第4話
視力が回復して生活出来るようになるまでかなりの月日が掛かった。
結局あの時は光の明暗くらいしか認識出来ない状態で、リハビリはその段階が一番辛かった。目を開けると途端に強烈な光が私の目を刺激して、その度に目が眩んだ。それに慣れた頃には色が認識出来るようになり、すぐに形も認識出来るようになった。
退院してさらに数ヶ月が経った。私は都内の大学に通うため一人暮らしをしていたのだが、退院後は両親の元にしばらく滞在し、その後帰宅した。当然大学は休学である。
私は夢の内容を必死に思い出そうとしていた。視力が回復して以来、あの夢は見なくなった。あまりにも朧げな記憶。大部分は泡沫に消えていってしまったものの、私はようやく水族館というワードを導きだしたのだった。
私が行ったことのある水族館といえばあそこしかない。私は興味本位でそこに赴くことにした。
電車で一時間半。私の聴力が不自由なのは相変わらずで、不慣れな場所に電車で赴くと大抵面倒なことになる。例えば停車駅のアナウンスは聞き取れないので、入口付近にある表示を見なければならない。混雑しているとそれが見えないし、表示がない電車の場合は予め停車順を確認しておいて、電車が止まる度に数を数える必要があった。
私はそういったコツを入院によってすっかり失念してしまい、停車駅がわからなくなってしまった。
「すみません、今何駅ですか」
私は優先席の端に座っていたおばさんに尋ねた。直後、私はおばさんの口元を凝視する。薄っすらと化粧してある。程々に血色が良く見えるように口紅も塗ってあった。
「今……駅……すよ」
放たれた言葉は欠落して私の耳に届く。欠けた言葉を唇と舌の動きで補完する。ああ危ない。次の駅が目的地だ。
電車が停車したので私は下車した。むわっとした熱気。今日の天候は雲ひとつない快晴。私は汗を脱ぐって標識を見る。降りた駅は正しかった。
その後、同じ要領でバスに乗って、ようやく目的の水族館付近に辿り着いた。
綺麗に舗装された道路。車道と歩道の堺に敷かれた縁石は花壇になっていて、可愛らしい花が植えられていた。車道と反対の方には木製の柵が備えられていて、その奥に沢山の木々が植えられていた。ヤシの木なんかも植えられているあたり、南国の島を演出しているのだろう。
バス停から降りたところで既に水族館が見えていた。遠くには海と浜辺が見える。海の方で海鳥が飛んでいるのが見えた。私の耳が良ければ、きっと海鳥の鳴き声も聞こえたはずだ。
木々と海の薫風。私と同じバス停に下車した二人の女性は日傘をさして水族館に向かった。暑いので私もさっさと向かうとしよう。
バス停から思いのほか遠くて、10分位掛かった。私は強烈な夏の日差しにやられてくたくたになっていた。
館内に入場した時にはさらに5分程掛かり、入院により運動不足だった私はとても館内を見てまわる気力はなかった。
それでも都合が良かったのは、私にとって最も思い出深い水槽が、入場してすぐのところだったことだ。
大きな水槽。私の身長の4、5倍はありそうだ。水槽の中は青く輝いていて、部屋の照明はそれで成り立っていた。この水槽の真上には地上に繋がっていて、二階から外に出るとトレーナーとボール遊びするシロイルカを見ることが出来る。この水槽が明るいのは、地上から日差しが直接差し込んでいるからだ。
シロイルカ。そうだ、シロイルカだ。
私は長椅子に腰掛ける。軽い熱中症かな。くらくらする。私はお茶をがぶがぶ飲んだ。
私は夢の中、この水槽でシロイルカとなって自由に泳いだのだ。
その水槽が今、目の前にある。
水槽にシロイルカはいなかった。いたのはシャチだった。
私は一つの結論に至る。あの頃の水族館は、やはり幼い頃一度だけ行った頃の水族館だったのだろう。私の夢なのだから、私の体験によって形成された世界。当然だ。
私はがっかりした。なら私はあのシロイルカに会えないのだ。それにあの人にも。あの人。そうだ、私は夢の中で恋をした。あの人にも会えない。
二度と会えないのか。悲しい。さみしい。
私はあの人のことを思い出そうとする。でも思い出せない。あの人の顔も身体つきも、年齢も服装も思い出せない。
夢の中だったから、そんな描写は無かったし、気にならなかった。
しんしんと静まり返る館内。薄暗く青い光が照らす。空調が効いてひんやりとしていた。
カップルや家族連れが行き交う。その光景がぼんやりと霞む。
熱中症と疲労と、館内の雰囲気による睡魔。私は長椅子に倒れるように眠った。
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