第18話 アンダーワールド・イン・ダーク

 

 

 

 

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 ――結局の所、知慧ツールが物を言うのだ。

 

 街を行く。

 行くのは、建ち並ぶ無数に走る毛細血管のような道。大通りから路地裏、ビルの谷間の通り――そう、隅々まで。

 燃料機関エンジンの放つ叫びエフェクトを引き連れて、誰も居ない、極彩色の路地裏という言葉に似付かわしい路地をカレンは駆ける。

 加速捻る

 多方向より蠢く防壁ファイアウォールや迫る盗掘殺しアンチエネミー

 それらの伸ばす爪より、逃げる。

 一瞬手前、彼女が居たそこに盗掘殺しアンチエネミーの鋭い穿槍ペネトレーターが突き刺さる。

 

 盗掘殺しアンチエネミー。解りやすく言えば、巡回警備員ガードマンのようなものだ。

 基本的には指定されたエリアを巡回するセキュリティソフト。

 だが、今それはカレンを親の仇とばかりに追跡していた。

 盗掘殺しアンチエネミーはカレンの頭程の大きさだった。

 忙しなく羽撃く四の羽。頭、体節、腹で構成された体。腹部の尖端には鋭利な射出式穿槍ペネトレーター

 色はカレンの認識に補正され、赤く染まっている。

 八体、この路地を縫う様に追ってきていた。

 

 盗掘殺しアンチエネミー自体は、既製品としてある種の専門店などで販売されている。

 元はただのアンチウイルスソフトだが、対象のアドレスを追跡するような苛烈さと排除の意思を付与され、再構築リプログラミングされていた。

 

 それらは確かな意思を持ってカレンに追い縋る。

 無論、敵意である。

 

 「鬱陶しい……!!」

 

 苛立ちを声に乗せる。

 カレン=T=オールドリッチは向けられる敵意や悪意に震える、興奮を覚えるタイプだ。

 しかし、彼女は自身の手を煩わせるようなものが大嫌い。

 そう、こういった輩は特に。

 

 苛立ちは彼女に形成された仮想電脳神経路ライン興起スパークさせる。

 彼女の身に浮かぶのは、タトゥめいた仮想電脳神経路ライン起動エフェクト

 頬から首を伝って体に這い回り、両手足に蜷局を巻いて指先や足先まで、それはその指先を伸ばす。

 瞳が、髪と同色の黄金瞳が起動エフェクトを受けて、赤の色彩を仄かに帯びた。

 

 直進ストレート散る赤エフェクトが後引く様は、カレンがさらなる加速を選んだことを如実に示している。

 

 抜ける。路地裏から路地を、ビジネス街めいた高層建築物が左右に建ち並ぶ大通りへと飛び出す。

 通行人など、他の自動車など気にする必要など無い。初めから居ないのだから。

 二と二、合わせて境の無い四車線へ急停止ドリフト

 二輪が滑った後に赤いラインエフェクトを刻みつけて真紅の大型機関二輪エンジンバイクは停止した。

 

 迎え撃つ。

 

 仮想電脳神経路ライン興起スパークが示すのは唯一つだ。

 彼女の纏うツールプログラムが起動したということ。

 後は、カチリとトリガーを引けば仕舞――だから、カレンは既に引いている。

 

 ――ばら撒いた赤い粒子エフェクトが路地で弾けた。

 

 爆雷めいて空中で炸裂――盗掘殺しアンチエネミーのうち五体と防壁ファイアウォールの幾つかが狭苦しい路地から飛び出す間も無く、粉々に爆発四散した。

 ついで迫るのは残りの三体。

 そして、残った四枚の防壁ファイアウォール

 

 一息つく間など無い。

 

 先んじたのは、盗掘殺しアンチエネミー

 赤い残滓爆風を引き裂きながら迫るその姿は、正に驚異に形を与えたようにカレンには見えた。

 

 だが、既に結末は見えている。

 

 ――防壁ファイアウォールが背後から盗掘殺しアンチエネミーの頭頂部を切断ギロチン

 

 防壁ファイアウォールの一つ一つは、四辺形でやや縦に長い形をしている。

 本来ならば他と組み合わさり、それに応じて機能を発揮するのだが――もう書き換えられている。

 次々と防壁ファイアウォールは残った二体へ突き刺さっていく。

 

 両羽根を切断し、返す要領で二枚は同時に盗掘殺しアンチエネミーにある二つの、蜂としての継ぎ目へ突き刺さり――三分割。バラけたそれは無残に転がり、断面を晒す。

 最後に残った一枚は同じく最後の一体へ腹を、背中から沈むよう貫く。

 そのまま盗掘殺しアンチエネミーの内部に深く喰い込み――一瞬で巨大に成長し、地に繋ぎ留めた。

 まるで、下手くそな標本の様に。

 

 それで終わりだ。

 

 この瞬間から盗掘殺しアンチエネミーはもう盗掘殺しアンチエネミーではない。

 盗掘殺しアンチエネミーというプログラムはもう、此処に居ない。

 あるのは、スパゲッティどころではない程にぐしゃぐしゃに引き裂かれた残骸だけ。

 

 盗掘殺しプログラムという存在の死であった。

 

 「……たく。手間かけさせやがって。遠回りになったし、無駄なツールも使った」

 

 嘆息混じりにぼやくカレンは、早々に残骸から目を逸らすとまんまとかかった目標へと目を向けた。

 

 「まあでも、不問にしてやるよ」

 

 ――結論から言えば、解りきった痕跡は全て存在しなかった。

 例えば入港記録。例えば建造物の購入記録――色々と手を伸ばしたが、カレンの目にもプログラム達にも掛からなかった。

 そもそも、そういった記録は最初から当てにしていない。

 

 漁って見れば何か反応があるかと思ったのだ。

 

 自身を餌にした釣りとは、まあなんとも恐れがない。

 だが、どうやらこの様子を見るに掛かったらしい。

 だからこそ、カレンは此処を目的地と定義した。

 

 ――――ここが貴様の目的地終着点だ、と。

 

 視線の先、彼女の笑みが直撃した先。左右に建ち並ぶ高層建築物、四つほど先の上部に敵影視認。

 

 

 ――さて、この電脳世界フロムスペースの戦い方のお話をしようと思う。

 まず、電脳世界フロムスペースは人の意識が介在する場所ではない。

 もっと無秩序で、無法で。そこには世界の決めた人が手を入れられない法則トリキメの支配する場所。

 

 世界という形は、結局のところ人が定めた定義だ。

 此処は、ネットワークの上。

 都市を無数に這い回る空間ケーブルと飛び交う無秩序電波

 無数のコードが織りなす電気仕掛け。

 世界電脳は大気が如く〈エンパイア〉に偏在していた。


 だからこそ、此処で現実の理論戦術は通じない。

 

 何せ、視線プログラムを交わしただけで生死が定まるのだから。

 

 見下ろしていた敵影が額を撃ち抜かれたように、後方へ消えていった。

 

 そう、一つ。

 

 一つ、増えた。

 やけに高い背――目測では二m程。球体関節で繋げられた長い手足。背景に滲むような黒い影。縮尺が狂ったような風。カレンより数メートル離れた赤い色彩散る虚空に揺れる。 

 それは、ぶらりと何度か左右に揺れて――カレンは喉元に強い圧迫を感じた。

 苦しい。呼吸ができない。此処に肉体は無いというのに。

  

 現実への干渉――電影体アバターという意識を編み込んだ幾重ものプログラムの上にあるそれは、この電脳世界フロムスペースに人が立ち入る為の存在だ。

 つまり、虚像に過ぎない。

 ただ、この世界を渡り歩くために描かれた画上の絵。

 生体組込式端末バイオデッキに直接仕掛けクラックされない限り、ありえない。

 カレンの首筋に入る痛々しい赤い、荒縄のライン

 

 

 つまるところ仕掛けられていた。

 

 

 視線を媒介にした電影体アバター同士の必殺である即席破壊方式ブレイカーを用いなかったのは、対策を見取ったからか、使えないからか。

 何はともあれ。

 意識を搾り取るこれは電脳戦闘において非情に有効だ。

 

 ――絞殺というのはやや猟奇的で原始的だが。

 

 「邪魔」

 

 顰めっ面の一言。背高い、虚空の首吊り男ハングドマンは首吊り縄と同時に脳天が撃ち抜かれた――そのまま、自由落下。

 同時に、カレンを吊り上げようとしていた荒縄エフェクトも消滅。

 視線を媒介にした即席破壊方式ブレイカー

 嗚呼、赤を湛えた黄金瞳に揺るぎはない。

 

 「――そこだな」

 

 方向転換アクセルターン。着いた右足を基点に勢いよく廻り――視線ブレイカーが標的に絡むように突き刺さる。

 背後にいつの間にか現れていた手長面長の黒い怪人に燐光が着弾=先の首吊り男ハングドマンと同じ末路。

 ふと見回せば、増えていた。

 何体も、視界を埋め尽くさんばかりに蠢く手長面長の黒い怪人。

 皆一様に首に掛かっているのは、虚空に伸びる黒い荒縄ラインエフェクト

 

 ――――黒縄の、虚空に溶けていた反対側がカレンに絡みついた。

 

 「――捕らえた」

 

 カレンから、幾つか離れたブロック。現実なら有名コーヒーチェーン店として存在する店舗。

 いつも座っている窓際のカウンター席で彼女はにやりと口端を上げる。

 

 空間投影式モニターコンソールを前に、彼女はセットになった投影式入力器キーボードに指を滑らせていた。

 電影体アバターを通した術式プログラム行使。

 電脳世界フロムスペースで必要なのは、認識と描画力。そして、世界電脳への造詣。

 この様な動作は実際不要だ。

 これは彼女の認識や描画の補正、補強と言える動作であり、彼女が得意とする制作工程カスタマイズをより昇華する為に必要不可欠なもの。

 彼女の手法は、簡易術式スクリプトで妨害し、手札を出させ、相手に合わせた術式プログラムを即興で組み上げての攻略。

 だからこそ、彼女の指は忙しなく動作していた。

 

 ――封殺する。

 

 レイ=ブラッドフォードの役割メインは情報収集。

 そして今の役割は、排除。

 完膚なきまでに叩きのめす――廃人どころか肉体破壊フィードバックすら厭わない苛烈さがあった。

 

 ――――そもそもの話をしよう。

 事の起こりとなったのは、商業特区の崩壊から起こった外の組織への手引き。これは幾つかの企業、それに反抗する組織による策謀から生じたもの。崩壊そのものは副次的、彼らの思惑によって作られた現象ではない。

 彼らは尻馬に乗った形だ。

 まあ、起こったから行動を起こしたのではなく、元々計画し、起こしていた行動が崩壊に乗じた形だった。

 外縁部、しかもこの〈エンパイア〉の外との交易や交流において大きな比重を持つ商業特区の崩壊したというのは結構ショッキングな出来事であった。

 大プロジェクトの一つである〈エンパイア〉での大事故は関わっている企業群やその下部企業のイメージダウンに繋がる。


 それらを踏まえた上で、〈マーキュリー〉は行動に出た。


 他の組織に入り込み、行動把握や場合によれば乗っ取るようにしたのだ。

 それがユキカゲやレイ達の傭兵派遣であったり、武器の供給であったり、情報の提供であったりと、手段は様々こうじられた。

 全ては〈マーキュリー〉という企業郡が〈エンパイア〉の実権を握るため。

 

 ――現実、それは叶わなかった。

 

 他企業郡や〈エンパイア〉直轄にある企業群部隊による強襲。

 〈マーキュリー〉そのものは今の所追求を逃れているが、そもそもの卓袱台返しめいた策略はご破算となった。

 追い詰められた彼らの元に舞い込んだのが――新たに出現した狩人の情報。

 正に、地獄に垂れた蜘蛛の糸。

 

 飛びつかない筈がなかった。

 

 結果、狩人狩り。

 指令が下され、ハンターズであるレイ=ブラッドフォードもその役目の元に尽力していた。

 前述の通り、彼女の役割は情報蒐集だ。

 メガフロート内部の極大化した情報の海に、通常空間での処理時間はあまりにも長く掛かりすぎる。

 だから、没入ジャックインした。

 

 と、してみればあからさまな誘い。

 

 レイ=ブラッドフォードは元来、情報部の出。

 何処の情報部かはさておき。そのブラック度合いに嫌気が差し、企業群下の企業に入った――のはいいのだが、追手が掛かってしまった。

 それから〈マーキュリー〉側への経歴偽装からの脅迫そのものの揺さぶりに折れ、以来傭兵として、ハンターズに彼女は席を置いている。

 そんな来歴からか、レイ=ブラッドフォードは疑心暗鬼にかられ続けている。

 異様なまでの糖分への執着は恐らくストレスだろう。

 まあ、彼女の様な職種人種が甘い物を好むのはよくあることだ。

 カロリーなんて此処では意味がない。だからか、その摂取量は現実とは比にならない。

 ただ甘みを味わうためだけに置かれたベンティサイズには並々とチョコレートホイップクリームと彩りのチョコソース。透明な容器から覗くのはチョコレートとクリーム、紅を差す様なイチゴフレーバーのマーブル模様。

 ――既に幾つかの空容器が床に転がっていた。

 こんなところでも糖分から逃れられていない辺り、依存の深刻さを感じられる。

 

 閑話休題それはさておき

 

 疑心暗鬼と彼女の企業群や元所属していた情報部への恐怖が、カレンを襲う理由が主だ。

 もっともらしい理由をつけるとするならば、〈マーキュリー〉の極秘事項へ探りを入れる電脳盗掘者ハッカーの始末もしくは捕獲――正当な理由としては申し分ない。

 

 今の所、首尾よくいっている。

 相手の反撃も予想内。

 精巧な電影体アバターや反撃の即席破壊方式ブレイカーは手練であることを証明していたが、彼女は自身に及ぶ程ではないという認識だ。

 一仕事終えた後のストレス発散には申し分ない。

 だからか、彼女のエンターは高らかに響いた。

 

 変化は即座に起こる。

 

 ほぼ一瞬で首吊り男ハングドマンを燼滅したカレンの前へ――なんの前触れもなく出現。

 兆候は一切ない。

 認識で形成されているこの電脳世界フロムスペースの構成をすり抜けるよう。

 

 現出したのは――獣、四体。

 

 構成色は黒。まるでカレンの認識を食い破っていくか如く、散りばめられた赤を虫食う。

 しかして、獣というには生々しさはない。

 覆い尽くす三角錐的刺々さの装甲は艶消しのブラッククローム。覗く牙より顔から四足から爪先、尻の上より空を撫でる尾までも色は変わらず。

 四足獣的頭部に煌々と輝く三点に配置された黄の眼球だけが、ぐるりと三六〇廻ってそこが暗闇でないことを主張していた。

 落ち着いてよく見れば、どちらかといえば犬科めいていた。ドーベルマンやああいった猟犬に近しい風貌だ。

 音も無く、四体は地を蹴った。

 

 ――牙の向く先は言うまでもないだろう。

 

 ギュルンと二輪が回って、加速。

 迷いはなかった。加速と同時に方向転換ターン―― 一瞬手前彼女が居た場所に獣が殺到した。

 

 「ティンダロス」

 

 微笑って、米上にかかる前髪を掻き上げながら彼女は言う。

 

 「食い千切って」

 

 追いかけっこチェイスの始まり――にはならず。

 急旋回。急ブレーキと体重移動で浮かしたタイヤがティンダロスを一体吹き飛ばした。

 返す刀に、跳ね上がるジャックナイフ。後から迫っていたティンダロスの下顎へと強かに叩きつける。

 きゃいんと悲鳴を――上げず、二体は体を地に擦り付けることとなった。

 直後、燼滅。

 無論、即席破壊方式ブレイカーだ。

 分解ディ・コンパイル滅却デリートを一工程で済ませる。淀みは無いし、躊躇いはない。視線と意思と認識が伴えば即座に走る。

 即席破壊方式ブレイカーとはそういうものだ。

 

 「――――嫌だね・・・

 

 歯を剥いて、ワイルドにカレンは笑ってみせる。

 

 「ティンダロス!!」

 

 生かしておかない。駆け抜けたのはそんな衝動。声として思わず出力されていた。

 既に指先をかけられた感覚。鼻先を掠める刃のような視線。

 ――そんなものは求めていない。

 見たいのも、求めているのも、その体をズタズタに引き裂くことなのだから。

 苛立ちを乗せて、指は盤上キーボードで踊る。

 

 ――――艶消しのブラッククロームを、仮想電脳神経路ラインが黄金の瞬きを伴って駆け巡った。

 

 須臾。10の-15乗。ありえない程に、人智を遥かに超えた一瞬。

 刻みつけられた黄金の色彩エフェクトが四足を伝って、道に伸び、枝葉が如く分岐し――カレンの認識に食い込んだ。

 侵食――虫食いとは比較にならない程に蝕まれていく。

 

 電脳世界フロムスペースでの戦いとしては、ほとんど最終段階にあると言っていい。

 

 認識ウォッチ侵食エフェクト破壊クラック

 彼ら、電影体アバターを駆る走者ランナーにとっての基本の基本で常識ベーシック&ベーシック

 

 鬩ぎ合い、画上をひたすらに重ね塗る。

 赤と黄金が虚空で混ざって弾けるスパーク

 そしてこれはその二段階目、侵食エフェクトにあたる――が既にそれも終わろうとしていた。

 互いに伸ばした線や糸、絡める指先が指し示している。

 

 カレンとレイの二人の足先や体にそれぞれと反するラインエフェクトが食い込んでいく。

 カレンには黄金、レイには赤。

 仮想電脳神経路ラインが蝕まれていく。

 何十も展開されている論理防壁が罅割れていく。

 明滅する視界。認識が汚染される。悲鳴レッドアラートが軋む。

 そうやって、瞬きの彼方に決着が――――。

 

 

 「「っ!!」」

 

 

 互いに指を伸ばしたその時、二人それぞれの眼の前に大きくウィンドウが開かれた。

 躊躇いが二人を鈍らせ、輝く仮想電脳神経路ラインが目に見えて鈍り――。

 

 

 揃って、姿を消した。

 

 

 

 

 +++

 

 

 

 

 「なんて、タイミングッ……!!」

 

 ダンッ!とレイ=ブラッドフォードは肘掛けを強く叩いた。

 

 中層、繁華街の片隅にあるプライベートルーム。その一室にレイの姿はあった。

 個室自体はさして広くはない。座り心地を優先しているであろう大型のリクライニングチェアが個室の中央にあり、少し手を伸ばせばドリンクバーに手が届き、浮かぶホロウィンドウを操作すればものの一瞬で温かな料理(勿論、全自動万能調理器具製だ)が届く。 他にも色々と人を駄目にするたぐいのサービスが押し込められているが、今は置いておく。

 一昔前で言えばネットカフェ辺りが該当するだろう。あれの個室をより居心地よくしたものでも想像してもらえばいい。


 焦げ茶のリクライニングチェアの上で、彼女は憤っていた。

 レイの視界のみ浮かぶウィンドウが一つ。彼女は唇を噛んで、苛立ちを隠さない。

 そこには簡素に一つ。

 

 『最上位命令オーダーオブマジェスティ

 

 開封命令がチカチカと彼女の視界で主張する。もう暫く無視すればもっと酷い命令信号が出て、更に待てば――想像したくもないことになる。

 余計に苛立つ。『上位命令マスタオーダー』から殆ど経っていないのにこの始末だ。


 「巫山戯てるわね……」


 灰色の瞳が剣呑に細まる。

 だが、開けないことにはなんともならない。

 五月蝿くならないうちにと仕方無し気に指が伸びて――。

 

 「――ッッ!!」

 

 怒声が個室を満たした。

 思わず振るった拳が壁を叩く。


 ――防音は完璧だ。

 プライベートルームでは個人が尊重される。部屋での出来事は決して外には漏れないし漏らさない。

 だからこその防音やセキュリティであるが、犯罪行為などが行われていても立ち入らない不可侵を店側はとっている。

 つまるところ、この怒声も大暴れも誰にも迷惑はかけていないというわけだ。

 

 「この、くそ……!」

 

 荒く息を零して、また睨む。

 

 「今更、中止ですって……?!」

 

 初期フォントで描かれた無味乾燥な文字達の暴虐に、彼女は脳髄を怒りが満たすのを感じた。

 

 『全社員への退勤指令』

 

 ――狩りは無かった。上位命令も撤廃。痕跡は何一つとして残すな。

 要約すればそうあった。言外ならぬ文外の命令。

 まったくもって巫山戯てた。人の労働をなんだと思っているのだ。

 

 「…………ほんと、バカみたい」

 

 怒らせていた肩から力を抜くと、再びリクライニングチェアに体を預けた。

 傍に漂うホロウィンドウを招き寄せて、軽く操作――すれば壁に設置された食品用の小型エレベーターがチーンと軽く音を立てて開いた。

 ずずいっと現れたのはたっぷりのチョコレートソースとけばけばしい謎のクリームで彩られたバケツサイズのカップ。

 

 「今日は泊まってこ……」

 

 脱力気味にぼやいてスプーンを突き立てた。

 と、邪魔者はまだ絶えないらしい。

 ぽんとポップアップ。テキストメッセージが届いたようだ。

 唇に触れかけのスプーンを運んで、食事を続けながら目視で開封――ちゃちなウイルスでは彼女の防壁を突破はできない。だから無駄な手間を掛けることなど無かった。

 

 「…………え?」

 

 思わずスプーンを取り落としていた。鮮やかなクリームの花模様が床に咲き誇る。

 あまりにも衝撃的だった。

 食事の邪魔をされた怒りなど北風めいた衝撃に一瞬で冷却されてしまう。

 アイスクリームなど比べ物にならない。首筋を駆け抜ける怖気は臓腑を冷たく冷たく、死人のそれと変わらぬほどに。

 

 「……嘘。嘘でしょう?」

 

 取り留めない言葉が唇から落ちる。

 

 「なんで今、その名前が出てくるの……?!」

 

 動揺さ中。テキストメッセージ、開かれたホロウィンドウの空白に文字が打ち込まれていく。


 『探していたのは、君の方だろう?』

 

 ――既に手中に落ちていた。

 遅すぎた。気づけなかった。感知できなかった。障壁を壊される、抜かれるどころの騒ぎじゃない。

 入り込まれている。見られている。首元にナイフを突きつけられ、脳天に銃口が突きつけられている。

 もう、ギロチンが落ちていると言っても良い。

 

 『部屋を出て、外に来たまえ』

 

 ガチャンと電子ロックが外れる音。そして、音もなく彼女の背後で扉が開いた。

 ……外には誰も居ない。薄明かりと小さな暗闇が満たしているだけ。

 人の気配を微塵も感じられなかった。

 極度の緊張に、激しい嘔吐感が臓腑で渦巻いた。

 レイは我慢した。どうにか、呑み込んだ。

 それから、ゆっくりと薄明かりに足を踏み出して――堕ちた。

 

 

 ――――たし転反が界世。

 

 

 「――――――?!?!?!?!?!?!?」

 

 気づけば、思いっきりぶち撒けていた。

 堪えた意味を問いたくなるほどに、見事な嘔吐であった。

 胃液と甘味の混ざったマーブルの地獄がコンクリート床に広がっていく。

 そう、コンクリート床に。さっき踏み出した薄い茶のフローリングは欠片たりともそこにはない。

 あるのは、無機質に見つめてくる灰色と今しがた胃から逆流した吐瀉物。

 

 視線を持ち上げる――広がっていたのは輝き満ちた夜景。

 建ち並ぶ摩天楼。無数に乱立する無秩序。垂れ幕のようにぶら下がるホロバナーやリンク広告

 螺旋が如く、川の流れの様に。蛇の這った跡のような高速道路ハイウェイ

 

 レイが先程まで居たプライベートルームは12階建てのビルを一階から三階までを専有していた。恐らくここはその屋上だろう。

 この夜景が証明の一つ。

 

 「――Humpty Dumpty sat on a wall」

 

 歌が聞こえた。

 反応と同時に振り返る。屋上への唯一の入り口。レイが通らなかったそれの上から声が聞こえた。

 

 「Humpty Dumpty had a great fall」

 

 男の声だった。

 

 「この、声……」

 

 ぞわりと背筋を走る感覚。見開いた目が乾く。

 

 「All the king's horses and all the king's men」

 

 たんっと軽やかに着地。声とその影が近づいてくる。鳴る革靴。

 高い身長。女性にしては高い方のレイよりもかなり上の視点。身に纏った紺のストライプが入ったスリーピースがよく映えていた。


 「Couldn't put Humpty together again」

 

 視点合わせるためにか下げた顔にあったのは、ミディアムショートの黒髪、鋭く切れ長の黒の瞳、薄い唇――とても見覚えがある。


 「――孵るんだ」

 

 「は?」

 

 目が合うのに一瞬辟易したレイは思わず聞き返してしまった。

 

 「卵が孵るんだよ」

 

 レイの脇を通りすぎて、彼は夜景に方に屋上と空の境の方へ。

 びゅうと風が鳴った。吹き抜け、通り抜けさまに黒髪と金髪を揺らしていく。

 

 「これで一歩近づいた」

 

 「何を、言って」

 

 理解が追いつかない。

 レイは現実の処理ができていなかった。眼の前にある光景の真偽すらついていなかった。

 

 「――――君にお願いがあるんだ」

 

 振り返って、変わらぬ整った顔面に微笑を浮かべて言う。

 

 「……それ、聞かなきゃいけない理由は無いわよね」

 

 口を突いて出たのは拒否の言葉。

 浮かんだのは抵抗の籠めて上げた口端と笑み。

 すると視界に浮かぶ文字――忌々しい文字列。思わずレイの笑みが消えた。

 

 『最上位命令オーダーオブマジェスティ

 

 浮遊しながらくるくると回転する五文字。一周する度にフォントがランダムに変わっていく。

 

 「これ、私が出したんだ」

 

 事もなげな一言。しかして背中より刺す刃バックスタッブ。臓腑を刳り抜く短刀が如き言葉の冷たさがレンの言葉を震わせる。


 「……それ、じゃあ」

 

 嫌な予感が這い上がる。

 現実が予感に侵されて、現実そのものに成ろうとしていた。

 

 「まあ、そういうことだね」

 

 にこやかに語られる聞いてはいけないこの世の闇。深淵が言葉になって耳に入り込む。

 塞いでも遅い。

 脳が認識してしまっている。呪詛のごとくこびり着いていた。

 

 ――知ってはならないことや知らなくて良いことが世の中には多く存在する。

 全自動万能調理器具オートクッカーで使用される万能調理加工材の原材料は知らなくていいことだし、この街の中枢電脳メインコアに関しては知ってはならないことの代表だ。

 何処にでも、どんな場所でも大なり小なりあるだろう。

 だが、この〈エンパイア〉にもそういうものがいたる所に蔓延っているし、今彼女が知ってしまったことに関しては最たる例の一つだった。

 レイ=ブラッドフォードはより深い闇へと囚われてしまった。

 もう這い上がることは敵わない。

 

 「多国籍企業郡米国系企業〈マーキュリー〉新CEO、クローク=F=エンボルトだ。よろしく頼むよ」

 

 咬切ケンゴと同じ顔で、クローク=F=エンボルトはケンゴが決してしないであろう涼やかな微笑みを浮かべた。

 

 「……私をお呼び出されたのは?」

 

 流石と言っていいだろう。レイの切り替えは企業人のお手本としても良いくらいだ。

 何よりつい先程自身で情報を漁り出した人物が、上司も上司。自身の生死を握っているどころではない立場になったという現実を前にして折れずに居る。

 称賛に値した。

 

 「ああ、一つお願いがあってね」

 

 屋上の縁の出っ張りに片足立てて腰掛けたエンボルトは、膝上で頬杖をつく。

 

 「ほら、君の同期の御堂くん。返事くれてないんだよね」

 

 「あ、ああ……、そうなんですね」

 

 そう、反応がなかった。

 対象の現在地――街中の監視カメラや自動車が接続されてるクラウド上の交通整備AIの記録をぶっこ抜いたりして集めた――や短時間でどうにかこうにか集めた眼の前の彼の情報を送ってから、彼はテキストメッセージも通信も何も答えなかった。

 ここでそれが仇になるとは……。

 思わぬ不意打ち。しかしお願いの内容は予想がついた。

 

 「彼を、止めろと?」

 

 「そういう事になるね」

 

 断る方法はない。退路はとうに絶たれていた。

 レイに出来るのは肯定を示す。それだけであった。

 

 「……謹んでお受けいたします」

 

 傅く様に、彼女は軽く頭を垂れる。

 

 「ああ、じゃあ――」

 

 ――――瞬間。視界がブラックアウトした。

 

 モニターの電源を落としたように視界が真っ暗になったかと思えば――。

 

 「……今の、現実よね?」

 

 色が戻った視界に映ったのは、焦げ茶の壁紙。

 プライベートルームに戻ってきていた。

 踏み出したままの体勢。個室から一歩踏み出したままだった。


 そして、足元から放たれる臭気。

 視線を下ろせば透明さと黄土が混ざりあった汚物がフローリングを汚していた。

 喉を焼く、胃液の通った名残。

 ――今のは、なんだったのか。 

 思考を巡らせる前に――小さなポップ音。


 「…………現実みたいね」

 

 視界の隅に点灯していたテキストメッセージの着信。

 それが彼女の見て聞いたことを現実であると証明していた。

 

 『よろしく』

 

 大きな溜息がレンの口から真っ先に出て、非常灯に照らされた。

 霧散して、大気に溶け込む頃には彼女の指は虚空を撫でて、件の彼をコール――無理矢理回線を開かせる。

 なるべく倦怠感を隠し、何時も通りの風にと心がけて。

 

 「楽しそうね」

 

 通信を繋げた先にそう言葉を放った。


 

 

 

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