第五話 一泊の宿
劉星と別れてから幾日目が過ぎた。今は帰路の道中であり、俺と林沖は小さな田舎町の宿場にいた。
銅貨三枚で部屋一つ借り受け、俺は窓際で一羽の鳩が下りてきたのを捕まえた。
鳩は馴れているのか暴れない。右足に結ばれた布の切れ端を解いて、俺は鳩を解放してやる。飛ばない。命令を待っているのだ。ならその前に恩賞を与えなくてはならない。彼の為に用意していた麦粒をやると、それを啄み始める。腹が空いていたんだなと思う。
部屋の中心に置かれた間仕切りの屏風。俺のいるのは部屋の右半分。反対側の左半分では、今、林冲がお湯を運ばせて、身体を拭いている最中だ。何日も風呂に入らず、川で水浴びもできずにいた。それだけ急いでいたのだ。
この宿に泊まる事も林沖は始め、反対していた。それを何とか説得して泊まることになった。
俺も林沖も自覚している以上に疲労が溜まっているのだ。倒れてしまえば、元も子もない。
切れ端の布を広げて、書かれた文字に目を通す。といっても、俺は文字が読めない。勿論、元の世界の日本語なら読み書きはできる。だが、この世界の文字は読めないし話せない。
けれど、俺は林冲と会話ができる。劉星の言葉も理解している。
俺には『言葉解』という首に巻いた襟巻きがある。これは仙人が作ったとされる道具で、相手の言葉を理解し、相手に自分の言葉を理解させる効果がある。これがなければ、俺は数日と経たずに野垂れ死にするだろう。
「七夜。何かあったのか?」
「伝書鳩がきた。この印は….おそらく普漂(プー・ピァオ)様だと思うが」
「普漂?確かなのか?」
「俺は文字が読めない。ただ、普漂様の押す印と似ている気がするだけだ」
「分かった。すぐに確認する。少し待っていろ」
言われるまま、俺は林冲が出てくるのを待つ。
それにしても本当に普漂様からの伝書鳩なのだろうか。確信を持てない自分が情けないと思うが、数年間、猛勉強した結果だ。
文字を教え貰った師曰く、『生まれた世界が異なれば理も異なる。お前はこの世界で生まれた訳ではない。故にこの世界の理を理解できぬのだ。これは生涯、どうにもならんだろう』と嘆息と共に告げられた。
それでも文字を書けないままでは迷惑をかけると努力したが、出来るようになったのは自分の名前を書くだけだ。それも、かなり汚い文字である。
「待たせたな」
急いで身体を拭って衣服を着たのだろう。普段の凛々しい身なりではなく、中途半端な身なりで林冲は窓際に足を運んだ。
結い上げている長い黒髪は自由に解放されたまま、風に揺れている。水滴がポタリポタリと床に落ちてはシミをつくりだしていた。
(らしくないな。やっぱり、不安なのか)
切れ端の布を林沖に渡して、俺は彼女の横顔を見た。
美しい顔立ちだ。とても武芸に身を捧げた人間とは思えない。それでも、その細くしなやかな肉体は鍛えられたもので、雌豹のような強さを感じる。
「それで、何て書いてあるんだ?」
「紅布の賊将、ファピウスとマクシムスが潁川郡で大敗した」
「それは朗報だ」
「皇甫援(ファン・フー・ユエン)殿と秦佐久名(はたひさな)殿が指揮を執っていたようだ。二人共、生粋の武人ではないが実力のある方々だ。賊軍には後れを取らなかった」
俺は首を傾げた。
林沖の表情がよろしくない。むしろ、顔色が僅かに悪くなっているぐらいだ。
「林沖?」
「だが、盧生(ルー・シォン)殿が都に呼び戻されたらしい。それも、帝の勅命で、合戦を故意に長引かせ、敵と通じているとの疑いで」
「なんだって?」
あの実直な性格で知られる盧生が、と俺は思わず声を上げた。
「あぁ。監獄車に乗せられ見世物のように護送されたと書いてある。詳細は書かれていないが、視察に来た宦官と一悶着あったようだ」
「盧生様なら黙っているわけないな」
「父上が朝廷に直言を申し入れにいくと言ったが、普漂達が思い留まらせてくれたようだ」
「……そうですか」
安堵の溜息を吐いたのは俺だけでなく林沖も同様だった。
宦官と衝突したとといえど、それで帝の勅命が下されるとは信じられない。ならば推測は簡単だ。一宦官がそのような立場にあるはずがない。ならば、考えられるのは十常寺である。その一派の宦官であったのだろう。
宮中にいる宦官達は、完全に十常寺の手中に落ちた。抗える者はいない。
「文の内容はそれで全てか?」
「ああ」
「……….おかしいな…」
「七夜もそう思うか?」
「盧生殿が呼び戻されたなら、後任の指揮官がいるはず。それについて何も書かれていないというのは不自然だ」
「伝書鳩を飛ばすまでには、決まらなかったということか?」
「それは考え辛い。十常寺が絡んでいるなら後任の将軍は用意しているはずだ。彼らは抜け目ない」
「だとすれば……あえて、名を書かなかった?」
「…….恐らくは。それだけ警戒する必要がある危険な人物なのかもしれない」
「………………まさか…………..」
ハッとした様子で林沖は眉をひそめた。
誰か心当たりがあるような顔だ。しかし、すぐに首を横に振って考えを振り払った。
「いや。そんなはずはない。奴は近衛騎兵連隊長に任じられたと聞いた」
「奴?」
「なんでもない。気にするな」
林沖の口に出すのも嫌そうな表情に、俺はそれ以上聞く事はしなかった。
その日の夜。俺も林冲も早めに休むことにした。情勢は刻々と動いている。一日でも早く帰路の旅を終える必要がある。その日程を少しでも縮める為にも体力の回復を図るのだ。
簡素な作りの木の寝台。敷物などない。剥き出しのままだ。俺は外套を敷物代わりにして横になる。
それにしても十常寺一派の腐敗ぶりは留まる事を知らない。遂に前線の将兵にまで触手を伸ばしてきていたとは。
その方面は林江様や軍の有力者が頑として守っていたある種の聖域でもあったのだ。盧生が捕らえられた事は、それが破られた事を意味している。
(最大の懸念は、十常寺と筆頭大将軍である阿新の全面衝突。不倶戴天の政敵同士。お互いに殺したくて仕方がない相手だ。その場合、宮廷の警護軍の禁旅八旗を取り込むべく動くだろう。林江様も、今までのように中立を盾に拒むのは難しくなる。相手も必死になれば、どんな過激な手段に訴えるかわかったものじゃない)
この世界に召喚されるまで、一般人だった俺は政治に疎い。
元の世界にいた頃でも無関心だった訳ではない。選挙には必ず行って投票していたし、ニュースもネットで見ていた。
ただ、ここまで身近で自分や誰かの安否に関わるほど深く踏み込んではいなかった。今の俺は林江様に仕える立場にある。懐柔しようとすり寄って来た奴は何人もいた。
俺の行動、言動一つで林江様や林沖、小倩。そして仲間達の命が危険に晒される。
(何か……嫌な予感がする。林江様達というより、俺と林沖に何かが起きるような、そんな嫌な予感がしてならない)
胸中の不安を拭いきれないまま、俺は眠りに落ちた。
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