第三章「神々の黄昏」

第二十話「*神倉徹の事情1」


 街路灯に照らされた暗い夜道の先、住宅街の中央にそれはあった。


 3LDK、庭付き一戸建ての平屋。

 ありがちな中流家庭のマイホーム、とでも言えば伝わるだろうか。

 かつてのサラリーマン達が憧れた夢の城。

 30坪の土地に敷き詰められた幸福の象徴だ。


 まだ誰も帰っていないのだろう。明かりは灯されていない。


 鍵を開け、扉を開き、神倉徹が帰宅する。


「……ただいま」


 返事の声は当然、無い。


 間取りの小さな玄関に置かれる靴は二つ。

 彼の物と叔母の物だ。


 廊下を抜け、リビングを抜け、自室へと向かう。


 荷物を置き、学生服を脱ぎ、普段着に着替える。


 既に慣れた、いつも通りの所作だった。


 そして、神倉徹はいつものように、再度リビングへと戻ると、その先にある和室へと向かうのだ。


 そこにあったのは――。


 漂う線香の匂いは、田舎の祖母父宅などに帰省した際の“ノスタルジックな感情”を思い出す者も多いかもしれない。

 だが“それ”はきっと幸せな事なのだ。


 “それが”きっと幸せな事なのだ。


 なぜなら、嗅ぎなれているということは、それは常に――死のそばに置かれ続けている――という事なのだから。



――黒い大きな仏壇。



 部屋の奥、中央に置かれた“それ”には4つの遺影が置かれていた。


 一つは彼の叔母の旦那。つまりは彼の叔父のものだ。病気でなくなったと聞かされている。

 そして残り三つは――。


「ただいま。父さん。母さん。夢留(ゆめる)」


 いつもの通りに、神倉徹はそこで家族と語り合う。


「ゆめる、兄ちゃんな。今日もまた例の友達と遊んだぞ」


 今日の報告を行う。


「父さんと母さんは怒るかもしれないけど、無駄な遊びというのも楽しいものだと知ったよ」


 返事の声は無い――。


「例の友達、そう、ケイトな。その友達とも遊んだんだ」


――いや、ある。あるのだ。あるから彼はそれを行っているのだから。


「面白い奴らだったぞ。こんな俺を快く受け入れてくれた」


 それは幻想。彼の心の中にのみ聞こえるであろう、神倉徹の心に残る、在りし日の残滓(ざんし)。


「ゆめるが前に言っていたろ? TRPGってゲーム」


 彼は家族に語る。家族で語りあう。


「アレも始めて遊んでみたよ」


 今日も、きっとこれからも、毎日、毎日――。


「そうだな。楽しかったよ……」


 かつてできなかった分を、まるで補うかのように。


「あの時から、こうしていればよかったのにな……」


 神倉徹の瞳から涙が零れ落ちる。

 一粒転がり落ちると、後はもう濁流のように、止まらない。


 後悔が、止まらない。




 神倉徹はまだ、独りで生きて行く事に慣れるには若く、未熟すぎていた。




――あれからもう、どれだけ経ったのだろう。




 去年の夏、神倉徹の家族が死んだ。


 剣道インターハイ、正式名称『全国高等学校総合体育大会剣道競技大会』最終日にそれは起きた。


 個人決勝トーナメントを締める最後。

 彼が決勝戦を軽く勝利してみせた直後にそれは聞かされた。


 最初は冗談だと思った。


 急いで駆けつけたい気持ちを抑え、大会の全てをこなし終えると、当時の顧問教師と共に急いで病院に駆けつけた。

 勝利の高揚感など一息で吹き飛んだ。




 そこで見たものは――。




 聞かされた話によると、事故だったらしい。

 ゆるやかなカーブを曲がりきれずに直進し、高速道路脇のコンクリート壁に激突。車は横転大破。


 運転手であった父、神倉真一(しんいち)は頭部を強く打ち、約一時間後に搬送された病院にて死亡が確認された。


 助手席の母、神倉一留(いちる)は衝撃で首の骨を折り、頚椎損傷で約一時間後に搬送された病院にて死亡が確認された。


 後部座席に座っていた妹、神倉夢留は、脳に損傷を受け意識不明のまま、神倉徹が病院に辿り着くほんのわずか前、病院内で眠るように静かに息を引き取った。シートベルトを締めていたとはいえ、打ち所が悪かったらしい。


 全ては、父の疲労からくる居眠り運転が原因だろうと聞かされている。


 車で行ける距離だった事。開始時間が早く、早朝に出なければ間に合わない状況だった事。

 そんな中で、交通手段が高速道路であったという不運が重なった結果だった。


 酔っ払い運転などでトラックが突っ込んできた訳じゃない。

 持病持ちの運転手の発作で車がぶつかってきた訳でもない。

 老人の操作ミスによる事故でもない。


 誰のせいにもできない。

 誰かを恨むことさえできない。

 父のせいにだって、当然出来るはずも無かった。

 仕事の疲れを推して、自分なんかの身勝手な努力の成果を見るためなんかに、あんなくだらない大会なんかのために、疲れを押してがんばってくれたのだから。


 居眠り運転を止められなかったのだ、母も妹も眠っていたのかもしれない。

 だからといって、なぜ二人を恨むことなどできようか。


 眠い中、早朝から家族の弁当を作り、無理を推して来てくれた母。

 若いのだから他に約束もあっただろうに、疲れを推して早朝から家を出て向かってくれた妹。


 誰が二人を恨むことなどできようものか。

 誰が家族を恨むことなんてできようものか。


 だから神倉徹は、誰も恨む事ができなかった。


 だがそれは、振り上げた拳の向ける先が存在しないのと同じ事。



――ならば何を恨む? 何を憎めばいい?



 悲しみを押し殺す事ができるのは強い怒りだ。

 強い怒りを生むには憎しみがいる。

 憎しみが無ければ悲しみに飲み込まれる。



 ゆえに神倉徹は、何かを憎む以外無かった。



 怒りの矛先を向けられるのは一つだけしかなかった。



――神倉徹は、剣道を憎んだ。



 自身が今まで全てを捨てて己の全てを費やし賭けてきた剣の道。

 自身の半身とも言える全てを、憎み、恨んだのだ。



 いや、後悔の原因はそれだけではない――。



 剣道に打ち込んできたせいで、ろくに家族と一緒に取るべき時間も取れなかった。


 ある事が当たり前だと信じていた。

 無くなるだなんて思いもしなかった。

 失って初めて、その大切さに気付いた。


 家族と一緒に暮らす団欒を失い、それが二度と取り戻すことのできないものだと気付いた時。

 その後悔に気付いた時――。



――神倉徹は、剣道を憎んだ。



 家族と一緒に暮らせたはずの時間を奪いつくした“剣道に捧げた時間”と己自身を悔い、恨んだのだ。




 自分が剣道さえやっていなければ……!!




 あの日から、剣の道は神倉徹にとって憎悪の対象となった。




 俺がもし、剣道なんてやっていなかったら、こんな事故は起きなかった。


 俺がもし、剣道なんてやめていたら、もっと沢山家族とやれる事があった。



――俺は何を間違えてしまったのだろう。



――俺は、何のために……あんなくだらない物に生涯を賭けていたのだろうか。




 こんなくだらない事にかまけていなければ俺は――!!




 遺影の三人は笑っていた。

 いつまでも微笑んで、神倉徹という男を見ていてくれた。



「……」



 遺影の三人が笑っている。

 もう、怒ることも怒鳴ることも無い。

 時の固定された、終わりという事象の果てにいるからだ。



「……」



 遺影の三人は笑うことしかできない。

 もうすでにこの世にはいないから。

 彼がどれだけ苦しみに心を痛め、歯を食いしばりながら嗚咽してむせび泣いていたとしても、何もすることはできない。


 死は、それほどまでに、生ある者との間に隔たりを生む。


 両者はもう、二度と交わることは無いのだから。




 それが、死という別れなのだ。





 長い間、仏壇の前で『家族と語り合った』後、神倉徹は独りごちる。



「……本当、父さんらしいよね」



 公共物である壁を巻き込んだだけ、幸いにも他者を巻き添えにしなかったのだから。

 ある意味で立派な最期とも言えたのかもしれない。



「……けど、早すぎるよ」



 神倉徹は涙する。かつての面影を思い出して。

 在りし日の団欒の記憶を思い出して。


「……」


 神倉徹は立ち上がり、天を見上げる。

 こみ上げてくる涙を振り払うように。


 そして一息吐いて落ち着くと。



「死神……か」



 独りごちた。



「まさに俺にふさわしいあだ名じゃないか」



 自嘲して微笑む。


 そして独り、部屋にこもる。


 今、彼の心を癒してくれるのは、悲しみを忘れさせてくれるのは、彼の友人、木村ケイト、彼が貸してくれた“ゲームやアニメ、漫画”だけなのだ。


 スポーツマンの知人、ライバル達が、こぞって“負け犬の現実逃避”と揶揄していた“それ”。



 “それ”だけが、今の彼の心を癒し、全てを忘れさせてくれる、唯一の心の鎮痛剤なのだ。


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