第90話・“見えない神殿”の正体

 私が離れると、ラセンはまだ立てずにいるアキの前へ行き、ひざまずく。

 強く抱きしめた。


「長い間、よく耐えてきました」


 胸を離すと肩に手を置き、絶対に見せることがなかった顔でアキをながめた。


「お前がいたから耐えられた。感謝している、ラセン」

「勿体ないことです」


 ラセンは首を横にふり、濡れた顔を両手で覆いむせび泣いた。

 呼吸を涙にして泣いた。


 アキとともに過ごした十四年間、いや、おそらく、それよりもずっと以前から溜め込んできた涙のようだった。


「叔父さま、こちらをどうぞ」


 同じく膝をついたイシュリンが白いハンカチを差しだす。


「以前、帝都の館で私にくださったものです」


 ラセンはそれを受け取る。


「セツナ、お前にも長い間つらい思いをさせた」


 ハンカチを手にしたまま、イシュリンの背をしっかりと抱く。


「叔父さまのほうが苦労されました」


 セツナと呼ばれたイシュリンはラセンをいたわりながらも、懐かしい腕の中に戻れた喜びにしばらくひたった。


 ラセンは渡されたそれで目元を拭うと、立って場所を空ける。


 イシュリンはアキの前に回り込む。


 自分を受け入れる黒い瞳を見つめる。

 感極まって涙があふれさせた。


 何度も粘り強く語りかけていたはずだったが、今は何から話していいのか言葉にならないのだ。


 ただ清らかなしずくが頬を伝って落ちるばかりだった。


 アキが指輪のはまった手を伸ばし、親指でそれを拭う。


 たまらずにイシュリンが抱きつく。


「ずっと、あなたを抱きしめたかった!」


 大粒の涙が頬を濡らしつづけた。


「私はあなたのお母さまから、あなたを救ってほしいと頼まれていました。私は必ずそれを行うと約束していたのです。神の国に行かれたお母さまも、きっと喜んでくださっているはず……」


 声を何度も詰まらせる。

 アキはその背にゆっくりと手を回す。


「母に感謝している」


 落ち着いた声で告げ、同じ母でつながったイシュリンの背をなぐさめるように優しく何度も撫でた。


「お前にも」


 イシュリンの温もりを、しばらくの間、確かめた。


 そして体を離し、立ち上がった。イシュリンも腰を上げる。


 アキは笑みを消している。

 ラセンとサジンに目をやる。


「ラセンとサジンは私が命じて仕方がなく従ったまでだ。逆らえなかったのだ。アルマの名のもとに犯したすべての罪は私ひとりにある。ふたりに対しては寛大な措置を頼む。私を処刑すれば人々の気持ちも収まるだろう」


「アキ、何を言っているの……?」


 私は胸が苦しくなり、アキにせまった。


「そもそも、どうしてイシュリンはここにいるの? 私、騙して封じ込めた。飛翔たちにも取り返しのつかないことをしたのに、なぜ……?」


 レジスタンスたちの顔を確かめる。

 イシュリンは説明する。


「魔力が強くなるほど、神のチカラはそれを上まわる。私を封じ込めたことで憂理たちの魔力がこれまでになく強まった。それが、逆にあの “見えない神殿”から抜け出すチカラを私に与えた」


 ラセンに明かす。


「叔父さま、本物の“見えない神殿”は天空にあるのです。私が十歳で神官になったとき、前のマンゲールの神官から口伝されました」


 アキに向きなおり両の肩に手を置き、目を見つめる。


「カタルタで行われた皇太子の座をめぐる皇子同士の殺しあいで、十五歳のあなたが初めて人を殺してしまったと考えていた七人の皇子と側近たちの魂は、私が天空にある“見えない神殿”にかくまっていました。それ以来、皇帝の名のもとに奪われた命は、すべて、私が魂を救済していたのです」


 そして、優しい声でいたわった。


「あなたは誰も殺してはいない。それをなかったことにするために私は生まれたのです」


 アキは納得せず、目を閉じて首を横に振る。


「人々は私を恨み、憎んでいるはずだ」


「大丈夫です。今、ここに飛翔たちがいるように。失われたと感じた肉体を魂が取り戻し、愛する者とふたたび抱き合える喜びに人々は満たされています。誰もあなたを恨んだりしない。長い夜が明け、新しい太陽が昇り、清らかな光が世界を満たしている今、人々は皇帝の圧政が終ったことを知り、喜びのなかにある」


「……セツナ」


 アキは決して口にすることのなかったその名を呼び、澄んだ空色のような青い目を見つめ返した。


 イシュリンはうなずく。


「あなたが皇帝を倒すためなら、私はあなたを助けるために生まれた。私たちは、ずっと協力していたのです。ネイチュを救うために」


 柔らかな微笑みを見せる。

 アキは天を仰ぎ体を震わせる。こみ上げるものをこらえる。


「憂理」


 まだ案じている私の名を呼び、抱きついた私の背に腕を回して引きつける。


「お前を心から愛している」


 向けられた瞳が濡れていた。


「私もアキを心から愛している」


 揺るぎない想いを伝える。


 そのまま顔を寄せて、ふたり、温かで確かなキスをした。


 そのとき、私の胸元が輝いた。

 体を離して見つめる。


 つけられていたはずの侮辱的な言葉は、光に剥がされ、輝きとともに消えていった。




 〈続く〉

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