第6話
本日二番目の客が来たようだ。幼女は私のいる水槽の前に駆け寄って、じっと私を見る。
私も幼女を見た。何故かすんなりと容姿が確認できる。麦わら帽子に、黒髪のツインテール。くりっとした目。その右目の右下に黒子。日に焼けた肌。見慣れた花柄のワンピース。あれ、この子に見覚えがあるな。
「待って、咲」
それは馴染みのある声。私の母の声だった。奥の方から男女が寄り添ってやってきた。まさしく母と父だ。ああ、若い。そうだ。覚えている。あの頃の若い母と父。そしてこの子は、幼い頃の私だ。
「咲」
私の名を呼ぶ母。しかし幼い私は難聴なので気が付かない。母は近寄って幼い私の肩に手を掛ける。すると幼い私はじっと母の口元を見つめる。
母はたおやかに私を指さして言った。
「シ、ロ、イ、ル、カ」
すると幼い私は唇と舌と、微かに聞き取った声によって完成したワードを声に出す。
「シ、ロ、イ、ル、カ」
拙い発音だが完璧だった。
それを見て彼は私が難聴であることを察した。感心した様子で幼い私を見る。
私はひらめいた。幼い私に、唇の動きを読み取ってもらい、それを声に出してもらって彼に伝えよう。
幼い私は間違いを考慮して聞き取ったものを声に出す癖がある。それにシロイルカの唇はとても柔らかい。たった二文字の言葉なら上手く再現できるかもしれない。
それは幼い私が現れたことによって、唐突に生まれたわずかな希望だった。成功するかどうかはわからない。しかし私はその希望に縋りたくて仕方がなかった。
私は幼い私の正面で停滞する。じっと私のことを見る、幼い私。
――ス
「うー」
――キ
「いー?」
失敗した。そもそも私は前後の文脈と、微かに聞こえた声を頼りに判断している。それにシロイルカでは発声時の舌の動きまで再現出来ない。単語で声はなく、唇の動きだけでは無理があった。
「おお!」
彼が感嘆の声を挙げた。
「この子、凄いですね。先ほどこのシロイルカ、たしかに「うーいー」と人の声真似をしたんですよ」
母と父に声を掛ける彼。違う。勘違いだ。本当は好きって伝えたいの。
「まあ、そうなんですか」
母と父は嬉しそうに応えた。
駄目だ。これはもう「うーいー」が正しい答えになってしまう。たしかに私は先ほどそのように発音した上、彼がそれに感動してしまったのだ。どうしようもない。
私は絶望した。絶対に成功すると思った。もはや彼に気持ちを伝える術は無かった。この世界で私の想いを伝えることはできない。視覚と聴覚を失った頃のことを思い出す。まるであの時のように、世界から隔絶されてしまったかのように、孤独感が押し寄せる。彼と両親の誤解を私は解くことが出来ない。ああ、私は無力だ。
なおもじっと見つめる幼い私。違う。隔絶されてなんかいない。彼女は私をしっかりと見ているし、私も彼女を捉えている。きっとこの子は私のバブルリングにたいそう喜んでくれるに違いない。私は孤独なんかじゃない。
私は口をすぼめた。この子にバブルリングを見せてあげるのだ。私の芸でこの子を喜ばして、せめて私が孤独ではないと再度実感するために。
「あー!」
私のその様子を見て、幼い私が唐突に指をさして声をあげた。私は思わず中断する。
「ちゅう、ちゅう!」
私を指さして、幼い私は言った。
「ど、どうしたのですか」
彼も驚いたようで、父と母に聞いた。母は幼い私が何を言いたいのか理解したようで、落ち着いて説明をする。
「いえ、昔私が教えたことで」
私は母のその言葉にはっとした。
「この子に言ったんです。ちゅうの形はね。愛しているの意味だと。なんだか、妙に気に入ったみたいで」
母はそう言って笑う。
「私知ってる!」
幼い私は彼に向いた。そう、私は知っていた。母がちゅうの形をする度に、私にちゅうをして、愛を注いでくれたことを。
「愛しているは、好きって意味なんだよ!」
そうだ。初めてちゅうされた時、私は分からなかった。だから母に聞いたのだ。その時からちゅうの形は私にとって紛れもなく愛しているという意味なのだ。
へえ、と彼は私の言葉を聞きながら、私のことを見つめた。私も彼のことをじっと見つめる。
見つめ合う一人と一匹。こんなにもどきどきしたのは初めてだった。今度は絶対に伝わる。そう確信が持てた。
私はそっと、今度はしっかりと『ちゅう』の形になるように唇をすぼめる。水槽に溶けてしまった恋をかき集めて、ありったけの想いをのせて。
――スキ
間違いなく『ちゅう』の形。彼は目を見開き、胸にそっと手をあてた。
「そうか」
花笑み。その目には薄っすらと涙がたまっている。まるで雨上がりの草花のような美しい笑顔だった。
「有難う。私は君を……」
その言葉の途中で、世界に変化が起きた。水槽の水が勢い良く浮上していく。それは波となって私を連れていく。浮上しているのに、地上の光は薄れていく。
待って。彼の最後の言葉を聞かせて。
どうか。
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