JK、任を承る
さて、当時はいまだ先の
わたくしは幼くして両親と死に別れた身の上であるが、父の古い友人であった当時の郷士に良くしてもらい、一介の剣生として何不自由なく過ごす事が出来た。
(結局、郷士の親父殿には恩の一つも返せぬままであった。いつまでも、あると思うな、なんとやら、とは金言である)
いつものように、じい、じいと蝉の煩い夏の日であった。
その日のことは、焼け付いたかのようによく覚えている。
剥げかけた塗装に、吹き入ってきた砂がまといつく廊下を一人、ざり、ざりと踏み歩いていた時である。稽古や座学も仕舞いになり、さて、今日は鮎でも釣って帰ろうか、などとぼんやり入道雲を眺めていたら、剣生さン、と馴染みの女中に声をかけられた。
「お
「ああ、御免なさいね。急いでいたものだから。」
息を切らせて駆け寄ってきた女中は、履物の裾をぱたぱたと二、三度はたくと、郷士様がお呼びですよ、と口早に告げた。
「お仕事の話だそうで、きちんと刀も下げてきてくださいね。」
「ああ、ありがとう。そンぐらいなら、隣のトシ坊にでも言付けてくれりゃあよかったのに。」
「剣生さんったら、ご飯の後はすぐ寝ちまうじゃあありませんか。ガッコにいるうちに伝えとこうと思ったンです。」
そういってにかりと笑う女中に手短に礼を告げると、わたくしは帰路を急ぐこととした。
なにせ、そのころは薄手の剣生服など、一、二年も着れば継ぎ接ぎだらけの
わたくしもその日は稽古着で過ごしていたのだが、
畦道を慌しく駆けて、剣生長屋の自室から剣生服を引っ張り出すと、踵を返して郷士屋敷へと急いだ。
途中、畦から足を踏み外しかけて、下で虫でも取っていたのだろう悪たれ坊主に笑われたが、拳骨を軽く一発お見舞いしてやった。
あほう、あほうと烏の鳴く頃、すっかり汗だくになって、ようやくわたくしは親父殿の屋敷にたどり着いた。先の戦でも燃え残ったという鉄筋作りの古屋敷の前では、先程の女中が魚を焼いているのが見えた。
どうも、と声をかけると、女中は仰ぐ手を止めて、郷士様は奥の部屋でお待ちですよ、と人懐こく微笑んだ。
「郷士様、島にございます。」
「あぁ、お入ンなさい」
書斎の戸の中から、親父殿ののんびりした声が響く。
西日の差さぬ部屋は既に薄暗く、舶来物の
「島よ、お前さん、他所へ行って試合をやる気はあるかね。」
禿げ上がった頭をつるりと撫でながら、親父殿は訊ねなさった。
「はあ、試合ですか。」
「実は、広島の友人に届けてほしい荷物があってね。」
その言葉に、わたくしは色めきたった。当時の広島といえば、大陸との交易や鉄鋼の生産で、どこよりも早く復興した大都会であったのだから、当然のことだ。
広島ですか、と思わず聞き返すと、一段調子の上がったわたくしの声に、親父殿は面白がるように返した。
「お前さんは腕も立つから、ついでに剣の修行もどうかとおもってね。どうだい、頼まれてくれるかい。」
くつくつとのどを鳴らして訊ねる親父殿に、わたくしは首をぶんぶんとふって頷いた。愉快そうに禿げ頭を撫でると、親父殿は満足そうに頷いた。詳しいことはまた後で伝えよう、と。
「ああ、それから、
「お留さんですか。」
「あの娘も長いこと励んでくれているから、少しは暇を出してやろうと思ってね
。」
「ええ、もちろん構いませんとも。」
お留さんとは幼い時分からの付き合いであったし、わたくしも斯様な長旅は初めてのことであったから、気心の知れた同行人はありがたい申し出であった。
そんなら、早速本人にも伝えておこうか、と親父殿は
「ああ、今日は夕飯も食べて帰んなさい。すぐ用意させるからね。」
結局その日は、お留さんの焼いた魚をご馳走になって、わたくしは帰路に着いたのであった。
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