第19話 ゼアー・タイム・オブ・デス

 

 

 

 

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 捻ったアクセルはマフラーから排気音を奏で唸らせ、その役割を見せつけていた。

 人気もまともな建造物も少ない、ほぼ廃棄されたような道。迷路のように這う中層と下層の堺間を馬鹿みたいな速度で駆け抜けていく。

 赤い大型機関二輪エンジンバイクは単眼のヘッドライトで闇を裂き、凶暴なスパイクで舗装を噛み砕くように地を蹴る。

 まるで運転手の焦りを現すような乱暴極まりない走り。

 赤いライダースの裾がはためき、下の黒のタンクトップをチラつかせる。ガソリンタンクを挟んだライトブルーのデニムが覆った太ももにきゅっと力が込められていた。

 傷の一つもない長く細い真っ白な指は、汗ばみ滑らないようブラックのラバーグリップを血管が浮かぶ程に握り締めていた。

 

 ――カレン=T=オールドリッチは焦燥のままにセーフルームを飛び出してきていた。

 

 レン=ブラッドフォードは、企業人、多国籍企業郡所属というこの時代では有り触れていて誰もが持っているしがらみに引かざるを得なかった。

 ならカレンはどうかといえば、とてもとても個人的。

 

 いつもの通り、ダーリンケンゴの為。

 

 「ああもう、嘘でしょ?!」

 

 思わず言葉が溢れだす。乗った感情は心情そのまま。焦燥、ただそれだけ。

 ケンゴに付けていた監視ドローンが捉えたのは戦闘が始まった時から。

 ついさっき反応が途絶えた。

 最期は煙で画面が埋まり、後に残ったのはブラックアウトだけ。

 撃ち落とされていた。感知できないレベルだった。観測不可。

 それが何よりも彼女を焦らせた。

 

 ケンゴに付けていたそれはカレンの手札の中でも上位に当たるものだった。

 彼女が設計から組み上げまで行った完全なオリジナル。

 静音性や耐久性もさることながら、目を見張るのはその持続性。

 ケンゴ――狩人である彼は唐突に姿を消す。狩人の本能が異形を探知し、自動的に異形の元へと走らせるのだ。

 そんな彼を監視――もとい見守る為に最も重視された点であった。

 

 物理的なバッテリーを搭載するのには限界がある。いくら小型化コンパクトが進んでもそれだけは付き纏う。

 次点で無線充電ワイヤレスが候補に上がった。まあ、当然の帰結だろう。

 しかし、結局のところ供給先が必要になるのは変わらなかった。

 ――結論、金銭面や現実性から小型化コンパクト無線充電ワイヤレスの複合で落ち着いたのだった。


 元々、ドローン以外にも極小電動蟲バグやらなんやらをつけえ完璧な形をカレンは描いていた。

 ドローンだとどうしても入れる場所や制限が出るが為の処置だったのだが、どうにも狩人というのはそういうものを受け付けてくれないようだ。

 付けて少しの間は動いても気づけば動作を止めたり、不良を起こしたりしてどうにもならなかった。

 こうした経緯もあって複数台のドローン投入による監視体制が引かれた。

 そして、母艦と搭載した小型機を循環する方式で当面は対応するようにしたのが七日前の話。

 

 本日、諸共まとめて吹き飛んだ。

 約一週間。短い稼働時間であった。

 

 小型機が吹き飛んだのが少し前。母艦諸共飛び立とうとした小型機はその少し後に消滅。

 羽ばたいていった分の金額と口座の現状を思い起こせば非情に痛い――というのも確かにカレンの中にあった。

 が、一番はやはり意中の彼だ。

 

 行ってどうなるかといえばどうにもならないのだが。

 此処はやはり、感情の問題だろう。

 考えるよりも先に走り出していた。

  

 ――こうして現状に至る。

 

 回想を済ませる頃には、ケンゴとヨシカゲの居た銭湯――。

 バイクでものの数分。徒歩で十分ほど――道が分かっていればの話だが。

 

 「……これ」

 

 ――のあった筈の場所に辿り着いていた。

 まるで廃墟であった。

 周辺区画は静まり返っていて、人っ子一人居ない。中層と低層の境目にあるこの辺りは、普段なら露天や幾つかの商店が開いていて、賑わっているというのに。

 箱型の店舗は軒並みシャッターを下ろしている。露天が並んでいたであろう場所には敷かれたシートや簡易店舗を残して商人は居ない。 

 そう、居なかった。

 

 「……酷い」

 

 端正な顔に悲痛を乗せて、カレンは呟いてた。

 死骸があった。

 何が起こったかも分からず死んだ顔があった。頭部と泣き別れした体があった。人と人に押し潰された子供だったものがあった。欠片でしかないものがあった。

 目的地、ドローン最後の一体の反応が途絶えたほうへと行けば行くほど酷い有様。

 死体は目に見えて増えていき、店も家も無事ではなかった。

 

 まるで戦場だ。

 

 流石の彼女も唖然とせざる得なかった。

 ゆっくりと大型機関二輪エンジンバイクを進める。瓦礫が多すぎた。飛ばせば共にスクラップ一直線だ。

 

 こうして進んで見れば――見覚えのある後ろ姿がしゃがみ込んでいた。

 ツンと天を向く黒髪、見覚えのある服、その横顔を見ればわかった。

 ヨシカゲだ。

 

 広い場所だった。通ってきた蟻の巣めいて無秩序に縫われた通路とは趣が違った。息が詰まるような灰色の壁に囲まれているのは変わりないが、それでも幾らかましだった。

 広場というべきだろう。普段ならば人で賑わっているはずだ。

 しかし、やはりか。

 カレンが通った道と同じく、此処にも散らばる死屍累々。

 

 むわりと漂う死臭に思わず顔を顰めてしまった。

 

 しかし、カレンの瞳は見覚えのある後ろ姿ともう一つの人を捉えていた。

 後ろ姿に背中を支えられている黒髪――大型機関二輪のスタンドを下ろした彼女は、走り出してた。

 感情のままに全力疾走。

 辿り着いて、荒い息を零して、

 

 「……そんな」

 

 目を見開いた。震える声。足から力が抜けて、へたり込んでしまう。

 双眸に映るのは、唯一つ。

 

 咬切ケンゴ。その彼の姿。

 

 ただ、いつもと違うとすれば――とても小さかった。

 百八十センチを少しすぎるほどの身長の彼が半分以下になっていた。

 単純解明――今の彼には胸から下がなかった。

 臓物の尖端が断面から覗いている。繋がっていた先は見当たらない。


 凄惨たる様であった。


 これでまだ呼吸の動作をしているのだから驚きだ。

 肺など既に半分も無いというのに。

 

 「あ、ああああ、そんな、そんな――――」

 

 広げた両の五指が彼女自身の瞳を覆い尽くす。

 現実を認められない。彼女の心情を代弁していて。

 次の瞬間、彼女は絶叫していた。

 

 ――何も言えなかった。

 

 カレンより先にたどり着き、ケンゴの変わり果てた姿を目にした彼自身もこの現実を否定したがっていた。

 けれど、目の前からこの現実は消えてくれない。

 時間が経てば経つほど、生々しく、事実として居座っていく。

 

 「ああ、クソ……」

 

 溢れた罵声は誰に向けられるもなく、力なく、地に落ちた。

 しかし、彼は此処で止まることは許されない。

 

 ――――低層を揺るがさんばかりの爆音が彼らに届いた。

 

 「ッ!」

 

 勢いよくヨシカゲは振り向く。

 尋常ではない事が起こっている。

 眼の前のケンゴの有様、このあまりに巨大な、それこそこの〈エンパイア〉を沈ませかねないと錯覚させるほどに巨大な破砕音。

 その時、ヨシカゲは鉄錆の味を、味わいなれたそれを感じた。

 ――立ち上がり。

 

 「……オールドリッチさん。ごめん、ケンゴを頼むよ」

 

 返事を待たずに駆け出した。

 一気にトップスピードに乗って――強化外骨格エクソスケルトンを展開。

 カレンの目には、突然消え失せたように見えただろう。

 それほどの速度であった。

 しかして、その姿は昼間はあった壮健な様相はない。

 無残無残。白の装甲は薄汚れ、幾つもあるべき場所から姿を消している。頭部を覆う兜はユキカゲに粉砕されたままだ。

 特に胸から背中にかけて一直線に、丁度肺を撃ち抜くような形で開いた大穴は致命的だ。

 未だ機能しているのがおかしいくらいだった。

 

 『――修復は?』

 

 『通常駆動可スタンディングバイ――戦術駆動可能時間リミット残三分スリー

 

 『上出来だ』

 

 冷たい汗を、込み上げる悪寒を強気な笑みで誤魔化して。

 彼は鋭く、地を蹴った。

 

 

 

 

 +++

 

 

 

 

 「よお」

 

 「誰だよ、あんた」

 

 親しげに話しかけてきた男はベッドに腰掛け、無表情に膝で頬杖をついていた。

 部屋だ。ケンゴの自室。中層の一角にあるマンションにそれはあった。

 1ルーム。真っ白な壁紙、薄茶のフローリング。家具といえばベッドと冷蔵庫くらい。

 小さな窓から差す穏やかな日差しと天井の光源が薄らげに、この部屋に降りた暗色を和らげていた。

 酷く殺風景だった。

 まるで彼の心情風景を示すがごとく。

 

 「お前が探していたやつだよ」

 

 「……先代、狩人」

 

 思い至るのはすぐだった。

 

 「正解」

 

 「なんのようだ」

 

 「なんのようってお前」

 

 呆れたような嘆息。しかし無表情は変わらない。何も映らない曇った瞳はまっすぐにケンゴに向けられていた。

 

 「お前、自分が何してたか憶えてないのか?」

 

 「……死にかけてた、もしくは死んだ」

 

 冷蔵庫を開け、「完全にうちのだな……」ボトルを一つ取り出すとキャップを外して口を付けた。

 

 「呑気だな」

 

 「……死ぬ時は死ぬさ」

 

 半分ほど飲み干して、ケンゴは答える。

 酷く冷めていた。

 死に瀕しているとは思えないほどに、他人行儀に自分をケンゴは見ていた。

 多分それはきっと、まだ終わっていないという確信が彼にあるからだろう。

 己の存在を、狩人というものが継がれていく存在でありこの程度で終わらないという理解の元に確信はあった。

 

 「経験則か?」

 

 ただ、それだけではない。

 

 「……経験則だとも」

 

 ボトルに再び口をつけて飲み干して、

 

 「この間一回死んだ」

 

 「……意外だな。憶えていたか」

 

 驚いたような口ぶりで男は言う。

 

 「今さっき思い出した」

 

 押し潰したボトルを壁にあるダストシュートへと放り込む。閉じていた入り口が開いて能動的に伸ばされたアームが引きずり込んでいった。「これもちゃんと動くのか……」横目で呟く。

 

 「俺は一度確かに死んでいる。あの夜、あの商業特区で俺は異形に殺された」

 

 答えて、脳裏に過る死の瞬間。

 ただの散歩でしかなかった。少しの遠出でしかなかった筈だ。

 

 ――なのに、気づけば随分と遠い所まで来てしまっていた。

 

 今ならはっきりとケンゴは思い出せた。

 後悔があるとすればどうだろうか。

 狩人というものにやりがいめいた感覚は得ている――しかし、これは与えられたものかもしれない。

 異様な執着や狂気めいた思考が狩りの度に興起する感触を彼は確かに感じていた。

 自問自答。明けぬ夜が如く、円を描いて彼の中に渦を巻く。

 

 「大体のヤツはそこまで思い出すのは完全に死んでからだ」

 

 片方の口端だけを吊り上げて、無表情のまま男は語る。

 

 「やるじゃないか、後継者。未だに自我を保ってるのも素晴らしい。大半は来る前に最適化されてる」

 

 「……そりゃあ、お褒めいただき恐悦至極」

 

 棒読みも良いところだった。

 

 「まあ、また死んだわけだが。おお死んでしまうとは情けない」

 

 有名レトロRPGのテンプレを口走らせる男は声色に呆れを滲ませる。

 酷く癇に障る男だとケンゴは内心思う。

 が、口にはしない。お見通しかもしれないが、とりあえず言いたいようにさせておくことにケンゴはした。

 

 「あんな異形は見たことがない」

 

 言い訳じみた言葉だが、事実だ。

 彼が見たのは、獣、蟲――後は判別つかない異形。

 該当するとすれば後者であるが、機械混ざりとなるとケンゴにも察しがつかない。

 彼自身この狭い〈エンパイア〉での経験しかない以上、仕方がないが何よりも――。

 

 「そうだろうな。狩人の経験則――所謂目録インデックスには乗っていない。俺達は初遭遇ということになる」

 

 そう、彼らですら知り得ないというのがまずおかしい。異常極まりない。

 

 「引っかかる物言いをするもんだな。俺達は? どういうことだ」

 

 「お前も知ってるだろう、狩人とは積み重ねだ。俺達は無数の経験で成り立っている。

 ――では、その経験とやらは何処にあると思う?」

 

 思えばそうだ。狩人の集積経験や知識というものが何処にあるのかを考えたことは無かった。

 それからケンゴは少し思考を巡らせ、伸ばした人差し指を頭に向けた。

 

 「……俺の、中か?」

 

 「まあ普通だな。しかし悪くはない。正解ではないが」

 

 「はっきりしない言い方だな。簡潔に言え」

 

 苛つきが言葉に乗る。

 

 「集積情報は狩人の数だけ重なる。俺達という個体に置いての集積はざっと数万とかそんなところだろう」

 

 「……そのへんは触れていなかったが、俺達以外にも狩人は現存するのか?」

 

 「そりゃな。地球全土、端末一つでカバーは無理だろ」

 

 「まあ、確かに」

 

 納得するしか無かった。当たり前だ。

 

 「ただ俺達、狩人の本体は共通。極論言えば一人で狩りをしているのと変わらんな」

 

 「もう少し解りやすく言ってくれ」

 

 ケンゴと言えど、この男の物言いには困り顔になってしまう。

 なにせ独り言めいているというか、相手が解っている前提で話してくるのだ。

 確かに。男とケンゴは同一の存在だ。趣向や性癖も違うだろう。しかし、元は別でも既に狩人という存在に統合されている。もう完全に同一といって憚らない。

 違いがあるとすれば保有する人格的な存在経過年数だ。

 個体への経験値の蓄積量の差は、同一フォーマットの、同一のインデックスを持っていたとしても親和性や検索能力の高さが違う。 つまり、そういう話だ。

 

 「俺達は樹木から分かれる枝葉、親機から無数に分裂する子機ということだ」

 

 「……なるほど」

 

 分かるような、分からないような話だった。

 そんなケンゴの様子を読み取ったのか、

 

 「話を戻そう」

 

 と言って余談を切り捨てた。

 

 「今言った親機、大本に俺達狩人の集積知識は随時リンクし、バックアップされている。

 そのバックアップの解凍こそが、狩人における代替わりってわけだな」

 

 「……?」

 

 疑問符がケンゴの頭上に軒を連ねた。

 溜息が聞こえた。ケンゴは頭の中で何かが千切れそうになる音も聞いた。

 

 「噛み砕けば……そうだな……」

 

 頬杖していた手を顎に当てて、考え込むと。

 

 「ああ、あれだ。クラウドストレージってあるだろう? ネットワーク越しに保存媒体からデータを引き出すってやつだ。分かるか?」

 

 「……あーー多分、分かる」

 

 甦った記憶は少し前、狩人になるより前のこと。知り合って間もないカレンに引き摺られて端末を購入しに行ったときのこと。

 色々と文句を言われながら買い替えた時の記憶は鮮明で、壊した上に頭を下げた身としては何も言えなかったのをケンゴは憶えている。

 クラウドやらの話もその時聞いた――筈だ。

 なにせ話しだしたら止まらなかった。まるで情報の濁流のようだったとケンゴはその時の事を思い出す。比喩もなく言葉通りだったからケンゴは受け止めるので手一杯で、憶えるどころではなかった。

 それに前述の理由もあって、止めれなかった。

 なにより、そう――楽しそうに話しているのを止めるのは忍びなかった。

  

 「ならよし」

 

 笑みが言葉の端に見えた気がする。

 どうやらこの男は思った以上に教えるのが好きらしい。

 

 「俺達もそんなもんだ。俺達端末には蓄積経験や記憶はあって無い。本体に繋がっているのを常に引き出し、落とし込んでいるからな。だから、俺達の中であって俺達の中でない」


 「……じゃあつまり、あれか。そこにあの異形の情報はなかった、と」

 

 肯定の頷き。

 

 「そう、俺達は知らない範囲――だが俺達は知らなかったがついさっき、知ってるやつが介入してきた・・・・・・・・・・・・・

 

 「! なるほど、あの時の感覚は……」

 

 直ぐに思い至った。あの翼の異形と対面した際の感覚。誰でもない誰かの感覚があった。

 誰かの危機感と誰かの憤怒を感じた。

 

 「ああ、そうだ。それだ。俺達が知らないことも知り得る。所謂上位権限ってのだ。俺達の管理者に当たるやつだな。基本顔を出す事は無いんだが……」

 

 上がっていた口端が下がって、やけに真剣な面持ちで告げる。

 

 「相当な緊急事態らしい」

 

 「……なるほど」

 

 二人の視線が一点に集中する。

 部屋の片隅。先程まで空白だった場所が今は埋まっていた。

 

 「いつぶりのシャバだよ、おい」

 

 「――さあ? どうだろうな」

 

 女の声。暗がりからゆっくりと歩み出てくる。

 かつりと踵が鳴った――ハイヒールだ。

 

 「我とて狩人として保存されている一体に過ぎぬ。ただ、他より本体に近しいくらいだ」

 

 暗がりを溶かす微光の元で照らされて、

 

 「他と変わらず、必要なときにしか出て来れんよ」

 

 現れたのは、美しい人。

 艷やかに流した長髪は白銀が如し。肌は初雪のように染みも傷も一片すらない。纏っているのは黒一色の拘束着。腕や腰等の各所にあしらわれた拘束用のベルトがあって、緩く締め付けている。

 それもあり、薄い拘束着は彼女の豊かな凹凸を惜しげもなく晒していた。

 

 この世の至宝を掻き集め、飾りつけようとその美しさに届くことはないだろう。

 人の尺度で図れる美しさなどでは到底敵わない。

 これは星だ――ケンゴはそう思わざる得なかった。

 

 正しく、圧倒されていた。

 

 大自然の美しさに似ていた。けれどこれは手を入れることすら出来ない。 

 凄まじいまでのエネルギーを惜しげもなく放ち、恒星が如く煌めくこれは存在そのもののステージが違う。

 まるで永遠に輝き続ける夜空の綺羅星。  天上大河に輝き遍く星々の残影を誰が汚せようか。

 絶対的な美の概念、その終局。

 彼女はそういうものだった。

 

 「嗚呼……なんと……」

 

 目が合い、彼女はケンゴに近づいていく。

 ケンゴはたじろいでしまった。異形以上の圧。威圧や殺意に晒されたわけでもないのに構えてしまっていた。

 恐ろしいまでの美貌のそれは大きく煌めく翡翠の瞳、高い鼻、小さな唇――黄金比やシンメトリーの局地に溢れんばかりのあらゆる感情を綯い交ぜで歪めると、ケンゴの頬に指を添えて。

 

 「ようやく会えたな、ケンゴ」

 

 ひしと強く抱き締められた。

 ひゅーと上がった冷やかしにケンゴは非難の目を向けて。

 

 「いや、ちょっと待て……!!」

  

 背中に回された両腕と高い身長を用いて顔面に押し付けられたたわわ・・・からどうにか抜け出して、ケンゴは距離を取った。


 「あんた、突然なんなんだ……!!」 

 

 「何って……」

 

 きょとんと目を大きく丸めたと思えば小さく笑う彼女の言葉にケンゴは目眩を憶えた。

 

 「家族とはこういうものだろう? 抱き締め、囁き、愛を伝える――我はお前達からそう学んだ」

 

 ――いやもう、崩れ落ちそうだった。

 

 「待ってくれ……意味がわからない……」

 

 「いや、待たない」

 

 離した間隔を詰めてきた彼女はとても真剣だった。馬鹿みたいに顔が良いからよく映える。

 ついに爆笑が聞こえた――それでも男は無表情。

 

 「温かいな、ケンゴは」

 

 再び眼の前で大きく広げられ、ケンゴを包み込んだ腕。彼の頭上から囁かれる自身の名。あまりの暖かさ。安心感。

 それらと裏腹にケンゴの顔に困惑は広がっていく。

 

 「…………訳わかんねえ」

 

 背中に回った腕の強さを感じてしまうと、振りほどく衝動が急速に萎えていった。

 まるで、母に抱き締められているかのような感覚だとケンゴは感じながら彼女の胸で力なく呟いた。

 

 

 

 

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