第5話
ぼちゃん。
私の身体が勢いよく沈んだ。水が身体にしみ込んでうるおう。ひんやりと冷たい。
じゃぷじゃぷ。
大量の気泡が浮上していく。私は水底に向かって沈む。水底は暗くて見えない。
ぶくぶく。
私が息を吐くと、白い気泡が口から発生して、浮上していく。
とても静かだった。水の冷たさと、水の音と、青く暗い景色のみ。それが私に安らぎを与える。
やがて光が差し込んだ。いつの間にか私は浮上していて、その光を見上げていた。
気が付けば、懐かしき水槽の中。入院していた時、夢の中で私を夢中にさせた世界。
私は水槽の向こう側を見る。私が眠るときに座っていた長椅子の前に、その男性は居た。
「やあ、おはよう」
その挨拶で、私はこの世界が朝の時間帯であることを悟った。
「どうやら私が今日一番初めに来た客のようだ」
彼は言った。どうりで彼一人しかいない訳だ。
丁度良い。私は彼に気持ちを伝えたくて堪らないのだ。だから他の客はいない方がやりやすい。
でも、はて。どうやって気持ちを伝えれば良いのだろう。おいおい、もしかして伝える手段が無いのではないのか。
私は思案する。ここは水槽で、私はシロイルカ。私が得意なことはなんだ。身につけた芸のなかで、もっとも客が喜んだことはなんだ。
バブルリング。
バブルリングは私の芸の中で最も人気のある芸だ。そのバブルリングをどう利用しよう。たとえば、彼が私に「好きか」と聞いてくれたら、バブルリングを丸と見立てて答えることが出来るだろう。でも、そんなことを聞いてくれるはずが無い。
では、たとえばハート型のバブルリングを作ったら、気持ちを悟ってくれるのではないか。なにせハートだ。人間がラブを記号化したものだ。きっと伝わるのではないか。
彼を見つめる。見て。私の想いを。
私は空気を取り込むと、口をすぼめて思い切り吹いた。
「おお」
彼は喜ぶ。私はがっかりする。できたのはありふれたドーナツ型のバブルリングだった。ハート型ではない。
「サービスが良いね。機嫌が良いのかな」
彼は笑った。女性の人間ならばともかく、なにせシロイルカだ。考えてみればハート型のバブルリングを作ったところで、ただの芸としか捉えてくれないだろう。だからもっと直接的な伝え方をしなければならない。
私は思い出す。私の友達のシロイルカは、人の声真似が出来た。他のシロイルカ達もそうだ。意味はわかっていないだろうが、通りがかった飼育員に声真似で注意を引くことをしていた。
もともと人間である私だって出来るのでは無いか。むしろ人間であった私だからこそ的確に出来るのではないか。そう、きっと簡単だ。ただ二文字『スキ』と発すれば良い。
私は空気を身体に取り込む。シロイルカは頭部にある鼻付近の穴から鳴き声を発する。
「うー! いー!」
高い音程で発せられたその音は、決して言葉とは言えなかった。
「おお、驚いたよ。まるで人の声みたいだ」
彼は嬉しそうに言う。違うの。そうじゃない。私は伝えたいことがあるの。
「おー! いー!」
私は再度試みるが、私の気持ちが言葉にならない。そもそも現実でも難聴である私は言葉を正しく発音出来ているのか怪しかった。
「うー! いーん!」
私は何度も何度も言葉にすることを試みるが、一向に成功しない。駄目だ。
「うー! うー!」
やだ。諦めたくない。お願いだから、言葉になって。
「うー! い……」
私は泣きそうになった。実践すればするほど、無謀だということを実感した。所詮はシロイルカ。シロイルカの状態では人間とコミュニケーションを取ることは出来ないのか。
私はもどかしさでいっぱいになる。
好き。大好き。大好きなのに、伝えられない。好き好き。大好き。大好きなの。ねえ、お願い。知って。私の気持ちを。大好きだって気持ちを。ねえ。
私の気持ちはあぶくとなって水槽に溶ける。私の恋する気持ちが溶ける。叶うことのない恋の、水槽。
「あー!」
幼い女性の声が響く。
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