第2話 復讐

 あたしは走っていた。

 カンカンカンと床や壁に反響する足音が、この状況が如何に切迫感のあるものであるかを如実に物語っている。

 此処は、あたしが通っている高校の校舎。鉄筋コンクリートが主流となっている現代の日本においてかなり珍しい完全木造の一階構造の建物だ。

 時刻は夕暮れ時。さっき横切った教室の中で時計が十八時を指している様子がちらりと見えたから、多分この校舎にはあたしたちの他には誰もいないだろう。生徒も、教員も。

 此処にいるのは、正真正銘の二人だけ。

 あたし、黒霧くろぎりかえでと、もう一人。

 あたしのクラスメートであり、あたしが暮らしている村の地主の孫であり、全国的に有名な代議士の娘であるお嬢様の八雲やくもみなみである。

 南はあたしの十メートルくらい先を、必死の形相で走っている。

 普段あんなに綺麗に整えているさらさらのショートヘアも、毎日綺麗に洗濯されてアイロンまで丁寧に掛けられてぱりっとしたブラウスも、校則違反にならないぎりぎりの長さにまで裾上げされたスカートも、全てがぐしゃぐしゃに乱れている。それだけ必死になっているのは分かるけど、何もそんな顔をして逃げなくたっていいんじゃないの?

 それに、ほら。

 突き当たりのドアに肩からどかんと体当たりして、南が立ち止まる。

 此処は、校舎の突き当たり。そのドアを開けない限りこれ以上は進めないんだよ?

 でも、そのドア、古くて立て付けが悪い上にノブも錆び付いちゃってるみたいだから……非力なお嬢様の握力だと開けられないかもね。残念だね。

「……う、うう……何よ、何なのよ、あんた……それ、一体何のつもりよ……!」

 ドアを背凭れにずるずるとその場に座り込む南に、あたしは走るのをやめて、ゆっくりと歩み寄りながら言った。

「何って? 貴女には、これが有名ブランドのハンドバッグにでも見えるの? もしそうだとしたら、眼科に行って視力検査してもらった方がいいわよ」

「ふざけないで!」

 あたしの思いやりの言葉を、彼女は怒鳴り声で掻き消した。

「あんた、この私にこんな真似をしてただで済むと思ってるんじゃないでしょうね! 私を一体誰だと思ってるのよ!」

「杉森農業高校一年二組、八雲南。でしょう? 同じクラスなんだもの、それくらい知ってるわ」

「そんなことを訊いてるんじゃないわよ! いいこと、私は代議士八雲健次郎の娘であり、この村一番の大地主である八雲雁絹がんけんの孫なのよ! あんたなんかとは身分が違うのよ! 私に手を出したら、パパとおじいちゃんが黙ってないわ! 分かったら、さっさと非礼を詫びなさい!」

「……だから、何なの?」

 喚く南を、あたしは冷たい目で見下ろした。

 この返答は予想外だったのか、南の表情が一瞬で呆けたものへと変わる。

「……な、何ですって? 何よ、その態度……」

「態度を改めるのは貴女の方じゃないの? 南」

 あたしは右手に握っているもので、左手をぽんぽんと叩く仕草をした。

「確かに、貴女のお父さんとおじいさんは権力がある人だけど……貴女はただ娘と孫ってだけで、貴女自身には何の権力もないの。上も下もない、あたしと対等でしかない単なる女子高生なわけ。……こういうのを、何と言うか教えてあげましょうか? 虎の威を借る狐って言うのよ。勘違いしているようだから教えてあげるけど、貴女にはあたしに命令できる権限はないの。これっぽっちもね。オーケー?」

 右手のそれを、南に向けて突き出せば。

 南は青ざめて、あたしの位置から見てもはっきりと分かるほどにがたがたと震え始めた。

「……あたしと貴女は、対等の立場。でも自分の方が偉いと勘違いした貴女は、あたしに対して色々としてくれた。ううん、あたしだけじゃない……」

 あたしは口元に薄く浮かべていた笑みを消した。

「……あたしのお母さんにまで手を出して、殺した。貴女は人殺しなのよ。それをそんな何も知らないみたいな顔をして、のうのうと生きていられると思ってるの?」

「……あ、あれは私が殺したんじゃないわよ。あんたの母親が勝手に自殺しただけじゃないの……」

「結果だけで言えば、そうかもね。でもそうなる原因を作ったのは紛れもない貴女なのよ。あたしは全部知ってるのよ? 貴女が裏でやってきたこと、全部。……知っちゃった以上は、許せるわけないわよね? あたしと貴女は対等の立場なんだから、あたしがちょっとくらい仕返ししても、正当防衛になるはずよね?」

 真顔で南に近付くあたし。

 南はみっともなく涙と鼻水で顔を汚しながら、叫び始めた。

「だっ、誰か! 助けて! 助けてぇぇぇぇ!」

「……南。あたしからのクラスメートとしてのお願い。聞いてくれる?」

 あたしはにっこり笑って、右手に握ったそれを思い切り振り上げた。


「──死んでちょうだい。今すぐに、あたしの目の前で」


 多くの人に長年使い込まれて無骨な形に潰れた刃の大鉈が、南の脳天に寸分狂わずに吸い込まれていった。

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