JK、因縁と相対す

さて翌日、朝もやの晴れぬうちから目の冴えたわたくしが、朝風呂でもいただこうかと宿の廊下をぶらついているときであった。庭園と呼ぶには少々質素に過ぎる庭から、えい、やあという掛け声と、木と木のぶつかるかん、からという音が聞こえてきた。


が出るな、少年。」


掛け声の主はびくりと肩を跳ねさすと、苦々しげにこちらを伺ってきた。どうやら枝につるした板材に、例の大槍を振るっている様子であった。


「名前は、聞いておらんよな。」


なるだけ愛想よく笑いかける。村の剣生の内では、子供のあやし方は上手でない方だったものだから、それはもう必死の愛想笑いであった。


「千代松だ。」


こちらには視線を合わさずに応える。昨日は気づかなんだが、やせっぽちの掌には、そこいらの剣生にも負けぬ血豆が浮き出ている様子であった。


「千代松よ、いつもあんな喧嘩をしているのかい。」


千代松は、ふん、と鼻を鳴らして答える。


「いつもじゃあないよ。あいつが道端で怒鳴り散らすのが、気に入らんかったから。」


「お前さん、流れ者かい。肉親はどうしたんだ。」


朝の眠気も手伝ってか、少々突っ込んだ質問をした。このときの少年の横顔を思い出すたび、胸にちくりと針が刺さる。


「みんな、死んだ。うちの村は野盗に焼かれたんだ。」


一際強く、かぁん、と板切れが跳ねた。


「剣生なんぞ、何の役にも立たんかった。みんな、逃げ出すだけの腰抜けだ。」


喚くことも、涙ぐむこともなくそう言った。あるいは、泣くことにすら疲れていたのであろうか。明けの光に照らされた横顔は、澄んだ刃の如く鋭かった。


「俺は、強くなる。親父の槍で、いつか必ず仇を討つ。」


自分に言い聞かせるように言うやせっぽちの姿に、おい、と声をかけようとしたときであった。


「そんな槍じゃあ、死んだ親父も浮かばれやせんわい。」


例の大男、馬之輔が、いつの間にやら後ろに突っ立っていた。その一言に再び虚を突かれた千代松が、正気づいてこちらに槍を構える前に、馬之輔は手短にこう言った。


「島の、わしと塾頭はそろそろ出立する。直ぐに交代の剣生が来るから、入用のものがあれば申しつけよ。」


「あ、ああ、あい分かった。」


ずいぶんと間の抜けた声でそう答えると、はっと気づいて千代松に気を向けた、いやな予感のとおり、小さな影は思い切り駆けて馬之輔に飛び込んでいった。

ふたたび乱闘かと身構えたが、一晩たって頭の冷えた馬之輔がさっといなすと、小さな体は石段のない草むらにころりと転がっていた。


「本気で仇が打ちたいなら、うちの学舎に来い。」


いまにも噛み付きそうな千代松を抑えながら、わたくしはどことなく柔らかなその口調を聞いていた。


さて、憤る千代松を必死で宥めていると、喧騒が届いたか、お留さんも起きてきたようであった。仕様のないので、千代松に朝の早い風呂屋を案内してもらい、三人で一風呂浴びることとした。


風呂屋からの帰り道、すっかり日の差して蝉の鳴きだした頃、わたくしたちは宿へと帰りついた。

行きの道中は、千代松も憤慨冷めやらぬ様子であったが、お留さんが村から持参した乾き菓子の一つも食べさせてやると、すっかり忘れてお留さんに懐いているようであった。お留さんも元来子供好きであるから、二人してひょこ、ひょこと跳ねるさまは大変にほほえましかった。


宿の土間口へあがると、なにやらご主人が、商人風の一団と話し込んでいる様子であった。ご主人はこちらの顔を見るにつけ、一団の頭目らしき男にこちらを指した。


「ああ、ちょうど戻られましたよ。こちらが日向からきなすった剣生さんだそうで。」


「これはこれは、渡りに船ですな。」


頭目らしき小男は、揉み手をしながらこちらへ近づいてきた。


「どうも、松江屋さまにはご贔屓頂いております、船回りの畔戸屋と言うもんです。」


聞けば、畔戸屋は大陸との海運を松枝屋に任されている大店らしく、松枝屋への来客、つまりはわたくしたちの旅程を事前に聞いており、商いで近くまで立ち寄ったついでに合流しようとしていた、とのことであった。

広島まであと一息の予定とはいえ、拐かしについて昨晩さんざ脅されていたところである。愛想笑いのうまい小男に、これ幸いと同行を願い出ようとしていた、そのときであった。

宿に帰ってから急に押し黙っていた千代松が、わたくしの袖をくい、と引いた。


「あいつを、知っている。」


やけに蒼白の顔をした千代松が指差すのは、一団から少し離れてたたずむ、小袖の着物に、革の深靴ブーツを履いた女であった。年のころは二十半ばで、手に燻らせた煙管からは、煙草とは違う独特のを漂わせていた。


「だめだ、いくな。あいつは、俺の村を。」


そこまで言いかけて、わたくしにも事情は飲み込めた。後ろ手で千代の口をさっと塞ぐと、わたくしは、お留さんに目配せを送った。女はちらりとこちらを見やるだけだったが、畔戸屋は目ざとくわたくしたちの挙動を見咎めた。


「おや先生、お知り合いでございますか。」


どこか大仰に、畔戸屋が尋ねる。深靴ブーツの女は、おれかい、と気だるげに応えて、再びちら、とこちらを見やった。


「いやあ、知らんなあ。」


ふう、と、おかしなの煙を吐き捨てると、深靴ブーツの女はこともなげにまた視線を虚空へと放った。その様子に、畔戸屋はひくりと眉根を動かしたが、やがて何事もなかったかのように広島への旅程について話し始めた。


「せっかくのお申し出ですが。」


お留さんを半歩下がらせると、わたくしは切り出した。


「やはり、あたしたちは二人で広島に向かおうと思います。」


再び、畔戸屋の眉根がひくついた。人当たりのいい商人の顔は崩さないが、先ほどの女との会話からこちら、どこか胡散臭い空気を漂わせている様子であった。


「それならば、せめてお荷物だけでも預かりましょう。お嬢さんふたりで、ゆっくり観光なさるのがよろしいかと。」


「お気持ちだけ頂くこととします。松枝屋さんまで責任を持ってお届けしますので、どうぞお構いなく。」


三度、眉根が動いた。不穏な沈黙がお互いの間に流れ出すと、宿屋のご主人が、あたいらも仕事が御座いますんでェ、と穏便に退去を促した。


「いやあ、差し出がましいお節介をいたしました。そンでは、この辺で。」


ぺこり、と畔戸屋が頭を下げて、一団は宿屋を立ち去った。最後まで、商人あきんどの顔は崩さなんだが、細められた眼に一瞬、剣呑な光の宿るのを、その場の全員が感じていた。


「千代、間違いは無いな。」


人払いをようく確認して、千代松に問いかける。その日の恐怖が脳裏によぎったか、膝を震わす千代松がぶんぶんと何度もうなずいた。あまりに見通しの悪い状況ではあれど、畔戸屋がおかしな連中とつるんでいることだけは確かであった。

わたくしは、主人にお留さんと荷物を預けると、馬之輔から聞いていた、交代の剣生が居るという宿へ千代松と駆けることとした。


思い返すも、この旅で最大の過ちである。

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