笑んだゆう子ちゃんに見とれる暇は与えられなかった。彼女はさっそく、一枚の紙を差し出した。
「何これ?」
「お仕事。来月の勤務日程表です」
レポート用紙の上で、無数のミミズがのたくっている。社長の字だった。
「この原稿、エクセルで表にしてプリントアウトしてくださいね、お昼までに」
「昼まで?」
「二時間もあればできますよ。プリントアウトしたら、契約社員の人数分だけコピーして、棚に入れておいてくださいね。あ、データデータはドロップボックスに保存するのを忘れないでくださいよ」
ゆう子ちゃんはすぐに前を向き直り、彼女の仕事に戻った。あくまでも事務的な会話。少しだけ殺し屋は失望する。
短大を出てこの〈三ツ星出版〉に就職して二年、二十二歳になるゆう子ちゃんにとって、彼は不定期に出社してくる契約社員の一人に過ぎないのだった。それが、悔しい。ふと、自称女子大生を思い出した。
――いやはや、まったくもう!
殺し屋は声には出さずにつぶやいた。
コンピュータを立ち上げ、ちらりとゆう子ちゃんに眼をやった。化粧っ気はほとんどない。ショートボブの髪。やや度の強そうな眼鏡。地味なブラウスの上に地味な色のカーディガン。一見しただけでは野暮の塊のようだ。それなのになぜ俺は、彼女に惹かれるのだろう。プロの殺し屋であるハードボイルドなこの俺が――と彼は自問した。
「字、読めません?」
不意にゆう子ちゃんが殺し屋を振り返った。彼は動揺を素早く飲み込んだ。
「え、えーとね、うん。社長の字を解読できるの、ゆう子ちゃんだけだから」
口の端のほうで笑ってうなずき、「勤務日程表」の原稿の適当なところを指さして、ゆう子ちゃんに見せた。
「『二十四日 午後 守野・田崎・下山』って書いてあるんですよ」
「ありがとう」
殺し屋は自分では精一杯に魅力的な笑顔を作ったつもりだったが、今度もゆう子ちゃんは少しうなずいただけで、彼女の仕事に戻ってしまった。
殺し屋はコンピュータに向き直りつつ、思うのだった。この「勤務日程表」が今月の「特殊業務」の割り当て表だということを知ったら、ゆう子ちゃんはどんな反応を示すだろうか。
彼女に〈三ツ星出版〉は「殺し屋派遣業」もやっているんだよ、と告げたい誘惑に駆られた。
表計算ソフトを起動して、勤務日程表のテンプレートを開く。社長の書いた「勤務日程表」を打ち込む前にまず、ざっと原稿を眺めてみる。
来月の特殊業務は三件。彼の名は、そのうち一件の「特殊業務担当者」のなかに入っていた。彼は、ゆう子ちゃんに見せたのとは異なる種類の笑みを浮かべた。先月と今月は「特殊業務」を担当できず、週二回の出勤でデスクワークを行なうだけだったのだ。「特殊業務手当」がなくて収入が少ないのもさることながら、何よりも自分が「特殊業務」に参加できないということ自体が我慢できなかった。
――それにしても……
と殺し屋は考える。この稼業に就いてから、表計算ソフトの使い方を習わなければならないとは思わなかった。
十一時四十一分
ゆう子ちゃんが言ったように「二時間」というわけにはいかなかったが、それでも昼休み前に勤務日程表を作り終え、コピーも終えて貼り出すことができた。
「ぼん、ちょいと来てくれ」
背後から社長の声がした。隣でゆう子ちゃんが「くすっ」と笑った。いつもなら、もう五年近くものあいだ彼を「ぼん」呼ばわりする社長にいらついたところだったが、今日の彼は機嫌が良かった。特殊業務を行なえるだけでなく、またしてもゆう子ちゃんの笑顔を見ることができたのだ。
社長は彼を四階の社長室に招じ入れた。社長室といっても派手な調度などはなく、普通のオフィスと何ら変わるところはなかった。すべてにおいて地味な社長の性格が部屋にも現れていた。唯一の目立つものは、今は高校生の娘が幼稚園児のときにクレヨンで描いたという「おとおさんのかお」である。「もう三ヶ月も娘と口を利いていない」とぼやく社長は、その絵を眺めては父と娘の蜜月期に思いを馳せているのだろう。
社長室にはすでに
「日程表、できましたよ」
彼はプリントアウトしたばかりの勤務日程表を社長に差し出した。が、社長はろくにそれを見もせずにデスクの上に放り、べつに一枚の紙を差し出した。
「すまんがねえ、変更がある。作り直してちょうだいな」
「ええっ?」
彼は頓狂な声を上げた。
「なんだ、不満か」
「いや、だって、でも、やっと完成したばっかりなのに」
「嫌ならいい。ほかの者に頼む。その代わりに下の仕事をやってもらうが、いいな」
「下の仕事」とはつまりこのビルの下の階で行なわれている業務――出版社としての本来の業務――のことである。三階の契約社員たち、すなわち「殺し屋」たちはみな、「下の仕事」を嫌がった。それも無理からぬことだ。
彼らは殺し屋なのだ。
彼らは、〈三ツ星出版〉の裏の稼業を受け持つ「陰の存在」なのである。決して〈三ツ星出版〉の「表」の社員たちを軽んじているわけではなかったが、彼らには殺し屋としての誇りも矜持もあった。
「わかりましたよ。直します。で、どこが変更なんですか?」
ぼんはため息混じりに訊いた。
「新しく特殊業務が一件入った。そいつを、だ――」
社長は狭い社長室内をぐるりと見回した。
「ここにいる君らにチームでやってもらいたいのよ」
「ちょっと待ってください」
やや耳障りな声で異議を唱えたのは今井だった。細身のスーツをパリッと着こなしているイケメンだ。今井はぼんよりも数歳年上だが、彼のことをいつまでも未経験の新米と見下しているところがあった。彼は今井をぎろりとにらんだが、今井はその視線を難なくスルーした。
「文句は認めん。今、この三人しか動けんのよ。なぁ、ぼん。日程表を作ったからわかるだろう?」
「はあ、確かに」
しかし今井はまだ不満のようだった。
「田崎さんはどうなんですか?」
「海外研修中だ。ロシアに行ってる。帰国してから、本場仕込みの『実技』のレクチャーをしてもらうつもりだ」
「じゃ、
「十二指腸潰瘍で入院中だ」
「
「育児休暇中」
「わかりました。今回だけ辛抱しますよ。で、業務内容は?」
今井は唇の端をゆがめつつ尋ねた。その問いには、それまで黙っていた守野が静かに答えた。
「ほんとうなら、俺と三ツ矢がやるはずだった。が、三ツ矢がダウンしてしまったので、おまえたちと組むことになった」
守野はこの稼業を続けて二十年以上になるというベテランだった。社長ともっともつきあいが長い古株である。長身で頬がこけ、髪は半分白く、まるで剣豪のように見える。社長よりも貫禄があるのは間違いない。
社長がやや弁解口調で付け加えた。
「義理がらみで、どうしても飛び入りで受けなきゃいけなかった仕事なんよ。ほんとにすまんが、水曜までに頼む」
「水曜って、明後日じゃないですか! しかもこの『ぼん』と?」
今井が声を上げた。
「そう騒ぐな。俺と三ツ矢が下準備はしてる」
守野がタブレット端末を今井に手渡した。「特殊業務」の依頼内容と「対象」の情報が納められたファイルを開いた。彼も今井の手元をのぞき込んだ。
特殊業務対象は
市内で、妻と中学二年生になる娘、小学四年生の息子、老いた母の五人暮らし。郊外のマンションに二十一歳の愛人を住まわせている。今週の木曜には、その愛人とともにオーストラリアに旅行に行くという。家族には、会社の研修旅行と告げているらしい。
ファイルには以上のようなことが載っていた。当然のことながら、依頼者サイドの情報、依頼の動機などは一切書かれていない。業務の実行者がそれらを知る必要はない。
なまじ、そういった知識が入ると、業務の遂行に支障を来す場合がある。依頼者、依頼動機への共感――あるいは反感は業務遂行に焦りや躊躇をもたらす。
彼ら特殊業務従事者が実際の業務を始める前に、何度となく繰り返し繰り返し頭に叩き込まれることがある。入社前の面接から新人研修、業務を任されるようになってからも半年に一度ある職員研修などの際、耳にタコができるほど聞かされ、答えさせられ、レポートに書かされることがある。
彼らは「必殺仕事人」ではない、ということだ。
決して彼らは、弱きを助け、強きをくじく殺し屋家業ではない。同じなのは、報酬を得て人の命を奪う、という点のみだ。
彼らは業務の遂行そのものだけを考えなければならない。業務そのものの妥当性、業務遂行が「対象」の周囲の人間に及ぼす影響などに考えを及ぼす必要はない。考えてはいけない。
「大倉は、毎朝九時には出社している。通勤には自家用車を使っている。紺のレクサスだ。毎晩九時過ぎまで社にいて、そのあいだめったに外に出ることはない。詳細はそのファイルにあるが、要するに、チャンスはかなり限られてくる」
「手段は?」
「なにぶん、飛び入りの仕事だ。準備期間が短かった。『化ける』余裕もなかった」
守野の言う「化ける」とは、殺し屋が身分を偽装したり、時には文字通り変装するなどして対象に接近することだ。そのためには、最低一ヶ月の準備期間は必要だった。
「すると飛び道具ってことになりますね。通勤途中の車を狙い撃ちますか」
今井が意気込んで言ったが、それを手で遮るようにして社長が静かに口を挟んだ。
「そっちを準備する暇もなかった。今、足のつかないチャカのストックがないんよね。車なら、ある」
今井は聞こえよがしに舌打ちをした。
殺し屋稼業に就く者なら誰でもあこがれるのが「飛び道具」、すなわち銃器類による仕事だ。経験の浅い、若い殺し屋は特にそうだった。しかし実際の特殊業務のうち、銃器類を使用するのは一割程度に過ぎない。また、殺し屋が銃器類を日常的に携帯することは決してない。「業務」のときどきに、会社から支給されたものを使用し、業務終了後には、会社に返却することになっている。会社側は、独自のルートで使用済みの銃器類を処分する。つまり、銃器類は一回の業務ごとの使い捨てなのだ。
守野は冷ややかに今井を見つめ返した。
「今井、おまえみたいなやつに、街中でドンパチやられちゃ困るんだ。何年この仕事やってる? いい加減にわかってきてもいい頃だと思うがな」
今井はまたしても舌打ちした。守野は、あくまでも冷ややかな口調を変えなかった。
「おまえたちには、最後の仕上げだけを頼む。下準備の苦労がない代わりに、仕事の派手さもない。その辺が不満なら、手伝ってくれなくてもいいんだよ」
今井の三度目の舌打ち。
ぼんは、誰にも聞こえないように、そっとため息をついた。今回の業務は簡単かもしれないが、いつもよりも疲れそうだ。
「さ、早く動け。今から『特殊業務手当』をつけてやるから、早く外に出なさいな」
社長は野良猫でも追い払うかのように、今井とぼんに手を振ってみせた。
「あの、社長」
ぼんは機嫌を伺うように言った。
「何だ?」
「あのぉ、昼飯まだ喰ってないんですけど?」
「抜けば」
にべもなかった。
十二時二十七分
外に出た途端に、凶暴なスギ花粉の襲撃を受けた。車のなかでくしゃみを連発した。何度もティッシュで鼻をかんだので、鼻の頭が真っ赤になってひりひりと痛い。今井は助手席から、そんな彼を見て、軽蔑しきったような嘲笑を浮かべていた。
彼ら三人は社を出て、守野の運転する車で、大倉研二の通勤ルートをたどっていた。
渋滞に巻き込まれなければ、大倉の会社から自宅まで約三十分かかる。
「俺と三ツ矢は、やつの出勤、帰宅の時間にあわせてこの道を走ってみた。特に朝はずいぶん様相が違う。この辺り一帯、だいたい三キロ近く渋滞するんだ」
「夜はどうなんですか?」
ティッシュで鼻をかみながら、ぼんは尋ねた。
「大倉がまっすぐに帰宅するなら、だいたい十時少し前に自宅に着く」
「やつはまっすぐ帰るんですかね」
今井が訊いた。
「それはわからん。今日明日とも女と会う可能性が高い」
守野は冷ややかに答えるのと同時に、ぼんは続けざまに四回くしゃみをした。守野は表情を変えなかったが、今井は、まるで汚いものでも見るかのように眉間に皺を寄せた。
「すいません……とすると、やるとなると朝の出勤時か、さもなきゃ女と別れてからの深夜ってことになりますね」
ぼんは鼻をずずっとすすりながら訊く。
「面倒なときにゃ、もろともって手があるさ」
今井の言葉に、ぼんは口をつぐんだ。そこまでは考えたことがなかった。今井は指先でウィンドウをこつこつと叩いて拍子を取りながら、鼻歌を歌っていた。ぼんが高校生だった頃に流行ったアイドル・ソングだった。
彼らは続いて大倉研二の自宅に向かった。市の東のはずれに位置する、閑静な住宅地だった。ここ数年のあいだに開発された地域で、似たような作りの一戸建て住宅が、まるでおもちゃの街のように並んでいる。
狭い庭には、数多くの鉢植えが、ずらりと並んでいた。あとひと月もすれば――ぼんの花粉症が緩和するような季節になれば――カラフルな花がこの庭に満ちふれることだろう。
が、それを大倉研二が見ることはない。
「いやなもん、見ちまったかな」
不意に守野が独りごちた。
ぼんは顔を上げた。
紺色のセーラー服を着た少女が、今、大倉家の玄関をくぐるところだった。
「中学二年でしたっけ」
ぼんは言った。守野は無言でうなずいた。春休み中なのに制服姿なのは、きっと部活の帰りなのだろう。
確かにいやなものを見てしまったな、と彼は思った。これから殺すべき人間の家族の姿など、知らないほうがいいに決まっている。彼らにとって「対象」はただの「対象」であるべきだ。それ以上の人間性を感じるべきではなかった。
「中二ね。まだまだ蒼いつぼみってやつだな」
今井が「ひひひ」と笑った。ぼんは、今井の眼のなかに好色そうな光を見つけた。じわじわと怒りが膨れてくるのを自覚した。
「なあ今井」
守野が静かに言った。
「何ですか」
「今、俺の一番欲しいものがわかるか」
「……そう、キャッシュ、ですかね」
「そいつは二番目だ。今、この瞬間に欲しいものはわかるか」
今井は大倉家に眼をやった。そしてまた「ひひひ」と笑いをにじませた。
「穢れを知らない蒼いつぼみですかね」
「違うな」
守野の声はぞっとするほど冷たかった。が、今井はそれに気づいていない様子で、また「ひひひ」と笑った。
「ついこないだの仕事で使ったチャカが、今欲しい。もう処分しちまったがな。FNブローニング・ハイパワー」
「ああ、いい銃っすよね。グリップが大きすぎず小さすぎず、手にしっくり馴染むんです。9ミリ・パラベラム弾の破壊力もなかなかのもんだ。そいつで大倉を
「いや、違うな」
守野の両眼に鈍い光が宿ったことに、ぼんは気づいた。
「じゃ、何に使うんです?」
「中学生に
車内を沈黙が覆った。
やがて今井が口を開き、力無く「ひひひ」と笑った。
十四時二十四分
続いて彼らは、大倉の愛人の住むマンションに向かった。愛人の名は
彼女の住むマンションは、十二階建て。当然のことながら、オート・ロック式のエントランス・ホールには監視カメラがある。
守野は無言のまま、タブレット端末を今井に渡した。若い女をとらえた動画が表示されている。
「へえ、なかなかいい
今井は言った。ぼんは鼻をぐしゅぐしゅいわせながら、助手席の今井の肩越しに、写真を覗き込んだ。
確かに、月本陽菜は美人だった。望遠レンズで隠し撮りされた、手ぶれの多い動画だったが、それでも彼女が男心をそそる女であることは見て取れた。ぼんは、ふと同じマンションの「自称女子大生」を思い出した。彼女もまた、誰かに囲われている女なのだろうか。
二十一歳と言えば、ゆう子ちゃんとさして変わらない歳だ。もしかして二人は、中学や高校で席を並べていたかもしれない――とぼんは夢想した。同じ一人の男子生徒に思いを寄せ、張り合ったこともあり得たかもしれない。が、それから数年で、両者の人生は大きく隔たることになる。一人は豪奢なマンションに住み、親子ほども離れた歳のオヤジに養われている。もう一人は、ほとんど化粧っけもなく地味な服装に身を包み、日々デスクワークに励んでいる。
彼が二十一、二歳のとき何をやっていただろう、とふと考える。
そう、確か大学を中退してあちこちをふらふらと旅していた頃だ。社長に出会い、この稼業に足を突っ込んだのも、その頃だった。
「まずいな」
いつにも増して険しい守野の声に、ぼんの回想は中断された。
フロントグラスの向こう、一台の高級車が停まるのが見えた――紺色のレクサス。
「マジか。会社早退して、女のとこに直行かよ」
今井が鼻で笑いながら言った。
路上駐車されたレクサスから降り立ったのは、長身の中年男性だった。写真で見るよりも押し出しは立派だ。ややいかがわしい消費者金融の社長というよりも、紳士服量販店の広告に登場するモデルといったほうがふさわしいように見えた。
大倉は、彼らの乗った車に気づいた様子もなく、まっすぐにマンションのエントランス・ホールへ入っていった。
「ぼん、くしゃみするなよ」
守野は冷ややかに言った。ぼんは素直にうなずいた。助手席では今井が「ひひひ」と声を上げる。
大倉研二は、五分ほどで再び現れた。無論、愛人の月本陽菜を伴って。二人はレクサスに乗り込んだ。
「尾けるぞ」
守野はアクセルを踏み込んだ。紺色のレクサスから二十メートルほど間隔を置いて、彼らは尾行を開始した。
ぼんは下腹に心地よい緊張感を覚えた。これが、「特殊業務」なのだ。〈三ツ星出版〉の通常業務に就いている者たちには決して想像すらできない、特別な仕事を、彼は今行なっているのだ。もう花粉症の症状も忘れていた。
十五時四十五分
レクサスは都心を通り抜け、市を離れた。さらに国道を北へ三十分あまり走ると、道の両側にはちらほらと水田が見られるようになった。
「いったい連中、どこへ行くつもりなんだ?」
今井はいらいらと指先でサイド・ウィンドウを叩いていた。
「うまくないな、まったくうまくない」
守野は呟いた。バックミラー越しに、守野とぼんの眼が合った。
「あの二人が、ここら辺に来たことはなかったんですか?」
ぼんは尋ねた。
「はじめてだ。こんな町外れに買い物に出たとも思えん。まったく、予想外だよ。うまくない」
「じゃ、早々にやっちまいますかね」
今井が意気込んで言った。
「どこでだ? おまえさんは簡単に言うがな、下調べがついていない場所でやるわけにはいかん」
大倉のレクサスとのあいだに四台の車を挟んでいたはずだったが、いつしかその四台は道をそれてしまった。守野は車の速度を落とした。通行量の多い都心部の道路とは違い、郊外の小さな道での尾行は困難を極める。
レクサスはさらに脇道にそれ、東に向かった。片側一車線の道路は、やがてさらに幅が狭まり、センターラインもいつしか消えていた。周囲には、住宅よりも農地が多くなっている。対向車はほとんどない。レクサスとの距離は百メートルを超えていたが、そのあいだに他の車の姿はなかった。
「気づかれちゃいないですかい?」
今井が言ったが、守野は答えなかった。
「民家が少なくなったところで、一気にいっちまいましょう。カマ掘って、車ごと
「黙ってろ」
守野の声は低かったが、凄味があった。その言葉はぼんに向けられたわけでもないのに、彼は胃の下部が縮み上がるのを感じた。
「ったく、あの二人、何考えてやがんだ?」
今井はサイドウィンドウを開けて唾を吐いた。
「待て、連中、停まるみたいだ」
守野は息をひそめた。
彼の言葉通り、レクサスは前方の路上に停車した。その付近に民家はなかった。人影も、ない。道の片側には畑が広がり、反対側は雑木の茂った小高い丘になっている。緑色の木々のあいだから、コンクリート製の柱のようなものが垣間見えた。鳥居だ。丘の上には、神社があるらしい。
ハザードランプを点滅させたレクサスから、男と女が降り立った。二人は尾行者には気づいた様子も見せず、まっすぐに丘に足を向けた。すぐに二人の姿は雑木の陰に見えなくなった。
「こんなとこでお参りか。おかしな連中だぜ、まったく」
今井の言葉には何も言わず、守野はゆっくりと車を進めた。丘の手前、五十メートルほどのところで彼は停車した。
「降りるぞ」
「ここで、やるんすか?」
今井がにやり、と笑った。上下の歯の隙間から舌が覗く。守野は黙ったまま車のエンジンを止め、ドアを開けた。
「ぼんと今井は、二人のところに行って様子を探れ。そして五分で戻ってこい。俺はやつらのレクサスを調べてみる。いいか、勝手に『処理』しようと考えるんじゃない。とくに今井、おまえだ」
「ずいぶんと信用ないっすね」
「黙って行け」
守野の、冷ややかだが疑問も反論を許さない鋭さを秘めた声に後押しされるようにして、ぼんは今井とともに神社の鳥居に向かった。
この辺りには、杉の木が多いらしい。そう気が付いた途端、たちまち彼は、立て続けに四回くしゃみをした。声を殺したつもりだったが、ぼんは自分のくしゃみの音に、自分で縮み上がった。
「馬鹿野郎め!」
今井が吐き捨てた。二人とも鳥居の下で立ち止まり、様子をうかがった。見上げると、石段がまっすぐに続いていた。百段以上はあるだろう。大倉と女の姿は見えなかった。ぼんのくしゃみを聞きつけて姿を現す気配もない。
今井が上着の前を開いて、何かを探っていることに気づいた。
「今井さん、まさか……」
今井は「ひひひ」と笑い声を上げた。上着の下から出された彼の右手には、黒い塊が握られていた。
「今井さん、どうしてそれ……」
「だから、ぼんはトーシロなんだ。俺らの稼業は、いつ特殊業務が入るかわからねえ。備えが肝腎なんだよ」
今井は、子どもが新しいおもちゃを見せびらかすように、手のなかで拳銃、グロック17をちらちらと振って見せた。
「規則違反じゃないですか。銃器類は使ったあと返却しないと……。社長や守野さんは知ってるんですか?」
今井は「ふふん」というふうに鼻を鳴らすと、石段を上がり始めた。ぼんも慌てて彼の後を追った。
「なあ、ぼん、おまえに教えてやるよ。今、この業界にはライヴァルが増えてきてる。『生き馬の目を抜く』ってえやつだな。〈三ツ星〉みたいに、現場の人間に対して束縛が多いところは、仕事が遅い。クライアントがどんどん離れてるってこと、知っといたほうがいいぜ」
「でも、チャカからはいちばんアシが付きやすいって言うじゃないですか」
「俺は今までそんなドジ踏んだことはないね」
「今までって……そんなに前からチャカ持ち歩いてるんですか」
今井は答えなかった。
石段を登りきる手前で、二人は歩みを止めた。今井はグロックを構えると、足音を忍ばせてそっと石段を上がりきり、すぐに脇のカエデの木に身を隠した。ぼんも一度深呼吸をし、ティッシュ・ペーパーを両の鼻の穴に突っ込んだ。これでしばらくは垂れる洟水を押さえられるはずだ。そして彼は、今井が隠れたのと反対側のシイの木の陰に身を潜めた。
大倉と女は、本殿の賽銭箱の前に立っていた。二人とも手を合わせていた。
殺し屋に狙われていることも知らず、二人は神社の神様に向かって、何を祈っているのか。旅行の無事を? 二人の幸福を? ぼんは、急に口のなかに苦みが広がるのを感じた。
ふと見ると、今井がカエデの木の陰から身を出すところだった。今井は銃口を上に向け、やや腰をかがめるような姿勢で、大倉と女のほうへ向かい始めた。ぼんは狼狽した。二人に気づかれずに今井に声をかけることはできない。
今井は一度ぼんのほうを振り向いた。そして、にやりと笑ってみせた。ぼんは歯がみした――今井と守野、どちらを選択すべきか。
悩んでいる余裕はなかった。彼もシイの木から体を出し、大回りをして大倉と女に近づいた。「こと」の瞬間に、二人の注意をこちらにひきつけるつもりだった。
今井と大倉たちのあいだは、もう十メートルあまりしかない。今井が銃を構えた。銃口の向こうには、大倉の背中がある――
はずだった。
次の瞬間だった。大倉が振り返った。今井の存在に、とうに気づいていたかのように。
ぼんはとっさにダッシュした。左側から大倉と女に近づく。女がこちらを振り向いた。彼女もまた、彼と今井の存在をすでに知っていた様子だった。その眼のなかに驚愕の色はなかった。
銃声が轟いた。同時に、大倉が地面に身を投げる。
無我夢中で女に飛びかかった。両腕を女の肩にのばす。が、女が身を沈めた。彼の手は空気を摑んだ。次の瞬間、腹部に激痛が走った。彼は、信じられない思いで女を見た。女の拳が、彼の
二発目の銃声――こもった音だった。
グロックではない。ぼんははっと顔を上げた。
大倉が、銃を構えていた。おそらくその手に握られているのは、FNブローニング・ハイパワーであろう。銃口にはサイレンサーが取り付けられている。
今井の両眼が、驚愕で見開かれていた。
大倉が撃った。今井の体が揺らいだ。ぼんは、言葉にならぬ声を上げた。
さらに、大倉が撃つ。
今井の頭ががくんと後ろにのけぞった。同時に彼の後頭部が弾けた。赤い霧がぱっと吹き出す。
そのまま、今井は崩れ落ちた。
今井は、死んでいた。
ぼんはあえぎながら、今井の屍体を見つめた。口のなかはからからに乾燥していた。怒りでもない。哀しみでもない。恐怖ですらない。ただ、驚きだけが彼の頭を支配していた。
彼は放心したように、大倉に眼を向けた。次の銃弾が撃ち込まれるターゲットが何であるか、彼の朦朧とした意識でも、わかっていた。吐き気を催した。
ゆっくりと、大倉が近づいてきた。その横に、月本陽菜も並んだ。女の顔には、意外なほど優しげな笑みが浮かんでいた。死にゆく愚かな殺し屋への憐憫の笑みか。
「一発で、やれなかったのか」
背後から新たな声が聞こえた。振り返った。
「嘘、だ……」
ぼんはあえいだ。口を開いたが、それ以上言葉が出てこなかった。舌が発泡スチロールのように乾ききって、こわばっている。
守野が、歩み寄って来る。その口の端は、やや不愉快げにゆがんでいた。
混乱したまま、ぼんは守野と大倉を交互に見た。守野は、ぼんの姿が眼に入らないかのように彼の脇を通り過ぎて、大倉の前に立った。
「一発でやれと言ったじゃないか」
「面目ない。急所をはずした」
大倉は苦笑いし、FNブローニング・ハイパワーを守野に手渡した。それからぼんを一瞥すると付け加えた。
「それよりも、守野さん。この若い兄さんが大変だ。ハルナの正拳、まともに腹で受けたから」
月本陽菜がにっこりと笑みを浮かべてぼんに歩み寄ってきた。
「ごめんね、手加減する余裕、なかったの」
「ちくしょう……」
ぼんはうめいた。うめくと同時に、くしゃみが出た。
十七時十七分
「ちびらなかったのは、高く評価できるだろうな。社長にはそう報告しておく」
社へ戻る車中で、運転席の守野が、あくまでも真面目くさった声で言った。ぼんは憮然とした。
「まったく……」
言いかけたが、腹にびりびりっと痛みが走り、彼は顔をしかめた。
彼の隣で、「月本陽菜」がくすっと笑った。
「ごめんね、まさかあなたが飛びかかってくるなんて思わなかったんだもん。無意識のうちに、体のほうが動いてた」
「訓練の
助手席の「大倉研二」が冷ややかに言った。
「くっそー……」
ぼんはますます憮然とし、力無く呟いた。が、ふくれっ面をするのも大人げないと思い、彼はわざとらしくサイド・ウィンドウから外の景色を眺めた。くしゃみが立て続けに三回も出た。そのたびに痛みが腹に走る。
「今井さんの屍体、ほっといていいんですか」
ぼんは守野の後頭部につっかかるように言った。
「うちの処理班が今頃、後始末をやってくれてる。おまえらが神社の階段を上がってるあいだに、連絡しといたんだ」
「屍体の処理を? まだ何も始まっちゃいなかったのに?」
「迅速な行動こそが、いい業務結果を生む」
「あ、怒ってる?」
通称「月本陽菜」が無邪気な声で尋ね、上目遣いに彼を覗き込んだ。ぼんは口をとがらせ、わざと彼女を無視した。
「今井さんって、何者だったんですか? なんで『対象』になったんですか?」
「チャカだ」
守野が感情を交えずに一言だけ言った。
「ちょっと待ってくださいよ、守野さん。業務終了後も拳銃を返さないってだけで、殺られちゃうんですか、うちの会社では」
「馬鹿、そんなことじゃない」
苦笑いしながら大倉研二が振り向いた。
「やつは、返却しないチャカを横流ししてた。素人さんに」
さらに月本陽菜が付け加えた。
「ほら、先月の頭に、大学病院の外科部長が射殺されたって事件があったじゃん? 覚えてない?」
「さあ、知らないね」
ぼんは邪険に答えた。すると守野の鋭い声が飛んできた。
「日々そういった事件には敏感になっておかなきゃ、一流にはなれんぞ。ぼん、新聞はとってるんだろうな」
「とってないけど、ネットで読んでます」
「どうせおまえの読んでるのはテレビ番組欄とスポーツ欄と芸能欄じゃないのか?」
「そんなことないですよ」
いらだって語気を荒げたが、その瞬間に腹部に痛みが走った。ますます腹が立つ。
「で、その医者殺しに使われた銃が、うちのなんですね」
ぼんは腹をさすりながら尋ねた。
「ああ。おまえも知ってると思うが、警察にも俺たちの業務に協力してくれる人間がいる。そいつから来た鑑識の情報だが、調べてみると、うちが去年仕入れた銃とライフル・マークが一致した。それだけでも問題なのに、そこにつけ込もうというやつが出てきた。〈
「いえ」
「この業界への新規参入者だ。チャカ流出をネタに、うちをつぶそうとしてるらしい。すでに社員に接近してもいる。うちの情報を引き出したり、ヘッドハンティングしたり、あるいは逆に障害になりそうな社員の排除を画策している。すでにあっちに転んだ社員もいるらしい」
「そこで、社長が守野さんに内偵を依頼したんだ」
通称「大倉研二」が振り返って付け加えた。
「厭な仕事だったよ、まったく。何しろ、相手は身内だ。それにクロと出たときには、そいつを処理しなきゃならん。毎日会社で顔を合わせてるかもしれないやつを、だ」
「一つ、もっとも基本的なことを質問してもいいですかね」
ぼんは守野の後頭部に向かって言った。
「何だ」
「ここにいる『大倉』さんと『月本』さんは、何なんですかね?」
「わたしたち? わたしたちも、〈三ツ星出版〉の社員に決まってるじゃん。めったに出社しないから、あなたはわたしたちに会っていないだろうけど」
月本陽菜は言った。
「じゃあ、昼に見た家は? 中学生の娘は? いったい誰なんです?」
「さあねえ。俺もよく知らん」
大倉研二はこともなげに言った。
「知らんって、あんたの家と娘だったはずでしょ?」
「俺は見てないんだ」
ぼんは、今度は守野をぎろりとにらんだ。
「いや、俺も適当に選んだからな」
などと守野は無責任なことを言う。
「今井を殺すために、わざわざこんなお芝居をうつ必要があったんですか? 俺には納得できないんですがね」
「よっぽど腹に据えかねてるようね」
また彼女がくすっと笑った。ゆう子ちゃんの笑みのほうがよっぽど魅力的だぜ、と彼は言おうかと思ったが、言わなかった。
「だいたい七割の人間が、怒る。二割が笑い出し、一割が泣いてこの仕事を辞める」
守野が言った。
「七割って、どういう意味ですか?」
「まだ、わかんないの?」
月本陽菜が顔を近づけて覗き込んできた。そんな顔にだまされはしないぞ、と彼はわざと唇をゆがめ、脇に眼をそらした。
「わからないって、何が?」
助手席の大倉研二がぼんを振り返った。
「おまえ、聞いていないのか、研修のことを?」
「はあ?」
「半期に一度の『特殊業務研修』のことじゃない。抜き打ちにやる臨時研修だ」
そういえば、確かにこの稼業に足を踏み入れて間もない頃、社長から聞いた覚えがあった。ある程度業務に慣れてきた頃、彼もしくは彼女の特殊業務従事者としての資質を再確認・再評価するために、抜き打ちで『臨時研修』が行なわれる。それは極めて難しく、例年何人もが研修をクリアできず再研修を受けることになる。あるいは、クリアできたとしてもこの稼業の厳しさに音を上げて脱落する、とのことだった。
「じゃ、これって……」
「そうだ。おまえさんの抜き打ち研修でもあったんだ」
「じょ、冗談でしょう……! だって、実際に、今井さんを殺してるんですよ。それで、『研修』だなんて」
「おいおい、それがどうした。社長はずいぶんと高く買っていたみたいだが、見立て違いか」
「うちの会社の研修は厳しいの」
「あんたも、研修を受けたのか?」
彼は憮然とした表情で尋ねた。
「受けたよ、もちろん」
「彼女の場合は、二割の場合だった」
守野が言った。
「つまり……笑った……?」
ぼんはあきれ気味に尋ねた。月本陽菜は、悪びれた様子もなく、肩をすくめた。
「だって、眼の前でおばさんがイングラムで蜂の巣にされたんだもん。現実のこととは思えなくて、笑っちゃった」
「そのあと何時間かしてから、我に返って、わんわん泣いたんだがな」
助手席の大倉研二が言うと、月本陽菜は赤面して口の端をゆがめた。
ぼんは大きくため息をついた。それだけでも腹が痛む。垂れてきそうな洟水とティッシュで拭った。
「くっそぅ、なんてこったよ」
ぼんはティッシュで鼻をかんだ。鼻の頭が赤く腫れてひりひりと痛かった。彼は月本陽菜を向いた。
「あんたも俺の『評価委員』ってわけ? 俺とたいして年も違わないみたいだけど、あんた、そんなに偉い立場なのかい?」
「べつに偉くはないよ。ただ、あなたより経験があるってだけ」
「経験? 失礼だけど、あんた、いくつなの?」
「女子に歳を訊く男って、最低」
そのやりとりと聞いてにやにやした大倉研二が、ぼんを振り返った。
「十五でこの業界に入った娘だ。おまえさんは敵いっこないよ」
「いやはや、まったくもー」
ぼんは嘆息した。
十九時二十分
社に戻り、三階のフロアに上がると、ゆう子ちゃんが帰り支度をしているところだった。
「お疲れさまですね」
ゆう子ちゃんはぼんを見てにっこり笑った。一日に三度も彼女の笑顔を見ることができるなんて、めったにないことだ。ほんとうなら狂喜すべきなのだろうが、彼の気は晴れなかった。
「今日の外回り、どうでした? なんだか疲れてるみたいですけど」
「そう、とっても疲れちゃった」
情けない気分でゆう子ちゃんに答えた。彼女に、今日あった出来事を洗いざらいぶちまけたくなった。彼女にだけではない。今、一階から三階にいるすべての〈三ツ星出版〉社員に、会社が日の当たらない場所で行なっている業務のすべてを暴露してやりたかった。
ぼんはそのときの光景を夢想しつつ、業務日報に今日の業務を記録した――午後より特殊業務。
「社長は、いる?」
「六時前に、なんだか緊急の用件だとかで、外に飛んでっちゃいましたけど。大事な用ですか?」
「そう、めっちゃ大事な用。怒鳴り込んでやろうかと思ったんだけど」
「うーん、残念。今日は社に戻ってくるかわからないそうです」
「まったく、疲れる仕事だよ」
「デスクワークだって疲れるんですよ。週に五日、毎日毎日パソコンのディスプレイと向かい合ってるのもきついんです」
「そうだ、ゆう子ちゃん、もしもよかったら今日――」
ハンドバッグを抱えて立ち上がるゆう子ちゃんに声をかけたときだった。エレベーターのほうから、彼の名を呼ぶ声があった――女の声。厭な予感を胸に、振り返った。
案の定だった。
帰宅したはずの月本陽菜が手を振っていた。にっこりと笑みを浮かべ、まるで恋人を迎えに来たかのような表情だ。
「あれっ、月本さん、今日は出勤日じゃなかったはずなのに」
言いかけたゆう子ちゃんは、ふとぼんのほうを向き、小さくうなずいた。「あ、そういうことだったのか」とでも言うように。
「あ、いや、決して『そういうこと』じゃあ……」
「じゃ、お先に失礼します」
ゆう子ちゃんは軽く頭を下げた。感情を混ぜない、極めて事務的な仕草。タイムカードを押し、エレベーターの前で一度立ち止まると、月本陽菜にも頭を下げ、エレベーターの箱に乗り込んで、ゆう子ちゃんは去った。
ぼんは手招きする月本陽菜につかつかと歩み寄った。
「あんた、ほんとに月本陽菜って名前だったのか」
「そうだよ、いけない?」
「べつに。で、何の用?」
「緊急事態。そんなに怒った顔しないの。人の恋路の邪魔をするつもりはないんだから」
「やかましいわ」
「あなた、狙われてるよ」
「はあ?」
月本陽菜は、ちょうど到着したエレベーターの箱の中に、彼を突き飛ばすようにして乗り込ませた。一階に着くと、彼女はぼんの腕を摑み、〈三ツ星出版〉の前に路上駐車された軽自動車に彼を押し込んだ。外の空気を吸った途端に、花粉症の症状が激しくなった。くしゃみを連発する彼を、月本陽菜が冷ややかに見ていた。
「さっき言ったでしょ、新規参入の〈仁田エンタープライズ〉。あそこが、あなたを狙ってる」
「へえ、そいつは光栄なことだな。スカウトマンが来るのかな」
「そっちじゃない。あなたの名前が、あっちの排除対象者リストに載ってるの! この数週間のあいだ、あなたは見張られていたみたい。〈仁田〉の調査をしていた社員から、社長のほうについさっき連絡があった」
月本陽菜は何か分厚く重たい物体の入った書類封筒を彼に手渡した。のぞいてみる。すぐに彼は月本陽菜の顔を見つめた。
「うわ、マジみたいだな」
「そう、マジ。緊急事態だから、使用届はあとでいいって。あなたのやり方に任せます。でも、うちの社員が陰ながらサポートするから、安心しなさい」
そこまで言うと、月本陽菜は彼を車から追い出した。
「送っちゃくれないのかよ?」
「いつもママチャリでしょ。普段通りの行動をしないと相手に怪しまれる」
「あと一つだけ」
「何?」
「ポケット・ティッシュある? 切れちまった」
十九時五十八分
ひりひりする鼻の頭に閉口しながら、彼は六時過ぎにようやく自宅のマンションに着いた。両腕、両足が痺れるくらいに疲労しきっていた。いつもは階段で四階まで上がるようにしているが、今日はエレベーターで構わない。エレベーターの箱に乗り込んだ。
ドアが閉じかけたとき、入り口に人影が見えた。彼は「開」のボタンを押して、待った
「ごめんなさぁい。今、お帰りです?」
自称女子大生はにっこりと笑って彼に尋ねた。しなを作るのも忘れない。
「お互い、忙しそうですね」
自称女子大生は、朝とは違う紺色のミニ・スカートをはいていた。バッグもまた、朝とは異なるブランドのものだった。ブラウスの胸元のボタンは、二つも開けている。こりゃ眼福だな、とぼんは思った。
「ほんと、レポートだの何だのって、いっぱいあってたいへん。晩御飯って、食べました?」
期待するような眼で彼を見上げてくる。ぼんは頬と唇をゆるめた。
「まだですよ。っていうか、今日は昼飯もまともに食べてないんで。よかったら、外で食べないですか? 俺、おごりますよ」
「ほんとぉ? 嬉しい! わたし、いいお店知ってるんですぅ。こないだ友達と行ったバルなんですけど、お酒もお料理も美味しいんですよぉ」
四階にエレベーターが停まった。ドアが開いたが、彼女は腕を伸ばし、「閉」のボタンと「1」のボタンを押した。その瞬間、彼にしなだれかかるように体を近づけてきた。胸の二つの隆起が彼の腕に押しつけられた。Fカップ、いやたぶんGカップだな——ぼんは予想した。
「あ、ごめんなさい」
そう言いながらも、彼女はさらに体を彼に預けてきた。彼は無言のまま、その腰に左腕を回した。
香水の匂い。見上げる彼女の眼は潤んでいた。濡れた半開きの唇。つやつやと光っている。
二人の動きは、ほとんど同時だった。
しかし、銃声は同時ではなかった。
彼の腕のなかから、力を失った自称女子大生の体がずり落ちていった。続いて、がつんという金属音。彼女の手に握られた銃が、エレベーターの床に落ちたのだった。時代遅れの、旧ソ連製トカレフの中国版コピー品だ。〈仁田エンタープライズ〉は、あまりいい銃を使用していないようだ。彼は茶色い書類封筒のなかに右手を突っ込んだまま思った。
ゆっくりとその手を出した。〈三ツ星出版〉が支給してくれたのは、シグ・ザウエルP226だった。まだまだ〈三ツ星出版〉の業界での地位は安泰だな、と彼は内心でつぶやいた。
エレベーターのドアが開いた。
守野が立っていた。見知らぬ二人の若い男が背後に控えていた。「処理班」の者だろう。男の一人が素早く彼からシグ・ザウエルをひったくると、もう一人がエレベーターの箱に乗り込んだ。
「あとはあの二人が処理する。おまえはこれから俺と社に戻るぞ。〈仁田エンタープライズ〉対策の会議があるからな」
「一つ、訊きたいことがあるんですけど」
「何だ?」
「今の仕事、特殊業務手当出るんですよね」
守野は呆れた顔になった。
「そりゃ、出るんじゃないのか。ちゃんと仕事したわけだしな」
「それに、残業手当も出ますよね」
「いちいち心配するな。知りたきゃ、社長に訊け、社長に」
ぼんはため息をついた。まだ、彼の月曜日の仕事は終わらないようだった。
殺し屋は月曜日に寝坊する 美尾籠ロウ @meiteido
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