第3話 細波(さざなみ)

・警視庁


 港湾管理会社の事件で捕らえられた違法改造の擬人機体をつけた人物一名と、一切の改造がない人間四名は、警視庁に身柄を送られ、長く取り調べが行われていた。しかし、そのいずれからも有力な情報は得られなかった。黙秘をしていると言うのではなく、その事件に至る経緯をしゃべることができなかった、いや正確には、その記憶が無かったという状況であった。

 五人の身柄はあっさりと判明し、改造体を持つ一名は自分は東南アジアに居たと言い、たしかにその通りに身元が確認出来た。他の四名は犯罪歴もない、警察にもマークされたことがない、単なる一般人だった。しいて言えば四人の共通点は定職に就いていない程度。

 それに加えて、偽装貨物船、潜航艇の要員は傭兵。と言えばプロフェッショナルに見えるが、正しくはガラの悪い密輸業者であり、こちらの線もオーダーがダークウェブ経由、支払いが匿名仮想通貨であった点で、詳細を追いかけるには、さらに時間を要した。

 改造体の男の取り調べが行われている隣室に、椎名と秋尾が入ってくる。担当している刑事が挨拶をしようとすると、椎名がそれを無言で制した。そして小声で話しかける。

「どう?」

「…あそこの会社で何をしていたかは、マリーナから回収したPCのSSDで既に判明しています。ただそれに関して自白というか、こちらが言うことに対して追認というか、そういうものはあります。気味が悪いのは、なぜそうしたのか、なぜあそこに居たのか、なぜあそこに行くことになったのか、その部分が記憶から欠落していることですね。なにか、こう、記憶がいびつなんです。それと意志が薄弱というか、問えば答えるが、自発的にはしゃべらないというような…」

「…話しているときに、なにか単語が出ないとか、質問に対してナチュラルに話を逸らしたり、話題自体を認識できていなかったりっていうようなことは?」

「あると思います。」

「…」

 取り調べをしている刑事の一人が、改造体の男の後ろに回り車椅子を動かした。容疑者に見えない位置で、トイレにいかせるというサインをする。椎名はそれを見ると、「おれが行く。秋尾君、手伝ってくれ。」といい、二人は部屋を出た。椎名は取調室の前で容疑者を受け取り、トイレに連れて行く。多目的トレイに入り、便器に座らせると、椎名は「慣れてないだろ。こういうの。」と言って秋尾を外に出した。

 数十秒後、個室のドアの足元の隙間からなにか光ったように見え、秋尾は身構える。椎名のやや大きな声が聞こえたので取手に手をかけたが、その後は小声で会話しているように聞こえたので、秋尾はそのまま外で二人を待った。

 数分後、椎名が容疑者を車椅子に乗せて出てくる。そのまま取調室まで戻ると、待っていた刑事に容疑者を引き渡した。椎名はその刑事の耳元に口を寄せて、小声でささやく。秋尾は咄嗟にARグラスの聴覚強化を起こし、言葉を聞き取った。

「これでやってみてくれ。」

 刑事は椎名がさしだした紙片を受け取り、頷いて、容疑者を連れ取調室に戻った。

 椎名は秋尾を振り返ると、にこやかに声をかけた。

「さあ、基地にもどろうかぁ。」

 秋尾はもやっとしたものを感じたが、その言葉に従った。

 基地への道中、椎名に通信が入る。椎名はBMI通話では無く、あえてしゃべる形で秋尾にそれを聞かせた。

「うん…北洲語…。データはやっぱり密輸業者へ…。…ふん。…金は仮想通貨を出力…。あの四人じゃなくて、おっさんがハックもしてたんだぁ。やるねぇ。あの四人の役割はなんなんだろうねぇ。ところでそれはSSDの中身のフォレンジック結果と合ってるの?…そう。もうやっていると思うけど、受信メッセージが残っていたら発信者を洗ってねぇ。では文章は後ほどよろしくぅ。」 

 椎名は通話を終わると、前方の車窓を見たまま秋尾に声をかけた。秋尾は椎名を見る。

「まぁ聞いての通り。だいたい予想通りだねぇ。」

「実質、一人ってことですか。」

「いまのところ、そうだねぇ。あと金はペーパーに出しているので、データでは追えないねぇ。ネット送金に特化した社会の盲点、紙最強説だ…。」 

「……」


 基地に到着すると椎名は管理区画に、秋尾は基地へと戻った。秘匿されるべき特殊部隊なので、極力屋内で訓練を済ませられるように、複数のビルがまるごと入る航空機工場のような巨大な倉庫を、そのまま基地兼訓練場として割り当てられている。建屋が大きすぎるが故に小さく見えるその片隅で、パトロがナイトアーマーを付けたハウに対して、何かを投げているのが見えた。バトラーが秋尾を見つけて、電動バイクで迎えに来た。

「隊長、お帰りなさい。お疲れ様です。」

 そう言われて、疲れている理由がスーツであることを思い出す。気付いて上着を脱ぎ、襟元のボタンを外してネクタイを緩めた。

「あれ、なにやってんだ?」

 良く見るとパトロが投げているのはブーメランで、ハウは無作為に投げられたそれを、楕円軌道の一番外あたりでインターセプトして、猛ダッシュでパトロに戻りそれを手渡し、またパトロが投げると、それに向かって猛ダッシュして、ジャンプでキャッチを繰り返している。

「ナイトアーマーの同期習熟訓練ですね。ナイトアーマー自身にもハウの癖を学習させてます。」

 投げる度に猛ダッシュして取ってくるハウを見て秋尾はぼそっと言う。

「犬と飼い主みたいだな。」

「ええ、時々ご褒美に餌をやっていますよ。お互いの関係性も構築できたようで。」

「えっ?犬?犬でいいの?」

「本人喜んでますし。」

 秋尾は、それを聞いて、ああ、そう、という感じで納得した。

「報告、今の方がよろしいですか?」

「ちょっと体がなまっているから、ジムででいいかな?」

「了解です。」


「1,2,3,4,5,6,7,8!」

「1,2、3,4,5,6,7,8!」

「奇跡も魔法もありません〜♪」

「魔法少女にはなれません〜♪」

「チートはないから筋肉で〜♪」

「女子力(物理)でぶっ飛ばせ〜♪」

 秋尾はベンチプレスでバーベルを持ち上げながら、思わず吹き出しそうになった。秋尾のARグラスには、バトラーが記録した訓練風景の動画が再生されていた。先頭がハウとパトロ、その後ろがスピアとハッパーで、隊の女子四名が隊列組んでタンクトップでランニングをしている。

「な、なにこれ????」

「隊の女子が四名になりましたんで、突入訓練を2チームに分けて対決しようということで、ハウの音頭で女子チームと男子チームに別れました。これはその前段で、ハウ曰く、女子の結束を固める隊歌だそうです。」

 バトラーは真面目に解説するのだが、明らかにフルメタルジャケットのあれのパロディだ。

「で実際に、突入訓練をしたのですが、まぁ女子チームの強いのなんの。スカウトしたから当たり前なのですが、パトロがいままでどれだけセーブしていたかがよく分かりました。ハウとパトロが突一ユニットなんですが、制圧・捕獲・接近戦ではトライデントを持ったハウが前に、殲滅・銃撃戦ではパトロが前に、状況に応じてすさまじく高速に位置を交代し、一度、スピアとハッパーを支援ユニットにして、ナイトアーマーで二人だけで突撃させたのですが、男子四名に勝ちました。対ハウ装備としてコングに盾を装備させましたが、今度はユニットまとめて蹴り飛ばされる状態でした。まさしく女子力物理そのものでしたよ。」

 動画を目の端で流しながら、秋尾はベンチプレスを終え、タオルで汗を拭きつつ、バタフライマシンに移動する。

「唯一負けたのは、ファルコンのアニマルドローンを使った索敵とトラップ特化の作戦で、それを踏まえ、両グループの溝を埋めてスキルの平均化、および戦力が分断されたときのために、アニマルドローンマネジメント、索敵とネットワーク形成、トラップ、スナイパーなどのサブスキルの向上訓練を行っています。またハッカーチーム、GEEKSが支援編成に入ったので、ハッキングの支援が受けられる場合は支援を受けつつ行動する習熟訓練と、各自自身のハッキングスキルに齟齬がないように基本からの確認を行っています。GEEKSのギルマス隊長とは面通ししました。メンバーとは面割れしないように、レクリーエションのゲーム内アバターでやるそうです。」

 秋尾は胸筋を鍛えながら頷く。

「また各自の行動力のレベル感とスキルを見て、三突撃、一支援、一指揮ユニットの編成を、第一突撃ユニットがパトロ・ハウ、第二突撃ユニットがコング・タクシー、第三突撃ユニットをハッパー・ギャルソン、支援ユニットをファルコン・スピア、指揮ユニットを隊長と私としておきました。なお、試作工作車を出す場合は、私が指揮の第二突撃ユニットで、操手コング、射手ギャルソンで運用します。よろしいですか?」

「相変わらず、執事のような仕事ぶりで、感謝だ。異存なし!」

 秋尾は力を込め、息を吐くタイミングで返事をした。

「ありがとうございます。あと一つメンバーから要望が。」

「どんな?」

 バトラーがややためらって、頭を搔いた。

「作戦開始のかけ声を変えて欲しいと…」

「えええ〜?変えるの〜?」

 秋尾は思わず声を上げた。眉間にしわを寄せて眉を下げてバトラーを見た。


「隊長、お疲れ様で〜す。」「お疲れ様です。」

 秋尾がジムでのトレーニングを終え、シャワールームに移動しようとするタイミングで、ハウとパトロを先頭に、メンバー達がジムへ入ってくる。秋尾がハウをじとーとした目で見ていると、ハウがそれに気付いて、好奇心旺盛な犬のように近づいてきた。

「なんですかぁ?」

 秋尾は言いたいことを飲み込んで、隊長らしくハウに質問した。

「慣れたか?」

ハウは、ニカッと笑って答えた。

「ハイ!」

 秋尾はその反応よりも、それを見てほんの少しだけ涼しげに笑ったパトロを見てびっくりした。パトロはその視線に気付いて秋尾の方を見返し、ハウは頭に?マークを浮かべながら秋尾とパトロを見比べる。パトロはその視線には反応せず、秋尾に伺いを立てた。

「隊長。今日これから私、規定のメンタルなんですが、いい?」

 メンタルとは特殊部隊員向けの、心理カウンセラーによる定期的なメンタルチェックのことだ。

「あ、ああ。…、バトラー、このあと任せていいか。ちょっと事件の捜査のことで、心理カウンセラーに助言を求めたいんだ。」

「了解しました。」

 秋尾はバトラーの返事を受けて、パトロの方をむいて

「俺も同行する。」

 と告げた。パトロは頷いて、

「準備します。」

 と答えた。

 ハウがパトロを見て指をくわえ、少し寂しそうな顔をすると、パトロはハウの頭に手を置いて

「お夕飯、一緒にたべよう。」

 と言った。ハウがうんうんと頷くと、

「ただし、間食したら、なしね。」

 と付け加えた。ハウが子犬のようにキューンと鳴くと、一同が笑った。



・横須賀市西部


 秋尾が椎名に届けられた暫定の報告書の内容を、両開きのタブレットの上で眼で追う。要所に挟んである、尋問の様子の動画もチェックしていた。

走る自動運転車がトンネルを抜け高速を下り、三浦半島の相模湾側に向けて進む。海沿いで海を左手に国道を北上すると、五分ほどでやや高台に進むように右に逸れ、しばらくして崖の上に海に突き出すように立てられた白い建物に到着した。

 二人は車を降り、一階が駐車場のコンクリートの建物を二階に昇る。そこには「メンタルクリニック・ホワイトルーム」という木製のペンキで塗られた看板があった。パトロがインターホンを押すと、中から声がして、ロックを解除するコトリという音がした。

 パトロがドアを開けて中に入ると、スリッパの静かな音を立てて、白衣のようなワンピースのような服を着て、髪をアップにまとめた壮年の女性が現れた。

「こんにちは、如月さん。そちらは連絡にあった上司の秋尾さんね。サイコドクターの一色エイです。」

 そう女性は自己紹介した。目の前で迎え入れるような仕草をすると、秋尾のARグラスに一色の情報が提供された。エイは詠と書くらしい。秋尾は全体が白い部屋のなかで、一輪挿しに控えめな和花が咲いているようなイメージを得た。

「ではまずは如月さん、いつもどおりこちらに。」

 一色は二人を先導して進むと、パトロには海側の部屋を指さした。大きな引き戸の中を見ると、白い、真っ白い部屋の大きなガラス窓の向こうに、一面蒼い海と青い空、それを分かつ水平線が広がっていた。部屋の真ん中には、海を向いて白いリラックスチェア、その横、リラックスチェアに向けて、一人掛けのソファーが置いてあった。

「秋尾さんはこちらでお待ちくださいね。」

 そう指さした部屋は同じように白い壁で、白い大きなソファーがあった。先ほどの部屋とは違い小ぶりで、ガラスのテーブルが据えられ、その上にいくつかの上品なレイアウトの英字雑誌が置かれていた。

「では後ほど。」

 一色はそう告げると、パトロを部屋に誘って、白い大きな引き戸をレールの静かな音とともに閉めた。

 秋尾はソファーに深く腰掛けると、向かいの壁、天井近くに掛けられて、ほんのかすかに規則的な音を立てる時計を見上げる。海風が建物に当たるのか、静かな音楽のような旋律を繰り返し奏でている。眼を閉じしばらくその音に耳を傾けていると、それは風の音ではなく、人の声というのはあまりに整っていて、かといって楽器というには温かみのあるコーラスのようであった。目を閉じて深呼吸をすると、すぅっと体の力が抜けた。

肩に添えられた手に、体を揺らされていることに気付く。思わずビクッとして、秋尾は自分が寝こけていたことに驚いた。

「隊長…大丈夫?」

 手の主はパトロだった。秋尾はパトロを見上げ、続いて壁の時計を見ると、一時間ほどの時間が過ぎていた。寝こけていた恥ずかしさを隠すように立ち上がり身だしなみを整える。一色は微笑んで秋尾に促した。

「この部屋は、そういうようにできてるから。…では、こちらに。」

秋尾が部屋に入ると一色は引き戸を閉めた。秋尾はしばらく赤く染まり始めた窓の外の風景に見とれていたが、やがて一色に向き直った。

「あの、自分はカウンセリングではなくて、ちょっとお知恵を…」

「ええ、そう聞いています。でもここには椅子がそれしかないの。どうぞおかけ下さい。」

 秋尾は椅子と一色を見比べて、やがて一色に向いてチェアの端に腰を落とした。

「…先生は心理学博士でもあって、かつ政府関係者のメンタルチェックも担い、警察の事件捜査の助言をされているとお伺いしています。自分の親元の自衛官も多々お世話になっております。その上で、いきなりですが今から申し上げることで、なにかご存じのことを、差し支えない範囲でお教え願えますか?」

「ええ。差し支え無い範囲でよろしければ。」

 窓から差し込んだ夕陽が一色の顔の半分を照らす。微笑んでいるのだが、陰と陽が差し支え無いことと、差し支えがある事柄もあることを、象徴しているように見える。

「私がとある事件の犯人を捕まえたとします。自分が何処の生まれでなんという人間かということは覚えていて、しかし、なぜ事件を遂行するに至ったのか、その経緯や動機が全く分からないという。あとは…強いて言えば、黙秘ではないが問いかけへの反応薄いというか、事件について自白するわけではありませんが、証拠などから立てた推論を尋ねると、合っていたらそう答える。そのような事例があった場合、なにか事件の解明において心理学的に留意するべき点はありますでしょうか?」

 一色は秋尾をじっと見る。しかし、視線は秋尾ではなくその向こうを見ているような焦点だった。しばらく時間があき、一色が口を開く。

「あなた、伺っているけど、サイバーコマンドっていうチームなのよね。警察でもあり、時に自衛隊でもある対物理心理戦の特殊部隊…」

 一色はパトロのカウンセリングをしている時点で知っている事を確認する。というよりも自分の中での情報開示の確認と整理をしているようだった。

「…あなたがたぶん聞きたいのは、カウンセラーではなく学者としての見解ね。つまり本人の自覚なく記憶の一部を消去することは可能か。」

「ええ、まぁ。」

「答える事は可能だけれども、たぶん捜査上、いやその後では、なんの役にもたたないわよ。それでも良いかしら? 」

「というのは…」

「この国は人の心理やその構造というものに対して、理解が貧しいわ。人間には崇高なる心とそれに基づく意志があって、それによって人は行動する。それ故に人間は他の生き物に長じる権利がある、そんな風に考えている。前者は法律的な、後者は概念的な。それが人々の深層意識と言ったらいいのかしら。」

「?」

「人はね、人間には心と意志があり、それに基づいて行動すると思っているでしょう。でもそれとは逆に、人間は行動を追認する結果として意志を持つという説もある。心は皆自らの意志のもとに形成され、不可侵であると思って居るけれども、その実それは行動の結果でしかなく、行動は簡単なプログラムでしかなく、意志はたんなる後付けでしかないとうことね。」

「でも、それは立証不可能なのではないですか?」

「人間はプログラミングできないから?違うわ。体系だった説明を受けたことがないだけであなたも知っているはずよ。」

「え?」

 一色はソファーの肘掛けに両手を置いて立ち上がると、小さな足音を立てて窓ガラスの方に歩いていった。その姿は夕陽を背負ってシルエットになり、背を向けていることもあって表情が読めなくなる。

「たとえばハッカーがサーバーを攻撃して侵入し、不正なプログラムを注入するとき、どうする?」

「外からならばファイアウォールなどを抜けられれば、システム上のバグ、脆弱性を突いて侵入し不正なプログラムを内部で実行するか、メールなどを使って内部の人間のセキュリティホールを突き同様の事を実行させますね。」

「では人間はプログラムで動き、プログラム言語は対象がネイティブでしゃべる言葉、ファイアウォールは…そうね、人間の理性だったり常識だったりと仮定しましょう。ふだんはそこが不正なプログラムの侵入を許さないのだけれど、人間のファイアウォールにはバグがあって、攻撃によりダウンさせて目的のプログラムを注入できる。バグは例えばびっくりさせて正常な判断ができないようにさせるとか。」

 秋尾は一色の言葉に眉をひそめて考え始める。

「それに成功すると、人は任意のプログラムを打ち込まれて、およそ普通では考えられない行動を起こす。見ず知らずの人にお金をあげてしまうとかね。しかもこのバグは、コンピュータと違ってセキュリティアップデートで防げない。脳という機器にハードコード、脳の本来的な構造の一部として組み込まれているから…。でもこれだけじゃ、あなたが言っていたことはできない。漠然としすぎている。」

 一色は横を向いて片手を額にやり、ゆっくりと窓の前を歩き出した。

「ファイアウォールを停止させて、好きなようにその中のプログラムを書き換えられなくてはいけない。ちなみにこのファイアウォールを乗り越える方法は、大まかに四つ。ファイアウォールを止めないで乗り越えるやりかた、システム全体の動作がゆるくなっているときを狙うやり方、疲労で作動停止に追い込むやりかた、ファイアウォールだけを停止させるやりかたがあって、一つ目が正面からの説得、二つ目が寝ている場合、三つ目が洗脳、四つ目が催眠および特定薬物がある。ただこの書き換えた内容が正しく動作するには、注入されたものが脳に正しく認識されないといけないので、脳が覚醒している必要がある。該当する方法は一つ目と四つ目。でも話を聞く限りでは説得じゃないし、…薬物は?」

「でていません。」

「まぁあれは、足を捕まれるようなヤワな薬物じゃないけどね。」

「それはどんな…」

 一色は、ふうと息を吐く。

「我が国にはスパイ教本がないから知らないのよね。帝露と新露が分裂した時に数例、あと神米のマフィアが流通させた例があるぐらい。まぁおおもとはどこかのスパイ組織が作ったものが流れ出したんでしょう。」

スパイ教本がない、そしてそれが意味するのは専門のスパイ組織がないということで、確かに泣き所なのだ。

「そうすると消去法で催眠関連ね。ちなみに秋尾さんは、催眠術と催眠誘導って言葉の違いがわかる?」

「催眠誘導は、心理治療の一つの手法の入口ですよね。それに対して催眠術は所謂ショー的な。」

「見事に知識をハックされているわね。何も違わないわ。催眠誘導を使う臨床心理士は催眠術と一緒にされたくないからそう言い、催眠術を使う連中はショーのために学校に行って資格を取らされ、責任を負わされては堪らないから違うという。でも実は全く同じ物よ。そしてよく言われる、『本人が望まない事はさせられない』『自分が死んだり他人を殺したりさせる事はできない』と言うのも嘘。そんなのはプログラムの書き方次第。本人が『肯定できるようにプログラムすればいいだけ』。唯一制約があるとしたら、プログラムの言語が人間一人ひとり全く違うから、それぞれの人間はあわせた言語で破たんがないプログラムが書けないと、実行してもエラーを吐いて終了になる。そしてそんな千差万別の相手に即座にあわせられる人間がいないため、これが武器として実用化されることはなかった。」

 秋尾は、一色が言っている事を適用すると、だんだん何が出来るのか直感的に分かってきた。攻撃を予測させる本能が背筋に汗を滲ませる。そして渇きはじめた喉から言葉を絞り出した。

「つまり、そこをクリア出来れば兵器化できると…」

 一色は手を下ろして秋尾の方を向き、あっさりと答えを口にした。

「そうねぇ。この業界の心ある人たちは、とうの昔にその危険性に警鐘を鳴らしたんだけど、その根本を突き詰めると、人を人たらしめる根拠となる、人間の意志の存在が揺らぐから、見て見ぬ振りが成されてきた。まぁ私もそれが原因で組織をやめて、こんなところで悠々自適に暮らしている口だけれど。」

「その…、いまの政府の中でそれを理解している人は…?」

一色は指を顎に当てて、少女のように首をかしげ、顔はこちらに向けて、眼は斜め上、天井の方にやった。

「…う〜ん。差し障りがあるかしら。」

「少し、安心しました。」

 答えがNOならないと言うだろうし、YESだから差し障りがあるのだ。

「私が教えてあげられることはこれぐらいだけど、もしもっと知りたいのなら、私の大学時代の先生に会いにいってみたらどうかしら。でも、もう死んでしまっているんだけど。」

「それは、先生の書斎か何かにお伺いして、資料を漁るといいということですか?」

「いいえ。千葉の山の中に、『幸せが眠る森』というところがあるわ。そこに行けば、彼のアーカイブドパーソナル、所謂模擬人格的なものに会えるわ。ご遺族から面会できる許可を取ってあげましょう。あとで送るわ。」

「ありがとうございます。」

 秋尾は席を立って、身だしなみを整えた。礼をして扉に向かって歩き出そうとしたとき、縁思い立って足を止める。

「あの、もう二つ質問してよろしいですか?ちなみにファイアウォールを攻撃する手段は、どんな方法があります?」

「一つはよく知られている『眠くな〜る』的な緩やかな誘導ね。もう一つは詐欺なんかで使われる、驚かして正常な判断を停止させる『驚愕法』というの。地震、津波、雷、テロの爆発なんかもそのカテゴリね。爆発が起こった直後に『あいつが犯人だ!』と声が上がって集団でリンチなんてのもそう。」

「雷と言うことは光も?」

「方法の一つね。」

「あともう一つ。これは完全にハッカーの端くれとしての興味なんですが、プログラムを書き換えられると言うことは、コンピュータのOSを全て入れ替えるようなことはできるんでしょうか。」

「機器の構造、BIOSやデバイスにマッチすれば、理論的には可能なんじゃないかしら。でも人間の脳の構造はインタープリタ型言語的な部分もあるので、言語に対応しさえすれば、あとは脳が矛盾がないように翻訳してくれるところもあるのよ。ただ量が膨大なので、生理的な理由で難しいかも。大量に起きている時間がいるということは連続性と整合性がそこなわれるのよ。」

「……大変参考になりました。ありがとうございます。」

 秋尾が深く頭を下げて、引き戸を開けると、パトロがすぐに席を立って近づいてきた。彼女が眠っていなかったことで、少しだけ自戒する。

「如月さん、またね。」

 一色のお別れに、パトロが頭を下げ、秋尾と共にカウンセリングルームを後にした。空は深く蒼味がかって、既に夜を迎えつつあった。

 秋尾とパトロは自動運転車に乗りこみ、基地方面へ走る。向かい合わせのシートに座った秋尾はパトロにカウンセリングに関して尋ねた。

「先生の所見、聞いても大丈夫か?」

「別に。レポートにして出すから、気にしないでいい。」

 秋尾は頷いた。進行方向に向いているパトロの後方へ、次々と道路際の照明が流れていく。それに従って車内も明るくなり、暗くなり、色を帯びたりする。

「凪の海に少しだけ波が立っている。でもその波は良い波だから、もっと波を立てても良いって。」

「…そうか。よかったな。」

 パトロはコクリと小さく頷いた。隊を結成して部下になったとき、職務をこなす機械のようであったり、かと思えば自主的に目標と立てて徽章を獲得したり、必要であれば「営業モード」に切り替わるのを見て面食らったのだが、ここに来てこの無機質な表情にある感情の起伏を読み取れるようになってきた。たぶん、今はうれしいのだ。

「そういえば、ハウと飯を食う約束だったんじゃないか。すまんな、遅くなって。」

「そうだった…。」

 少し目が寄って、上唇がちょっと上がり、たぶんこれは焦っている顔。慌てたようには見えないが、手早くARグラスを付けて、ハウに連絡をしているようだった。 

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