またの名を、フランツ

モーリッツ

Kapitel I 楽園追放-Das verlorene Paradies-

Ⅰ.楽園追放 1

 ヴィーデナウは、季節外れの暑さとなっていた。しかしそれ以上に、宮殿はむせ返りそうになるほどの熱さとなっていた。

「水を持って来いと言っているのだ!早く!」

 年老いた男が、大きく声を荒げた。年輪のように顔に彫られた皺が、より深く彫られたように見えた。

 1人の女中が慌ててバケツ一杯の水を持ってきた。しかし、その男はバケツを受け取るやいなや、女中に乱暴に浴びせた。

「こんな温い水を持ってきてどうする!冷たいのを持ってこいと言っている!」

 女中は、直ぐに踵を返し駆けて行った。理不尽を堪える涙を流すほど、暇はなかった。

「うぅ……」

 部屋の奥で誰かが、小さくうめき声を上げた。それを聞いた男は、老人とは思えぬ機敏な動きで、奥へと駆けて行った。

 奥のベッドには、男が眠っていた。その男はまだ若く、黄金色に輝く彼の髪からは神秘的な何かを感じるほどだ。しかし、高熱に脅かされたその顔は赤く染まり、酷くやつれていた。

「しっかりするのです、フランツ殿下!」

 老いた男は、横たわる男の手を握り締め叫んだ。フランツ。これが、この若者の名前であった。

「あなた様が、我らの高貴なる帝国を治めるのです!」

「分かっておる、パルドヴィッツ伯よ……」

 微かに、振り絞るような声でフランツは答えた。

「ただ、少し静かにしてくれ……頭に響く……」

 それを聞くと、老伯爵はフランツの手を額に寄せ、祈るように呟いた。

「おお、主よ……!使命を果たさんとする者に、何故苦しみを与えるのです……!主よ、皇太子フランツを救い給え……!」

 伯爵は、フランツの手をさらに強く握った。どこか遠くへと、行ってしまわぬように。

 しかし、彼の手にはもう、握り返す力を感じなかった。手を離すと、細く美しい手は花のように散り落ちた。

「殿下……?殿下!」

 その願いを、神は聞き入れてはくれなかった。


 グレゴリオ暦1740年9月5日、次代の皇帝フランツは16歳でこの世を去った。

 彼の即位式の、6日前のことであった。

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