第7話

「待って」


 そう言って私は目を覚ました。すぐ近くに水族館の制服を着た男性がいて、私を心配そうに見ていた。


「君、大丈夫かね」


 低く男らしい声が私の鼓膜を刺激した。難聴の私でも聞き取りやすい声だった。


 夢うつつ。私は辺りを見渡す。水族館だった。そうだ、私は水族館に来ていて、熱中症で寝込んでしまったのだ。


「はい、大丈夫です」


 状況を把握して私が返答すると、彼は安心したように笑った。


「良かった。すぐに休憩室に案内するから、そこで休んで下さい」


 彼は言った。私はまだ疲れが取れていないようだったので、お言葉に甘えることにした。


「立てるかい」


 そう言って私に差し出す手は、私の手より少し大きくて、しわしわだった。


 私は素直にその手を握って立ち上がる。すると彼の伸長がおおよそ私より高いことがわかった。


 私は立ち上がると途端に眩暈がしてまた座り込んでしまう。


「すみません、少しここで休んでから休憩室に行かせて下さい」


 私は堪らずそう言った。


「わかりました。一応私がそばにいましょう」


 彼は私のとなりに座る。そして水槽を一緒に眺めた。


「あの」


 私は彼に声を掛けた。


「何かね」


 男らしい貫禄を帯びた返事が返ってきた。


「ここ、昔シロイルカいませんでしたっけ」


 彼はああ、と頷いた。


「たしかに、いたなあ」


 とても懐かしそうに言う。


「シロイルカ。別名ベルーガと言ってね。実はクジラの仲間なんだ」


 彼は楽しそうに語る。


「シロイルカが好きだったんですか」


 と私が聞いた。


「好きだったなあ」


 彼はより一層感慨深く言った。


「結構早い時期に両親を失ってね。その時に元気をくれたのがシロイルカだった」


 そう語る彼の顔の心憂い表情。


「イルカセラピーという精神療法があったりする。君も落ち込んだ時にはイルカと触れ合うと良い。まあシロイルカはクジラの仲間だし、直接触れ合ったりしないと意味が無いかもしれないがね」


 彼は冗談めかして笑った。


「でも彼らにも気持ちや想いってものがあるのかな。傷心した私を見るなり、すぐに寄っては私を楽しませてくたよ」


 その言葉に私は先程の夢を思い出した。私がシロイルカとなって何かをした夢。何だっけ。気持ちや想いが重要だったはず。思い出せない。いつもそうだ。夢の記憶はいつも朧げだ。でも、とても大切なことだったはず。ああ、もどかしい。


 ぱしゃ!


 突然、シャッター音とフラッシュの強烈な光が迸る。見ると水槽に向けてカメラを構えている中年の男性。


 「こら!」


 彼は激怒した。


「ここ撮影禁止だぞ。それもフラッシュを焚くなんて。何を考えている!」


 彼の言葉に、私の心が震えた。強烈な既視感。


 フラッシュを焚いた中年の男性はその迫力に臆して謝りもせずにどこかへ行ってしまう。


「まったく」


 彼は腰に手を当て、溜息をついた。


 私の心臓が激しく脈打つ。心地よく命をすり減らす鼓動。そうだ。そうだそうだ。思い出した。全部思い出した。


「あの」


 私は思わず声を掛けた。とてもうわずった声だった。自分でも気づかないうちに、目いっぱいに涙をうるわしていた。とても情けない顔をしているに違いなかった。


「何かね」


 彼は振り向いた。途端に彼の容姿が目に飛び込んできた。その勢いで私の涙がぽろり。


 短髪の黒髪。大き過ぎず小さ過ぎない、小皺の顔。太い眉毛。引き締まった頬。きりりとした目。褐色の良い肌。


 夢の中で欠けていた彼の容姿が埋まっていく。


 大きな背中。筋肉で太い腕。同じく太い脚。腕時計。制服。


「シロイルカ、今も好きですか」


 私の言葉を聞いた彼は、振り向いていた顔を戻し天井を見上げる。私が夢で体感した日々のことを思い描いているのかもしれない。


 私も思い出していた。シロイルカとなって水中を自由に泳ぎ回ったこと。客たちを喜ばして私も嬉しかったこと。彼に出会って、他愛もない話をして。そして彼に恋をして、彼に頑張って想いを告げたこと。


――また君か

――君は本当にお調子者だね

――君、大丈夫だったかい

――君を見ていると笑い方を思い出せるんだ


 夢での彼の言葉が補完されていく。それは私の読唇よりも心地よく爽快にはまっていく。ああ彼はこんな容姿で、こんな顔で話していたんだなあ。


――有難う。私は君を


 夢での、彼の最後の言葉が響いた。


「今でも、愛している」


 振り返った彼の、自然な花笑み。

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