第60話・叔父と甥
イシュリンの張り詰めた気持ちがゆるんだ。
体を向けると自由になる手でつかんできた手を大事に包む。
喜びの笑みを浮かべ、視線を上げた。
「叔父さま、五年ぶりですね」
忘れたことのない顔を懐かしんだが、その左目の異変に気づき、衝撃を受け絶句した。
ラセンはそれには首を振る。
今ここにある張り裂けそうな心と戦った。
交わしたい言葉をかけあう関係はすでに滅びている。
「……アキもここに?」
「シャビエルだ。私は帝都を移すための調査に来た」
イシュリンはそれを聞き、ラセンから手を退いた。そのまま去ろうとしたが、ラセンは離さない。
イシュリンのただならぬ雰囲気を察していた。
「私の館へ来い」
握った手首を引き寄せ、ひとには気づかれぬよう両手につけられた鉄の輪をくだく。
効果はなくとも見るに耐えなかった。
そのまま連れ、さきほどの場所へ戻る。
そこで手を離し、落としたものを丁寧に拾い集めた。
姿勢を戻すとイシュリンを見て目でうながし、メインストリートから離れる。
イシュリンは迷ったが、後についた。
ラセンは喧騒から逃れ、貴族の邸宅街から離れた坂の上に先導する。
緑の中に乳白色の石で建てられた平屋の小さな私邸へイシュリンを連れた。
留守中に館を管理させていた使用人を遠ざけ、凹の字型になった建物の右の奥へタイルを進む。
厚いマホガニーの扉を開き、十六畳の書斎に入るが、正面を向く立派な机の横を抜け、杉の木の扉を開けた。
そこは十二畳の図書室だった。
入り口から右手と正面にかけての壁が身長とほぼ同じニメートルの高さの本棚になっている。
重要な書籍と資料はすべてシャビエルのアキの宮殿に置いてある。
並べた本に珍しいものはなく、棚の大きく空いたスペースには小物を置き、インテリアの意味あいが強い。
左にはリネンやペーパーナイフなどの小物をトレーに分けて入れた脚付きの棚もある。
その上に置かれたランプは小さなシャンデリアを思わせる繊細なガラス製で、中庭に面した明りとりの窓から入る光を受け、きらめいていた。
ラセンは奥へ進み、低くガッシリとした杉のテーブルを挟んで向かいあう重い革張りの角ばった椅子に手をかけ、少しななめにする。
深く腰掛けたあとで、扉を閉めたイシュリンに前の席を指さす。
イシュリンが従うと、足を組み見すえた。
「ひとりで帝都へ来たのか。何を考えている?」
イシュリンは背筋を伸ばし目を伏せた。
「……皇帝を直接、説得するために来ました。皇帝は魔力も毒も武器も通じず、不死です。でも、人を殺すことは出来ないのでアキを使うだけ使い、消耗して死ぬのを待っています。アキをもてあそんでいる……。私はそれを阻止したいのです。でも、アキは私を拒み、私の話に耳を傾けてくれません」
無念をにじませる。
「アキを説得できない以上、救うには、私が直接、皇帝に働きかけるしかありません。私の神官のチカラがこれまでになく強まった今なら、魔力の強い貴族たちが側にいても私の邪魔はできないはず……。皇帝に会ったことはなくとも対面できるのではないかと思いました」
「皇帝を説得できなかったら、自分がもつチカラで倒すしかない、倒せるはずだとでも思ったのか」
「……そうです」
「お前は甘い。それが通じたのなら、五年前、神殿が廃止されることになった時点で、神官の誰かが火あぶりになる前に皇帝を殺害している」
図星だった。
イシュリンは己の軽率な行動を恥じ、顎を引いた。
だが、すぐに目を上げ、訴える。
「でも、叔父さま。アキは本来、優しい気持ちの持ち主で人々を虐げることはありません。人々を傷つける自分に苦しんでいるはずです。アキが六歳で母親と離されマンゲールの宮殿から帝都へ連れ去られたあと、実母のいなかった私は神殿を頼ったアキのお母さまに育てていただきました。だからわかるのです」
ラセンに身を乗り出す。
「叔父さまもアキに心を痛め、救いたいと思われているはず」
「……お前という敵を倒せば全て解決する」
ラセンの声が低くなり、眼差しは冷えて鋭くなった。
「叔父さまと私は離れていても相手を思いやっているのだと信じていました。今日も私を止めてくださった」
強く机を叩かれた。
「私はお前のドームを燃やした! レジスタンスは必ず滅亡させる! 私はお前の理想を全身全霊をかけて叩き潰す存在だ!」
イシュリンは剣幕に身を縮めた。
心にあった細いものが切れそうになり、叔父から目をそらした。
涙が頬を伝って落ちた。
唇を噛んでうつむき、黙って泣いた。
ラセンは背中をふたたび椅子に預け、窓の外の曇り空に目をやった。
<続く>
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