少しの勇気
一通り走って車庫の前で止まった、降りた後も胸の高鳴りは収まらず、充実感が体を満たしていた。
しかし一つだけ気がかりなことがあった。ミラーの向こう側に男の顔が見えた、その時にシールドの奥の顔はどこか哀しげだった。
降りた直後、ヘルメットを脱ぐといつもの顔に戻り「楽しかったか」とだけ聞いてくる。
「え、あ、はい」
「それは良かったな」
この充実感の正体、それは生きてる実感。自分の恐怖を超えたスピード、これはきっと乗った人にしか分かり得ない特別な感情だ。
「あ、あの……」
「どうした」
「いつからバイクに乗ってるんですか?」
「高校の時に免許取ったから、もう十年くらいは前だね」
この時、自分の心の中では決心は既に付いていたのかもしれない。それでも聞きたいことがあった。
「これからもバイクに乗るの?」
それを聞いた時に男は一瞬だけ顔が歪んだ。まるで何かを思い出したかのように。
「ずっと昔に同じ質問をして来た奴がいたな……」
小さく呟いて少しの間空を見上げ、ようやく口を開いた。
「生きてるうちはな」
その日はそれで家に帰った、そして免許の予約を入れた。今の貯金だと原付免許くらいしか取れないけど、不安に潰されそうになってる今の自分をどうにか変えたかったんだと思う。
翌週、ようやく免許取った。その為に学校をサボってしまったが、その次の日は一週間ぶりに登校した。今の自分にはどこまででもいける翼があると思うと、何かが吹っ切れた予感がした。そしてその日の放課後、真っ先に男の家に向かった。
「弥生ちゃんか、今日は学校に行ったのか」
いつもの様に車庫の前でK125を弄りながら笑った。
「え、あっうん。そ、それでね、免許、取れました……」
そう言って免許出して見せた。
「おめでとう、そして、こちら側の世界へようこそ」
親指を立て、グッドサインを突き出してこう続けた。
「乗るバイクは決まったのかい?」
「はっ……!」
気の抜けた声が口から漏れる。つい免許を取ることに集中してしまい忘れていた、車体が無ければ何も始まらないじゃないか。
「やっぱりな、まあこんなこともあろうかと、一台仕上げておいたぞ」
男は車庫の奥に消え、一台のバイクが出て来た。太陽の下に晒されると、メッキパーツが反射する。
「どうだ? おしゃれだろ」
スタンドを掛けると満足げな顔をしながら腕を組んだ。
「これは、なんて言うバイクですか?」
「ヤマハのYB1、偶然にも手に入ってな」
YB1、見たことのある見た目だった。たしかネットで調べていた時に出てきたものだった。しかし、その時画像で見た時とはかなり見た目がカスタマイズされていた。
ハンドルはかなり低くなり、カウルも装着されており、色もフェンダー以外は綺麗で落ち着いた黒一色に塗られている。
「でも、私、こんなに古いバイク買えるだけ貯金無いですよ?」
実を言うと一目惚れする程このバイクには心に突き刺さるものがあった。しかしYB1はもう二十年前に生産終了している絶版バイクだ。私に買えるわけがない。
「もともとボロいバイクだったし、安く売るよ」
手をパッと開いてこちらに向けた。
「野口さん五人でどうだい?」
「えぇ!?」
柄にもなく素っ頓狂声をあげてしまった。流石に驚きだ、こんな絶版車が野口さん五人、普通なら諭吉さんが二桁人くらい飛んで言ってもおかしくない。こんな綺麗な車体なら尚更だ。
「いいんだよ、ヤマハのバイクなんて俺には似合わないからな」
そう言いながら書類を渡して来た。
「あとはナンバーさえ取れば、弥生ちゃんの自由だ」
そして数日後、ナンバーも取って保険や自賠責にも入った。
ジェットヘルを丁寧に被り、グローブを履いた。ゆっくりとYBに跨って、キックを踏み降ろす。時刻は朝の五時、登校前にひとっ走りだ。
シールドを下ろしてギアを入れる。あとはクラッチを徐々に離せば……。鼓動がどんどん早くなる、さあ行こう。
徐々に進み出し道路に出た、交通量がほんとんど無い朝でよかったと思う。クラッチを離しきってアクセルを少しだけ開けた。時速は十キロメートルを少し超えたあたり。一瞬にしてヘルメットの中は汗だくになる。
違う、『あの時』の感覚はこんなもんじゃないはずだ。もっと、もっと!
メーターから目を離して前を睨みつけた。そして一気にアクセルを開けた。一気にメーターの針は上がりすぐにシフトアップをする。
この高揚感、風圧、スピード感、振動。エンジンの振動と心臓の鼓動が共鳴する。「今の自分は最強だ!」と心が叫ぶ!
早朝の青白い空、流れるアスファルト、全ての色彩が鮮やかに。
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