応援コメント

14.外出」への応援コメント

  • 詩を朗読するとき私、という個が凄く邪魔に思えることがあります。一編の詩に没入するとき同じような気になります。この詩とは関係ないのかもしれない、けれど、そんなことを思いました。

    作者からの返信

    またしても例に出す「レモン哀歌」ですが、あの詩は適切に“わたし”が組み込まれていて、あのように自己が読者に提示されるのが望ましく思います。

    この詩においては、老人とその背後の景色のいわば無関係性と、詩を内面化/理解してしまうことで私の一部になってしまう。この場合、より悪い取り込みとして作中の“私”は感じているゆえに、老人と景色の無関係性に憧れを抱いている、そして私がガラスに映るとき私を媒介者として、無関係性という関係が老人と背景にできてしまう、ということを書きたかったのだったと思います、が正直うまく書けていません。

    私が邪魔になるというのはありますね。

    と、思ったけどその私って、作中の“私”のことなのか、朗読する私のことなのかと、ちょっと躊躇が起きています。

    私は朗読でうまく読めたと自負できたことが殆どありませんが、私をどこまで作品に埋没させ、作品の“声帯”になれたか、というところを考えたりはします。