みつぐの鎖

八重洲屋 栞

みつぐの鎖




 おようの奉公先が本人の耳に知れたのは、葉月の半ばを下ったころの、立待月の晩のこと。

 昼の地を焼き焦がさんばかりの熱はついぞ消え、夜になれば、ひやりと涼しげな風が森を抜け、稲穂を揺らす。あとひと月も絶てば、青々として瑞々しい稲穂も黄金色となり、穂先からはたわわに実った米が零れ落ちんばかりに育つであろう。


「猪ノいのぐちの、町のほうに?」


 ささらと夏の夜風が稲穂を鳴らす最中、囲炉裏の上に煮立つアワの粥を挟み、お葉は父と、村の長に向き合った。


「かなり、でかい町なんやと。遊郭もその辺よりええ所あるで、粗末なところへは回されんやろ」


 お葉を慰めんばかりに、村の長は優しい語調であった。

 長の隣で肩を狭くする父と母、そしてそのそばに寄り添うようにして座する兄の腕には、よく肥え太った巾着袋がある。


「すまん、お葉……」


 兄や母と同様に、厳しい面持ちで、父はうつむきながら詫びた。

 

 ―――“奉公”というものは名ばかり。


 実際は水や食い物を買うための金を得るため、両親がお葉を、遊郭に売ったのである。それも、粗末な売春宿などよりもうんと高い遊郭。

 兄が手に抱えている金の重さが、お葉が務めるであろう遊郭の、規模の大きさを証明している。


「しゃあないよ、おとう。謝らんといて」


 顔ばかりは笑顔を張り付けて、お葉は悔いる父に笑いかけた。


 仕方がないのだ。

 それは、齢十五ばかりのお葉にだって、解る。


―――いかに実りの秋と言えど、まだ季節は真夏の半ば。

 田尾女たおめの村は水に恵まれず、僅かに流れ込む小川の水は、田畑を潤わすのに回さねばならぬ。ゆえに生活に要る水を節約せねばならず、必要となったその時は、隣にある大川沿いの村にまで買いに出る必要があった。

 冬は氷を溶かして水として使えたが、夏は井戸に残ったわずかな水も枯れ、貯えである米も底を尽きる。


 そうして毎年のように、夏になれば金が要るようになる。

 そしてそのたびに、金を得るため、村の娘らが売られてゆくのだ。

 田尾女の女は、みな不思議なほどに見目麗しく生まれ、いづれも売られる値打ちは見上げるほどの高値であった。

 いわば、毎年の如くに訪れる水不足を金でまかなえている理由の多くが、女を売った金なのだ。


 いづれ、自分も売られる。

 お葉もそう、覚悟していなかったことはない。

 父も兄も、母も、お葉を売るまいと毎日のように畑仕事に精を出したが、つい半月前、雨の降らぬ日が続いて、畑の作物の多くが枯れ果てた。貯えていた米も底をつき、今ではアワと、僅かな野菜。そして干からびた蛙の開きしか食べるものがない。


 家族が涙を呑んで、末娘であるお葉を売るわけを、お葉自身、察している。いかに遊郭へ売り飛ばされるとはいえ、父を責める気にはなれなかった。


「お葉」


 静まり返った貧相な今の中で、沈黙を破ったのは、長であった。


女衒ぜげんが迎えにやってくるのは、明後日の昼下がりやで、“儀”のほうは明日の晩に執り行うことに、しよか」


「長様、私の“みつぐ”は誰なんか、もう決まっとるの?」


お葉が問うと、長は深刻な面差しで、しばし口を閉ざした。

 しかし一拍置いてお葉と対峙し、神妙な面差しで北を見やった。


「村の北端に“稲荷いなり笹森ささもり”て、あるやろ」


「こんこんさん(稲荷)が祭ってある、竹林やね」


「あの辺の傍に、よその男が住んどることは、知っとったかね」


「んん、知っとる。時雨しぐれさんやろ」


 お葉はうなづいた。

 田尾女村を囲む山は低く、そもそもここら周辺の村を含めたこの土地は、平野が多い特性がある。外敵を阻む山脈も少ないゆえに、時折、村のものでない流浪者が、村に迷い込むことがあった。


 二年前にこの村に迷い込んだ“時雨”もまた、その一人である。

 

 村の方針としては、迷い込んだ者の素性がよほど怪しくなければ、受け入れる体制をとっている。


 そのうえこの村ではわけあって、美男が重宝される仕組みがある。


 外から迷い込んだ時雨る男も、美男だったが故、村に住む権利を与えられたのだった。


「明日、お前は時雨と寝るんや」


 長の口からその一言が零れ落ちた刹那、ぱちり、と囲炉裏の火が弾けた。

 何かが糸を切ったように、母が泣き崩れる。

 母の震える背中を兄が抱き留め、父は声を上げなかったが、眉根には深い皺を刻んでいた。


「泣かんで。私が出てったら、おいしいもん、いっぱい食べやあ。遊郭も、器量よしの娘に、アワの粥なんて食べさせんよ」


 自分の、総じてこの村に生まれる娘らの器量の良さを、お葉は自覚している。

 足抜けなどせず、最善を尽くして努めれば、少なくとも百姓よりはいいものを食べて暮らせるであろう。


 百姓でいるよりまし。

 それで家族の生活も潤うのだから、一石二鳥。


 年頃の娘ながらに、お葉は割り切っている。


(みんなやってることだし)


 その集団への意識だけが、お葉を冷静にさせていた。

 誰もがしていることを、自分もするだけのことなのだから、何も嘆く必要などないのだ。


 開け放たれた襤褸の障子戸から外を見やれば、田畑の中に立つ案山子が、悲しげにお葉を見つめているのだった。



 *


 田尾女の村では、生娘を売りに出す際は必ず、然るべき場所で男に抱かせる決まりがある。

 

 売られる娘は必ず上等な絹の着物をまとい、村に祀られている稲荷の御堂にて、男と交わるのが定めであった。

 それも、そこらの粗末な百姓ではない。

 村の中からとびきりの美男が選び出されるのだ。選び出される美男は“貢”、すなわち女へ捧げられるものとして、女を喜ばず術を叩き込まれたうえで、生娘の許へと送られるのだ。


 この田尾女の村に祀られる稲荷は、女狐を神として祀っている。


 はるか遠い昔に、この世ならざる美貌の女に化けた女狐が現れ、村中の男らに、自身が産み落とした“人の子”を授けた。

 その子らはみな娘の身であり、どれも成長につれ、珠のように美しくなった。

 娘らが花盛りの年頃を過ぎると、その体は大粒の砂金に変わり、恵まれぬ土地を潤わせたという。


 ゆえに田尾女の村には“村の女は、生娘である限り神の眷属けんぞく”とする風習があるのだった。この村では、女はみな女狐の子も同然であり、ぞんざいに扱うことは許されぬ。

 

 ―――そのような女神信仰の根強く残る村であるが、合理的な面で考えれば、それはある種の、娘らへの情けでもある。


 生娘が経験する最初の交わりには、激痛を伴うという。

 ましてや、どこの馬の骨とも知れぬ外部の男に抱かれるともなれば、娘の心身の苦痛は計り知れぬ。

 そんな娘の苦痛を和らげるために、上等の着物や上手い美男が用意される。


 


「怖がらんでもええよ」


 日の暮れた宵の宙が夕暮れを熨していく。

 暮れ六つを過ぎた村の農道で、無数の提灯が列をなして“稲荷の笹森”へと向かう。絹織物の着物に身を包んだお葉を囲んだ一団は、みな、この村の者たちであった。

列をなした村の民の先頭で、提灯を手にした長の妻が、穏やかに、お葉へとそう語りかけた。


「“貢”に選ばれる男は、みーんな上手やで。下手なことしいへん。気持ちよくして、ほだして、開いてくれるわ」


 そう教えてくれた長の妻も、齢五十を過ぎるが、まだまだ花が咲いたようにしっとりと、美しい。


 売りにだされた娘の中には、奉公先で金を返し、誰の女になるでもなく、年季が明けると戻ってくるものもいるという。


「それはええんやけど、年季が明けたら、戻ってこられるとええなあ」


「大丈夫やさ」


 振り向きざま教えてくれる、彼女の眼は、優しい。

 売りに出され、数え切れぬ男を相手にしたであろう、その非業からは、想像もできぬ。


 しかしどことなく、長の妻が瞳の奥に宿した憂いには、熱があるのだった。


「自分を抱いた客のことは忘れても……“貢”のことだけは、みんな忘れられんようになって、ここに戻ってくるんよ」


 そんな妻の眼の奥には、宵の宙に浮かぶ居待月が灯っている。

 悲しく、穏やかで、諦めともつく力の無さが、妙にお葉の目を奪うのだった。


「……私はただ、おとうと、おかあと、兄ちゃんのために、頑張って稼いでくるだけやで……」


 稲荷の笹森に近づくにつれて、重くなる脚を叱りつけ、お葉は重苦しい息遣いで返した。

 遠巻きに、稲荷の笹森が風にあおられ、その竹の葉がざわめく声が聞こえてくる。


 *


 根深い信仰に守られた稲荷の社と、御堂は、いかに貧しい状況下にあっても、怠ることなく整備されている。

 隙間なく端正に作られた床の間に、どこからともなく舞い込んだ花の香り。身を包むのは、着心地の良い柔らかな絹の着物。どれもこれも、お葉がこれまでの人生で、経験したことがないほどに質の良いものばかりであった。


(暗い部屋)


 家のように広い御堂の中を照らすには、小さな行灯ひとつでは足らぬ。

 目が慣れれば、御堂の奥に飾られた、美しい白狐の掛け軸が見えてくる。

 しかし部屋の隅にまで、光が行き届くことはないのだった。


「入るで」


 外から、ひときわ良く通る、涼やかな声がする。

 御堂の戸が僅かに軋むと、長身の男が一人、御堂の中へと入ってきた。


 肌は焼けているが、荒れてはおらず、その目鼻立ちは切磋琢磨の末に練り上げられた刃の如くに、鋭利である。痩身だが、弓のようにしなやかな立ち姿。畑仕事でついた泥を綺麗に落としたのであろう。その姿に田舎の芋臭さなど微塵もない。

 齢は三十路を越えてると聞いていたが、その貌の若々しさは二十半ばの兄と大差がない。

 お葉の想像していた優男風に比べれば、この男は吊り目で棘があるが、都の役者と見紛う男前だった。


(かっこいい人)


 この“儀”は売られる前のしきたりでしかない。

 そう割り切っていたお葉でも、見とれた。

 

「あなたが、時雨さん?」


 予想を大きく上回る男前に、思わず、お葉は確認した。

 稲荷の傍に住む時雨という男の姿は、遠巻きに、何度か見た覚えはある。しかし、近くでその顔を拝めたことはなく、記憶に残るその美貌も、朧気であった。


「ああ」


 時雨はお葉の前に坐すると、御堂の奥に飾られた白狐の掛け軸に深く頭を下げ、次にはお葉へと慇懃に一礼した。


「今宵は“貢”として御相手を務める、時雨と申す」


 形式的な堅苦しい言葉を並べた時雨だったが、その台本を読んだ風な堅苦しさに照れたのか、


「くっ」


 と、僅かに破顔した。


「すまんな。何度もやっとるが、かたっ苦しいのは慣れん」


 鋭い男前の割に、崩れた微笑み方は幼い。

 あどけない笑みにつられて、お葉もつい、頬を緩めた。


「私も……慣れんの。お互い様やね」


「“儀”に出る娘はみな、初めてやでなあ。お前さん、いくつになる」


「今年で十五になるの」


「そうか、そうかあ」


 深く何度もうなづくと、時雨は急に真面目な顔になって、


「十五といやあ、まだ若けえに……花盛りやになあ」


「花、だなんて」


「散らす側にしたら、この年の子はみんな花だわ」


 言いながら、時雨はその手を、お葉の頬にそっと這わせた。

 見かけより武骨な男の手が、


「散らす」


 の、言葉に重みをもたせる。


 今からこの手が、着物を脱がし、体を触り、抱くのだ。

 この御方に何もかも見られて、私は抱かれるのだ。


 そう思うと、笑って話していた時の余裕はすっと消え失せ、代わりに底知れぬ緊張が込み上げた。


「震えとるな、怖いか?」


 時雨が柔らかな語調で問うてくる。

 

 怖い、などと言えるはずはない。

 村のしきたり、という名の計らいで良き一晩を用意してもらっている身の上で、そのような贅沢を申すことはできなかった。

 

 ―――それでも、いままで経験したことのない行為を、他人の手によって施されると思うと、未知への恐怖が湧いてくるのだった。


「……あの……」


 何も言えずにいるお葉を見て、手を出しづらくなったのであろう。

 時雨は切なげに眉を下げ、頬に這わせたその手を離すと、次は赤子を抱えるように、小さく腕を広げるのだった。


「焦らんでもいいで。少しずつ行けばええわ」


「ごめんね、まだ心の準備、できとらんくて」


「その気になるまで、腕の中におるだわ。その時は、お前から言えばええで」


 “貢”としての性ゆえか、天性のものか、時雨の優しさは安堵を生む。

 お葉は言い知れぬ安心に身を任せ、ためらいを覚えながらも、時雨の腕に抱き留められた。

 時雨はそんなお葉の体を、いやらしく撫でまわすでも、強く抱きしめるでもなく、ただ一定の波長で、華奢な肩を軽く叩いてやるのだった。


「最初はそんなもんやで。俺も初めて女抱いた時、どうすりゃええのか分からんくって、下手糞って、どえらい叱られながら……。泣く泣く抱いたわ、その女」


「いつ頃の話なの?」


「お前くらいの頃。まんだケツも貧相で、可愛らしっくて。男に抱かれるのは慣れっこやったけど、女抱くのは初めてやったで」


「男なのに、男の相手をしとったの?」


「猪ノ口よりも、もっとでかい、東の都にはあるんよ。陰間屋かげまやって。化粧して振袖着た、華やかな寺稚児さんみたいなもんやわ」


 冗談でもいう様に笑い飛ばす時雨である。

 しかしお葉には、この長身で男前の時雨が、女の身なりで、女のように抱かれていた姿など想像もつかぬ。


「考えれへん」


「そりゃあもう、十年以上も前のことやで」


俺もそのころは、細くておなごのような、小童やったわ。


 そう時雨は教えてくれた。

 しかし、その陰間というのも、記憶のどこかには辛いものとして引っかかっているのだろう。時雨の眉はわずかに顰められ、目尻の紅が切なげに色めいた。


「……その仕事は、辛かった?」


 唐突に、気になってそう問いかけた。

 好奇心と言えるほど、純朴な情はない。

 ただこの男の気さくな笑みの裏で、渦巻いている者の気配があった。それに触れてみたくなったのである。


「そうさなあ」


 遠い目になった時雨は、一拍、二拍と間をおいて、考えるそぶりを見せた。

 そして、


「母親と離ればなれになるのは、ややったなあ。でも、俺に手ほどきしてくれたお店の兄さんが優しくて、好きやったで、それで頑張れとったわ」


「お兄さんがいたの」


「要するに、今の俺みたいな、ことをする人だわ。まわし、ってゆってさ。その人が旅に出たり来帰ってこないもんやで、俺も後を追って探したが、迷った挙句、ここに馴染んでまった」


 御堂を囲う笹薮が、夜風を孕んでささめく。

 時雨は色気を孕んだ、くたびれたような笑みを湛えると、お葉の頭を撫でるのだった。


「―――その人のおかげで、寂し、なかった?」


 頭を撫でる手を拒みもせず、お葉は時雨の胸板に手を添わせながら、寄り添うようにして訊いた。

 どこからともなく香る、芳しくも切ない煙の匂いが、お葉の耳や、手の感覚を研ぎ澄ます。

 どうしてだか、急に時雨の鼓動が大きく聞こえ、自らの心の臓を、きゅうと締め付ける心地よさが込み上げてきた。


「ああ、寂しなかった」


 答えた時雨の唇は、作り物のように整っている。

 唇から上を見やれば、言葉に相反して悲哀を帯びた表情の時雨がいる。色男の悲しげな面というものは、言い知れぬ魅惑がある。

 この悲しい事情を、愛するお前にだけ話している。

 そう言わんばかりのもの悲しさが、少女の胸を締め付けた。

 その顔を見て、お葉の身の内に眠るものが、かっと、昂る。


 お葉はたまらず、時雨の首に腕を回し、胸を擦り合わすように取っ付いた。


「私、ほんとは、遊郭に行くのが怖い」


 家族の前ですら堪えた情が、なぜだか、時雨を見ていると堪えられなくなった。

 大粒の涙を、睫毛の生えそろった眼から溢し、お葉は嘆く。

 優しい両親と、兄の元を離れ、見知らぬ土地で生きてゆかねばならぬその非業の末路、年若い娘の身に降りかかるにはあまりに、大きすぎる不幸であった。


「……よう言った」


 時雨はひときわ低く、鮮明な声でそう囁くと、お葉の肩を引きはがし、そっと唇を重ねた。

 触れる程度に交えた唇を、お葉は拒まない。

 仄かに香ってくる不思議な煙の香りに燻され、頭が眩む。

 怖いもの見たさに少しだけ口を開くと、それに応えるように、時雨がより深く、絡み付かんばかりに唇を結んだ。息も絶え絶えになるほどに、深く、密接なものであったが、妙なことに、お葉にはまったく苦ではない。

 それどころか、唇が絡まり、舌が口を犯すほど、お葉はこの先の恐怖さえ忘れて、壊れてしまえるような気にさえなった。


「―――なんも、泣くこたあない。諦めることもない。お前はこれから、誰に抱かれようと、俺を忘れられんようになる。この一晩の想い出かかえていきゃあ、もう誰のことも、こわなくなるやろう」


 言いながら、時雨はお葉の合否を窺うように、そっと襟の狭間へと手を忍ばせる。それを、お葉は受け入れた。

 着物を開き、脱がせると、程よく実った若い女の体がある。

 清涼な夏の夜風が胸元をすり抜けると、その肌寒さが、体を震わせた。


 時雨はこうして、これまでも、若い娘を抱いてきたのだ。

 きっと自分も、そのうちの一人でしかない。

 そうわかっていても、時雨の淡い笑みと、雛鳥を扱うような愛撫を受けると、心の奥底から、愛されていると錯覚するのだった。


 少女はこれから一晩かけて、この甘いまどろみの中でもがき、その男の名を脳裏に刻まれることになる。



 **


 “貢”の役割は、少女に捧げられたその一晩で終わる。


 翌日の昼下がりには女衒が迎えにやってきて、お葉は涙ひとつと流さず、毅然と旅立っていったという。


 その見送りに、時雨は参加できなかった。


 お葉を見送る者たちの声を遠巻きに聞きながら、時雨は近づいてくる足音に耳をそばだてる。

 そばだてつつ、素知らぬ顔をして畑の瓜を刈るのだった。


「時雨」


 耳の奥底にこびりついた声によく似た、男の声が時雨を呼ぶ。

 瓜畑から腰を上げると、すぐ先の農道に、お葉の父・十兵衛じゅうべえが立っている。


 村には過去、娘を抱かれた恨みから、娘の家の者が“貢”を殺した話がある。

 そういった歴史もあり、田尾女から売られた女の家の者は相当の理由を長に申し出ぬ限り“貢”を傷つけることはできず、至近距離での会話も、知れた仲でない限り禁じられている。


 それゆえ“貢”を担う男の多くは村の端に住み、孤独の身なのであった。


 十兵衛は一反ばかりの畑を挟んだ先で、深く頭を下げると、そのまま瓜畑から背を向けて立ち去っていった。


「十兵衛、兄さん……」


 時雨は一歩踏み出し、つい、昔の呼び名を口にする。

 陰間の年季明けから十年余りの時が経ったが、いまだ、幼い日より世話になった男の名を忘れられない。


『怖がらなくたっていいんだぜ。誰に抱かれても忘れられねえくらい、優しくしてやる』


 毛も生えぬうちに自分を女にした“まわし”の男も、今ではこのような辺鄙な場所で子を設け、そのうちの娘を売りに出すこととなった。


 そしてその娘を、かつて自身が抱いた陰間の男に抱かれるのだ。


 もっとも、十兵衛は、自分を追って田舎まで降りてきた時雨のことなどとうに忘れ、


「顔の良いよそ者」


 程度にしか、考えていないに違いない。


 それを想うと、時雨は天道の下にいてなお、心の臓は冬のように冷え切ってしまう。


 しかし昨日抱いたお葉は、十兵衛によく似た丸顔の、可愛らしい娘であった。

 

 抱けば抱くほどに眼が色気を湛え、最後にはもう、時雨しか愛せぬとばかりに染め上げられたお葉。

 あの娘を抱いたことを思い出すと、いつだったのか、十兵衛に心を奪われていた日の、昂ぶりを思い起こす。


 十兵衛に似ていなければ、これまでどおりに計算して、手練手管染め上げてやっていたかもしれない。


(あの娘は、俺を追って戻ってくるか)


 いつかの、俺のようになるか。


 かつて自分を捨て、忘れた男の娘が、自分を忘れられず戻ってくるのを想うと、時雨はどうしようもなく、いじらしい気分になってくるのだった。


 まだ若く、熟したばかりの瓜を割り、水を飲む代わりに実を齧る。

 じわりと甘く、瑞々しい汁が口に流れ込み、体を満たしていくようであった。


 【了】




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