JK、野試合を挑む
さて、運転士に礼を告げて、門司の港へたどり着いたわたくしたちであるが、その頃にはとっぷりと日も暮れていた。当初の予定通り、その日は港に宿を取り、船に乗って山陽へ渡るのは明日ということになった。
運よく空いていた宿に腰を落ち着けると、風呂や夕餉もそこそこに、横になって休むこととした。窓の外には、かつて本州と西海州を繋いでいたという、鉄のつり橋の跡が揺れているのが見えた。
「波の音というのは、大きいものなのですね。」
暗く、吸い込まれそうな夜の海を見ながら、お留さんはそう呟いた。不気味な海の姿を見て、明日の船旅に、少しの不安を感じているようであった。
「明日は天気も良さそうですから、きっと波も治まりますよ。」
「そういうものですか。」
「ええ。それに、いざって時にはあたしもいますから。怖がることはありませんよ。」
ほンの少し巫山戯てそういうと、あら、そいつは安心ですネ、とお留さんも少し笑ってくれた。
しかしながら、翌日、わたくしは大変な醜態を晒す事となった。朝、突き抜けるように青い空と海に、お留さんと二人胸躍らせたのはよいものの、一日中波がいやに高く、乗り込んだ船にあっという間に酔ってしまったのだ。
目の前はふらつき、むかむかと胸に上ってくる吐き気。剣生服を汚さぬように、と稽古着に着替えたが、結局船べりから手を離すこともできない程に参ってしまった。
仕舞いには、お留さんにまで、私がついていますから、大丈夫ですよ、と慰められる始末である。もはや、は、は、は、と力なく笑い返すことしかできなかった。
船酔いですっかり参ってしまったわたくしであったが、どうにかこうにか船は山陽、下関の港へとたどり着いた。港の宿場から次の宿場まで、女の足でもたどり着く時間ではあるものの、わたくしときたら、船から下りるのにもお留さんの肩を借りる始末である。
結局その日は予定を遅らせて、船酔いの治まるまで、港の宿でゆっくり休息をいただくこととした。
「剣生さんにも、苦手なものがあったンですねえ。」
などと、お留さんは少し愉快そうに笑っていたが、昨晩巫山戯ていた自分が恥ずかしいやら、情けないやら、全く散々な日であったと思う。
一昼夜明ければ、船酔いはすっかり収まったようだった。
そうなれば、本州広島のお膝元、目的地までは街道をひたすらに歩くのみである。幾日か、宿から宿へと渡りながら、広島への道を、二人連れ立って歩いていった。
さて、その道中、とある宿場町でのことである。
その頃ともなれば、宿探しなどもすっかり手馴れたもので、空き部屋を求めて数件の宿を回っていたときであった。町人がやけに騒がしく往来するので、少しばかり妙に思っていたところ、男の叫ぶ野太い声が表通りから聞こえてきた。
喧嘩だ、喧嘩だと無責任に囃し立てる野次馬を掻き分けてみれば、騒ぎの真ン中にいたのは、小奇麗な身なりをした、熊のような大男と、身の丈に会わぬ、大きな槍の柄を担いだ、齢のところは十二か三ほどであろうが、やけに痩せっぽちの少年であった。
「ワレ、もう一遍言ってみんかいっ。」
先ほどの野太い声の正体は、やはりこの大男のもののようだった。すっかり頭に血の昇った様子で、青筋の浮いた顔は、熊というより猪に似ていた。
「馬鹿でかいなりで、馬鹿でかい声を出すんじゃねえよっ。」
うってかわって、耳にきんきんと響く甲高い声で、少年も叫び返した。
「たかが剣生が往来でえばり散らしやがって、お前らみたいな役立たず、さっさと街から出て行きゃあいいんだっ。この、ブタ熊野郎っ。」
「おのれ、何処まで無礼なっ。」
ブタ熊男は激高して、少年に向かって掴みかかった。腰から下げた木刀を見るに、どうやら近隣の剣生であるようだったが、その声を皮切りに、ほんの数瞬少年の方が速く動いた。
飛び掛った少年は、着物に守られていない手の甲に、ざりりと嫌な音を立てて噛付いた。大男は、ぎゃあっと悲鳴を上げると、襤褸雑巾を払うかのように、少年を投げ飛ばした。
「いい加減にっ。」
大男が持ち直したときには、小年は擦り傷だらけながらも、再度男に飛び掛かる姿勢であった。しかしながら、所詮は一度きりのハッタリである。噛付かれる前に少年の首をむんずとつかむと、また別のほうへ投げ飛ばした。
「いけないっ。」
我慢の限界を迎えたのか、それとも無意識か、大男は木刀の柄に手をかけていた。二度、投げられた少年のほうも、今一度、飛びかかってやるそぶりではあったが、一度抜かれてしまえば、勝敗どころか、無事ですまぬことは明らかだった。
「剣生さんっ。」
これはいけない、とわたくしは二人の間に割って入った。少年はもはや満身創痍であったから、もはや勝負はついたと、場を収めねばと思った。
「邪魔するないっ。ワレ、何処の剣生じゃっ。」
大男が、再び吼える。青筋の浮いた額をきっとにらみつけて、私はこう答えた。
「いい加減にしないか、決着は着いているだろう。」
「田舎モンが口を挟むなっ。」
「どうしても引かぬなら、あたしが相手になるさっ。」
わたくしの剣幕に大男は一瞬ひるんだ様子であったが、上等じゃあっ、と一声吼えると、木刀をさっと引き抜いた。
「野試合じゃ、ワシが勝ったら、その餓鬼は好きにさせてもらうぞっ。」
じっと睨み合いを続けながら、わたくしも木刀を抜いて、荷物をそっと降ろした。大男は怒らせた肩を抑え、中段に木刀を構えた。
取り囲む野次馬は、先ほどよりも数を増しているようであった。聴衆の、今度は剣生同士の野試合だとよう、と、人を呼び込む声が聞こえた。
さて、同じ剣生同士とあれど、体格の差は明白である。この試合、わたくしには相手の懐に飛び込むことしか、勝ちの目はなかった。
意外にして、大男も知恵の回るようであった。うかつに斬りかかれば胴を打たれると理解しておる様子で、じり、じりとこちらの出方を伺っている。
人の集まり喧騒の増す中、先に動いたのは男のほうであった。隙の生まれるのを嫌ってか、その剣先は、きええいという咆哮とともに、わたくしの咽笛を目掛けてまっすぐに突きを放ってきた。
その一瞬に、わたくしは一か八かの勝負に出た。構えた木刀を相手の剣先に合わせると、その突きを受けるのではなく、ほんの少し逸らす事にしたのだ。この賭けは、すんでの所で成功した。
突きの方向を逸らされて、大男はふらふらと体勢を崩した。その隙に、小手先目掛けてびしゃりと打つと、先ほどの噛み傷に響いたか、ふたたびぎゃあと叫んで、大男は木刀を取り落とした。
「頭は冷えたか。」
木刀を納めながらそう告げた。野次馬は、大男の痛がる姿に満足したのか、手を叩いて囃し立てた。わたくしは男を一瞥すると、先ほどの少年にも話をするべきだと思い、背後の気配へと目を向けることとした。
「目を離してはなりませんっ。」
お留さんの声が私の注意を引き戻した。羞恥に耐えかねたのか、大男は手の甲から血の流れるのもいとわず、こちらに掴みかかってきた。何せ相手は熊のような図体であるから、組敷かれては手も足も出ない。
「き、
なりふり構わず押し倒してきた大男に、わたくしもいい加減、短気の部分が顔を覗かせてきた。決め事無用の喧嘩であるならば、わたくしも大の得意とするところである。手近にあった石を一つ拾い上げると、短い鼻っ柱へ二、三度、思い切り叩きつけてやった。
もはやお互い、目の前の相手を打ちのめさねば引き下がれぬ。鼻血を噴出す男に対し、わたくしも再度、木刀を構えんとした、その時であった。
「この試合、それまでっ。」
凛とした男の声が、群集のざわめきを超えて響き渡った。しん、と、野次馬さえも鎮めたその男が、人の波を掻き分けて、歩いてくるのが見えた。
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