第3話 楓と南

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 あたしは幼い頃から村外れでお母さんと二人暮らしをしていた。

 お父さんはいない。あたしがまだ赤ちゃんだった頃に、仕事帰りに交通事故で死んでしまったらしい。大型トラックに轢かれて即死だったそうだ。

 お父さんがいなくなってからの暮らしは、決して裕福なものではなかった。底辺から数えた方が指が足りるんじゃないかってくらいの貧乏暮らしだった。

 御飯は一日に一回だけ。冷えた麦飯に、山で拾い集めた梅の実で作った梅干が一粒。それだけ。たまに漬物が一切れとか食卓に出てくると、それはあたしたちにとっては嬉しい御馳走になった。そんな食生活だった。

 お母さんは、朝から夜遅くまで仕事をして少ないお金を稼いで、あたしを育ててくれた。そんな余裕なんて全然なかっただろうにって今なら分かるけど、学校にも通わせてくれた。あちこちの家に頭を下げて、もう着なくなったっていう子供用の服を貰ってきてあたしにくれた。だからあたしが持っていた服はお下がりの古着ばかりだったけど、着る服が何着もあることがあたしにとっては嬉しかった。

 やがて、中学に通う年齢になった。

 でも、そんなお金など、あたしの家にはなかった。この頃には多少は家の経済事情が理解できるようになっていたから、あたしは、お母さんがあたしの学費のことで凄く悩んでいたことを子供心ながらに察していた。

「お母さん、あたし、中学校に行けなくてもいいよ。お仕事探して、働くよ。それでお金を稼いでお母さんを助けてあげるから」

 あたしはそう言ったのだが、お母さんは「学校はちゃんと高校までは行かせてあげるから」と答えるばかりだった。

 そんな時だった。あたしの前に、八雲南が現れたのは。

 南はあたしにこう言った。

「あんたが私の友達になってくれるなら、私がパパとおじいちゃんに頼んであげる。あんたが学校に行くためのお金を出してあげてって」

 これがあたしと南の出会いだ。

 当時のあたしは、この子は何て優しくて親切な子なんだろうって思った。この時南が笑顔の裏で何を考えているかなんて、そんなことなど知る由もないのだった。

 あたしは南の誘いを受け入れて、南と『友達』になった。約束通りにあたしの家には八雲家からの援助金が贈られて、あたしは中学に通うことができるようになった。

 あたしと南は、いつでも一緒だった。

 あたしが誰か別の友達とお喋りしていると、何処からともなく現れては、あたしをそこから連れ出した。そして、決まってこう言うのだ。

「あんたには私っていう友達がいるんだから、私以外の友達なんて今更いらないでしょ?」

 南はあたしが他の子と楽しそうに喋っているのを嫉妬しているのかと思った。この頃の歳の女の子は色々と多感だから、ひょっとしたらそういうこともあるのかもしれないと当時のあたしは考えた。

 今のあたしがこの学校に通えているのは南のお陰……南の存在を無碍にしたら、あたしはきっとこの学校にいることができなくなってしまう。

 いきなり学校に通えなくなったなんてことになったら、お母さんは悲しむだろう。あたしは、お母さんだけにはそんな顔はさせたくなかった。

 あたしは南の言葉に従って、それからは南以外の子と話すのをやめた。授業以外の時もなるべく教室の片隅で大人しくしていて、南から声を掛けられるのを待つようになった。

 最初はあたしと仲良くしてくれていた他の友達も、そんなあたしを見て徐々にあたしから距離を置くようになった。

 気付けば、あたしが『友達』と呼べるのは南以外には一人もいなくなっていた。

 南は、普通に色々な子とお喋りして、あたし以外の友達もたくさんいるのに、あたしはいつも一人……あたしは、時々南の方から気紛れに話しかけられるのを待っているだけの、学校一地味で目立たない女の子になっていた。

 誰とも話ができないあたしにとっては、空想することが唯一の楽しみだった。

 色々なことを想像しては、それを言葉にしてノートに書き記した。最初は単なる走り書きだったものが、次第に文章になっていき、小説へと変わっていった。

 小説を書くのは、楽しい。書いている間だけは、あたしは地味で目立たない存在じゃなくて、色々な物語の主人公になれるのだ。その感覚がこの上なく楽しかった。

 世の中には、小説家という小説を書いてお金を稼いでいる人たちがいるという。何て素敵な仕事なのだろう。まさに自分のためにあるような仕事じゃないか。

 そうだ、あたしは小説家になろう。あたしの書いた小説を本にして、それでお金をたくさん稼いで、お母さんと幸せに暮らそう。

 あたしに『小説家になる』という夢ができた瞬間だった。

 あたしは小説を書くために、色々な本を学校の図書室から借りてきてはそれを読んで勉強した。文章の書き方、言葉の知識……その努力の甲斐あって、あたしは山のような知識を手に入れた。小説を書くための勉強になるならば知識の種類は何でもいいと言わんばかりに色々なものに手を出した結果、いつの間にかあたしは大学生すら顔負けなほどに頭が良くなっていた。先生からは、この調子なら東大に入ることも夢じゃないかもしれないと褒められた。

 あたしは東大になんて興味はなかったけれど、良い学校に通うことは悪いことじゃないと思った。学費は、奨学金制度を利用すれば工面することができる。奨学金は在学中に良い成績を修め続ければ返す必要がなくなるから、上手くいけば学費のことでお母さんを悩ませることはなくなるだろう。

 あたしはそれから一生懸命勉強して、試験で良い成績を取り続けた。試験の度に廊下には『成績優秀者』としてあたしの名前が貼り出されるようになった。

 それを見て、南は言った。

「楓は本当に凄いわね。どういう勉強をしたらこんなに凄い成績が取れるのよ」

「……あたし、勉強しかしてなかったから……別に、特別なことなんかじゃないと思うよ。誰でも、同じくらいの成績は取れると思うよ」

「そっかぁ。……ところで楓、もうすぐ進路を決めなきゃいけないじゃない? 何処の高校に通うかって。私、成績悪いから……今のままだと何処の高校にも受かりそうにないのよね」

 彼女は飄々とした様子でそのようなことを口にして笑いながら、強請るようにあたしに問いかけたのだった。


「ねえ、楓。あんた、私のふりをして、私の代わりに入試試験受けてきてくれない? あんたの頭なら、何処だって余裕で受かるでしょ?」


 とんでもない要求だった。

「……何を言ってるのよ、南。あたしと貴女じゃ顔が違うんだからすぐにバレるわよ。それに、そんなことをしたら、あたしが試験を受けられなくなっちゃうじゃない」

「何だ、そんなことを心配してたの? 馬鹿ねぇ、楓は」

 あたしの言葉を、南は何でもないと言うように笑い飛ばして。

「楓は来年受験すればいいじゃないの」

 ……その言葉を聞いた瞬間、あたしは奈落の底に突き落とされたような感覚を受けた。

 あたしは、毎日ぎりぎりの生活をしながら必死に毎月の授業代を工面してるっていうのに。お母さんがぼろぼろにくたびれた体を無理矢理働かせて一生懸命稼いでくれたお金で、やっと通学している状況なのに。

 そんな理由で留年させられるなんて、御免だ。これ以上お母さんに余計な負担は掛けさせたくないのに、更に負担を増やすような真似なんて、できない……!

 この時、あたしはようやく気付いたのだった。南は、あたしのことを『友達』だなんて言っておきながら、実際はそんなつもりなど全くなかったのだということに。

 南は、自分の思い通りに動く忠実な『犬』が欲しかっただけなのだ。たったそれだけのために、あたしから他の友達を取り上げて、淋しい中学生活を強制させてきた。あたしが必死に淋しさを紛らわせながら今まで生きてきたことに、この女は全然興味などないのだ。

 もう、南の傍にいるのはやめよう。これからは一人で自由に生きるんだ。

 意を決して、あたしは南に告げた。

「……南、あたしは貴女の奴隷じゃないの。貴女があたしをそういう風に扱うのなら、あたしは貴女の傍には金輪際近寄らない。勝手に浪人でも何でもすればいいじゃない。自分で自分のことをやろうとしなかったツケよ」

「……ちょっと、何なのよその態度! せっかくこの私があんたみたいな冴えない子と友達でいてあげたっていうのに! その恩を仇で返すっていうのね!?」

 中学の入学金を工面してくれたのは素直に感謝しているが、たったそれだけのことで人生全てを捧げるつもりはない。

 あたしは南を残してその場から立ち去った。背後から金輪際なんて意味不明な言葉使うんじゃないわよって頭の悪い罵倒が聞こえてきていたが、無視をして南に永遠の別れを告げたのだった。


 その日を境に、あたしと南の間にあった偽りの友情関係は消滅した。

 これで、あたしは自由だ。今度こそ、あたしは自分の思った通りに生きて、幸せになってみせる。そしてお母さんも、絶対に幸せにしてあげるんだ。

 学校に進路希望を提出する時が来て。あたしは、書類を進路指導の先生へと提出した。

 あたしが希望するのは、此処らでは偏差値がそれなりに高くて有名大学や有名大手企業への就職率も高いと評判の高校だ。家からは通うには無理のある距離にある学校だったが、幸い学生寮が併設されているところなので、無事に入学できたら寮生活を始めればいい。高校生になればアルバイトもそれなりに見つけられるようになるから、生活費くらいは自力で工面することができるだろう。お母さんはあたしが実家を離れることを心配していたようだったが、最終的にはあたしが選んだ道なんだから胸を張って進みなさいとあたしを応援してくれた。

 書類に目を通した先生は、気難しげな顔をした。

「……確かに、黒霧さんの成績なら十分に合格できるだろうけどね……先生は、君が通うのにもっと相応しい高校があると思ってるんだ。そっちに通ってみてはどうだい? 自宅からも通える距離だから、その方が良いと思うんだけどね」

 そう言いながら先生が取り出したのは、ある高校の資料。そこには大きな字で学校名が書かれていた。

 『杉森農業高等学校』

 この村にある高校で、農業関係の勉強を専門に教えている学校だ。偏差値は全国的にも最底辺に位置しており、あまり良い成績を修めていない生徒が滑り止めとして受験するような、そんな学校である。

 あたしの現在の成績を考えたら、まず進学先には選ぶことがないような高校だ。

「……どうして、此処を? あたしの成績なら、もっと上の学校でも狙えるはずです! それなのに」

「何故って……君が通うに相応しい高校だってさっき説明しただろう? 確かにレベルは低いかもしれないが、悪い学校ではないよ。君の家庭は裕福な方ではないだろう? 余計な通学費用や生活費を発生させて生活を圧迫させるよりは、その方が無理して程度の高い学校に通うよりも良いと先生は思うがね」

 その日以降、先生はあたしの進路相談を一切受け付けてくれなくなった。

 それどころか、あたしが受験する高校は既に決まっているんだとでも宣告するかのように、勝手に書類を纏められて受験のお膳立てをされてしまった。あたしの成績が良かったお陰で推薦入試が受けられるように計らってはくれたけど、この強引とも言える学校側のやり口に、あたしは不信感を募らせた。

 どうして? あたしの家が貧乏だから、良い学校に通う権利すら貰えないってことなの?

 誰もいない廊下で一人で悩んでいると、いつの間にか南があたしの横に立っていた。

 彼女は気味が悪いくらいににこやかな顔をしながらあたしの傍に近付いてきて、親しげにあたしの肩を叩いた。そして、こう告げたのだった。

「私、楓と一緒の高校に通うことができてとっても嬉しいわぁ。必死に神様にお願いした甲斐があったわね! やっぱり私と楓は、一生の友達なのよ。きっと片時も離れちゃいけないって神様が仰ってくれてるんだわ! ……だから、これからもずっと宜しくねぇ?」

 どうして南があたしの受験先を知ってるの?

 あたしの疑問は、南の怖い笑顔の前には出すことができず、胸の奥底へと押し込まれてしまった。


 こうして、あたしは自分が行きたいと全く考えたことすらなかった高校へと進学することになった。

 高校は、中学以上に学費が必要になる。お母さんはそのお金を稼ぐために今まで以上に必死になって働いた。帰宅が夜遅くになることも多くなり、お母さんは疲れ切った顔のまま毎日職場へと働きに出かけていった。

 お母さんの負担を少しでも減らそうと、家事はあたしが全面的に引き受けることにした。炊事、洗濯、あたしができることは何でもやった。お母さんは家のことを何もできなくてごめんねって謝ってたけれど、あたしはそんなこと気にしなくていいから無理はしないでねって笑っていた。

 あたしの方こそ、ごめんね、お母さん。いい高校に進学できてたら、お母さんもみんなにあたしのことを自慢できたのに。あたしが大人になったら、お母さんにこんな苦労をさせる必要もなくなったかもしれないのに。本当に、ごめんね。

 卒業式を迎え、あたしは中学を卒業した。

 入学式まで、残り一ヶ月。それまでに新しい制服とか鞄とか靴とか、必要なものを揃えなきゃ。またお金がかかる。本音を言えば自分が行きたいと思ってない学校に通うためのお金なんて一円も使いたくはなかったけれど、仕方のないことだ。

 身分上ではまだ中学生だから、アルバイトなんて殆ど見つからないだろうが、少しでもお金を稼ぎたい一身で、あたしは村中の店という店を歩いて巡って中学生でもできる仕事を探した。

 そんな時だった。まだ昼間だというのにいきなり帰ってきたお母さんが、まるでこの世の終わりみたいな顔をしながらあたしに言ったのは。

「お母さん……お仕事、クビにされちゃった」

 あまりにも唐突な上に、何故そのようなことになったのか全く分からないという。お母さんは職場に理由を問いただして今自分が仕事を失ったら生活ができなくなると必死に訴えたらしいが、職場の偉い人はそれを全く聞き入れてくれなかったという。

 一瞬にして無職になってしまったお母さんは、すぐに次の仕事を探し始めた。色々な求人広告を見て回り、採用基準を満たしていると分かるや否やすぐに採用面接を受けた。

 しかし、お母さんを雇ってくれる会社はなかった。お母さんはまだ四十代前半だから、そりゃ新卒の若い人と比較したら歳を取ってはいるけれど、採用を渋るほどに年寄りってわけでもない。そもそも採用資格のところに四十代でもいいって書いてあるんだから、少しくらいは雇うことを考えてくれたっていいと思うのに。

 どれくらい、採用面接で落とされたか分からない。もう数えるのも面倒なくらいに、面接を受けに行ってはその場で落とされるということを繰り返し、次第にお母さんは家で塞ぎ込むようになっていった。全然仕事が見つからないのは自分が悪いからだ、と口癖のように繰り返すようになり、遂には採用面接を受けに行くことすらしなくなってしまった。

 あんなに笑顔が素敵で、どんなに辛いことがあっても私には笑いかけてくれていたお母さんの面影は、もうそこには全然残っていなかった。

 ──それから、入学式まで残り一週間を切った、ある日。

 朝目を覚ましたあたしが台所に行くと、お母さんはそこで仰向けの状態で倒れていた。

 床に広がる、夥しい量の血。首に真一文字に刻まれた、ばっくりと口が開いた大きな傷。手には、血まみれの包丁が力なく握られている。

 調理台の上に、小さなメモが置かれていた。そこには、お母さんの筆跡で、短くこう書かれていた。


『駄目なお母さんで、本当にごめんね』


 あたしは悟った。お母さんは自殺したのだと。

 自分が前の職場を解雇されたのも、毎日の生活が苦しいのも、全部自分のせいなんだと決め付けて、絶望しながら死んでいったのだと。

 天国にはお父さんがいるだろうから、これでお母さんは淋しくはなくなったのかなとはちょっとだけ思ったけれど。

 ……それでも、あたしを置き去りにしないでほしかった。

 あたしは泣いた。涙が枯れるまで泣き続けた。

 家にはお金がないから、お葬式をしてあげることもできなかった。お母さんは誰にも見送られることなく、一人淋しくお墓の中へと入っていった。お母さんを火葬にして納骨する費用だけは、お母さんの死を知って遠くから来てくれた親戚の人が工面してくれたから何とかなったけど、これであたしは正真正銘独りになってしまった。

 こうなってしまっては、とても高校に通ってなどいられない。お金もないし、生活費を稼ぐためにアルバイトもしないといけないから、時間的な余裕もない。

 元々自分が行きたいと思っていなかった学校だし、思い切って入学を辞退してしまってもいいかもしれない。そうなればあたしには中卒という学歴が一生経歴に付いて回ることになるけれど、生きるためには仕方ないことだって思う。世の中には中卒でも立派に仕事をしている有名人だっているくらいだし、あたしだって、頑張れば中卒でも生きていけるのだ。

 そう決意した時、南があたしの家を訪ねてきた。高級車であたしの家の前までやって来た彼女は、お悔やみの言葉を述べながら、こう言ったのだった。

「……あんたのお母さん、急にお仕事を辞めさせられちゃったんですって? それが原因で自殺しちゃったんでしょう? 可哀想に、楓……でも、安心して。あんたの面倒は、私が見てあげるから。パパにお願いして、学費も生活費も用意してあげるわ。だから落ち込まないで。ああ、御礼なんていらないわ、ただ、変わらずに私の友達でいてくれれば、それだけで私は十分よ」

 それは、既視感のある光景。

 あの時この誘いに乗ったから、あたしは三年間の中学生活を台無しにしてしまった。

 また同じことを繰り返すわけにはいかない。あたしは、もう二度と南の奴隷になるなんて御免だ。

「……ありがとう、南。でも、あたしなら大丈夫だから」

 感謝しているふりをして、あたしは南の誘いを断った。

 すると、南は。相変わらず笑みを顔面に貼り付けたまま、こう返した。

「駄目よ。あんたは私が傍にいないと何もできない、目立たなくて冴えない可哀想な子なんだから。私は楓が間違って馬鹿なことを勝手にやり出さないように見ててあげる役割があるの。あんたのことをこんなにも心配している友達を悲しませるようなことなんてしちゃ駄目よ、分かったわね?」


 逃 が さ な い わ よ。


 どす黒い何かがあたしの耳元でそう囁いた。そんな気がした。


 結局、あたしは四月から高校に通うことになった。

 南は毎日あたしの家に高級車で迎えに来ては、あたしを無理矢理乗せて一緒に通学した。行きも、帰りも……南は始終にこにこしていて、あたしは俯ったまま沈黙を貫いていた。

 学校でも、南はあたしのことを極力傍に置こうとした。程度の低い授業を受けて、休憩時間になったら大勢の仲間に囲まれて楽しそうにしている南の姿を輪の隅っこの方で無理矢理眺めさせられる、そんな学校生活にあたしは正直言ってうんざりだった。どうしてあたしは、一人だけ誰かと話をすることも許されないまま案山子のように此処に立たせられているんだろう。牛舎にいる牛たちの方が、よほど充実した生活を送っている気がする。こんなの、死んでいるのと一緒だ。

 あたしは、南に監視されているせいで一人で行動することもままならなかった。例えトイレに用足しに行く時ですら、南の機嫌を伺って断りを入れて許可を貰わなければならなかった。南は人の目がある場所では表立ってあたしを馬鹿にしたり苛めたりはしないから、そういう時は笑いながら行ってらっしゃいと言ってくれたが……あたしを見つめる目だけは、笑っていなかった。勝手な真似をしたら許さないからねと、暗にあたしに脅しをかけていた。

 ある日、あたしがいつものように許可を貰ってトイレに行き、教室に戻ろうとしていた時のことだった。

 南が、いつも周囲に置いている取り巻きたちを相手に、上機嫌に話をしていた。まあいつもの光景だ。あたしは大して気にも留めずに、その場所へと近付いていった。

「……へぇ、あの黒霧って子、だからこの学校に来たの? あんなに頭いいのに何で此処にいるんだろうって不思議だったんだよねー」

 ……あたしの、話?

 何となく話の内容が気になったあたしは、わざと彼女たちの輪には戻らずに、傍の教室に身を隠してこっそりと聞き耳を立てた。

「教師が裏で金渡されて進路操作って、何かヤバい感じしない? あ、でも逆に考えれば、金握らせたら普通じゃ行けないようないい学校に推薦してもらえるってことだよね。いいねー、金と権力があるってさ、何でもできるってことだもん」

「南ぃ、あの黒霧って子の何処がそんなにいいの? わざわざ学校に金握らせて此処以外の受験が受けられないようにまで仕組んだんでしょ? アタシには、あの冴えない子の何処にそんな魅力があるのか分からないんだけどぉ」

 ……どういう、こと?

 あたしは自分の顔が強張っていくのを感じた。

 南の笑う声が聞こえてくる。

「そんなの、決まってるじゃない。私を魅力的に見せるための引き立て役には、あの子がぴったりなのよ。根暗で、見た目も地味だし、冴えないし、何より馬鹿なのがいいわ。私があの子の母親が勤めていた会社の社長に根回しして母親を解雇させたってことにも全然気付いてないんだから」

 …………!

 お母さんは、何故突然自分がクビにさせられたのか全然心当たりがないと言っていた。

 理由は、これだったのだ。南が親の権力を使って、お母さんが勤めていた職場に圧力をかけたのだろう。お母さんをクビにしなかったら会社自体を潰すとか何とか言って、脅して。

「まさかそれで自殺しちゃうのは予想外だったけど、お陰で生活を援助するって名目であの子を傍に置く理由ができたし、結果オーライよね。私はあの子の母親なんてどうだっていいし、あの子が私に従順な奴隷でいてくれれば何だっていいの。私はこれからもあの子を使って、名家のお嬢様らしい優雅で恵まれた暮らしを送るのよ。私がいないと何もできないあの子の哀れな姿を見ながら、私は選ばれた人間なんだって優越感に浸りながら生きていくの。ああ、力があるって素晴らしいわ……!」

 ………………

 あたしは、自分の頭が怒りを通り越して自分でも驚くほどに冷めていくのを自覚した。

 あたしの全ては、南に壊されたのだ。人生も、家族も、ただ幸せに生きていくだけの権利すらも、奪われて踏み躙られた。ただ自分が優越感に浸りたいがためというこれ以上にない身勝手でつまらない理由で。

 この世は、力が全てだ。お金を持つことも、権力を持つことも、美人でいることも、全て力。あたしにはそれがなかったから、弱者として食い物にされてしまった。

 弱肉強食という言葉がある。だから、何の力もないあたしがそうなってしまったのは、ある意味仕方のないことなのかもしれない。力のある者に利用されてしまうのは。それは昔からこの世界に存在していた一種の慣わしのようなものなのだから。

 でも。

 関係のないお母さんにまで手を出して、自殺にまで追い込んだことだけは──あたしにしてきた全ての仕打ちを百歩譲って許すことができても、それだけは、許すことはできなかった。

 この世が弱肉強食の世界なら。もしもあたしがあの女よりも力を持っていたら、あたしがあの女を好きなようにしても許されるってことだよね? 今までに色々なことをされて反撃してこなかったんだから、一度くらいは、仕返ししても正当防衛になるってことだよね?

 だったら。その通りにしてあげる。

 あたしはそ知らぬ顔をして、南たちのところに戻った。

 何も知らずにおかえりと上っ面だけの友達の顔をする皆を見つめながら、あたしは南に言ったのだった。

「ねえ、南……放課後、二人だけで大事なお話がしたいんだけど……いいかな?」

 ──────



 頭の中身を床にぶちまけて事切れた南を見下ろしながら、あたしは腹の底から込み上げてきた笑いを堪えきれずに、笑い出した。

「……くくっ、くふふふふふふっ……」

 手に付いたぬるりとした血の感触も、辺りに立ち込めた血と生肉の匂いも、何もかもが心地良い。これらの存在が、あたしに確かな実感を与えてくれる。

 これで、あたしは正真正銘の自由になったのだと。もう、あたしを縛って押さえつける奴はいなくなったのだと。

「……あはっ、あははは、あははははははは!」

 掌中の大鉈を南の顔めがけて投げつければ、その刃は恐怖で完全に固まったままの彼女の目にめり込んで。

 醜い傷ができたその顔を見つめて、笑う。笑う。笑う。ひたすら笑う。

 この死体が誰かに発見されたら、あたしは警察に捕まって刑務所に入れられる? 死刑にされて、電気椅子に座らされる?

 別に、そうなったらそうなったでいい。どうせ、あたしの人生なんて既に壊された後なんだから。まともな形なんて残っていないんだから。

 大好きなお母さんも、殆ど覚えてはいないけれど、あたしのことを一生懸命愛していたとお母さんが教えてくれたお父さんも、もうこの世界にはいないんだから──あたしも、無理してこのまま生き続ける必要なんてないんだ。

 このまま、これからはあたし自身が望むままに生きよう。例え明日警察が家に来て逮捕されるのだとしても、それまでは自由を謳歌しよう。あたし自身のために、残された時間を楽しもう。

 あたしがそんなことを独りごちた、その時。


 あたしの他には誰もいないはずの校舎の中で、確かに、あたし以外の人の足音を聞いた。


 ──ゆっくりと近付いてきたその人物は、誰かと振り返るあたしと、その奥に転がる死体を無表情のまま見つめながら、静かに口を開いた。

「強い力の波動を頼りに此処まで来てみれば、力の主がこんな細身の少女だとはな……」

 金髪に、金の瞳。身長は多分百八十センチ以上ある。燕尾服のようなデザインの白い服を身に着けた、若い男だった。かなり整った顔立ちで、外国人モデルというよりも女性向けゲームとかに出てくるハンサムな恋人候補をそのまま立体化させたような、日本人好みの容姿をしている。

 当たり前のことだが、この学校の関係者ではない。

 相変わらず虚ろに笑っているあたしに、彼は告げる。

「お前は邪神を討つ勇者として選ばれた。私と共に来てもらおう」


 それが、あたしのこれからの運命の形を決定付けた言葉だった。

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