第5話

 実家から戻ってきて一週間がたっても、俺の元気は戻らなかった。

 いや、もう何年も元気だった日がない気がする。

 暗い顔をして朝起き、暗い顔をして仕事をし、暗い顔で帰宅し、暗い顔で眠る。

 現に蜂須くんから、「随分と暗い顔してますね」とからかわれた。

 漫画は一応描いてはいるが、少しずつしか進まず、閉塞感は募るばかりだった。

 そんなある日、アシスタントの仕事終わりに、岡永くんが私に声をかけてきた。

「真鍋さん、僕の漫画持ってきたんですけど、読みますか?」

「え? どうして?」

「前に約束したじゃないですか。僕の漫画も読ませるって」

「あぁ、そんなこと確かに言ってたな、岡永くん」

「だからほら、僕の渾身の一作ってやつです。読んで感想ください」

 岡永くんは俺に、緑色のノートを差し出してきた。ノートの表紙にはマジックペンの太い字で『下描き集』と殴り書きされている。俺と同じくラフをノートに書き溜めているようだ。

 俺はノートのページを捲り、下描き段階の岡永くんの漫画を読んだ。

 正直に白状すれば、俺は岡永くんの漫画を舐めていた。

 実力は俺と同じくらいかそれ以下だろうと、根拠もなく勝手にたかをくくっていたのだ。

 それなのに――いやだからこそか、その漫画から受けた衝撃は一入だった。

 初めはのろのろ動いていたページを捲る手が、いつの間にか止まらなくなっていた。

 ――面白い――面白いぞ、これ――。

 読み終わった後には、しばらく呆然としていた。

「で、どうでしたか?」

 岡永くんが痺れを切らしたように感想を訊ねてきた。

 面白かった――すごく面白かったと答えるべきだ――答えるべきなのに――。

「――うーん、正直俺の好みじゃないな」

 口が飛び出したのはそんな台詞。慌てて飲み込もうとしても次々と口から吐き出される。

「面白いは面白いけど、なんか力技というか、所々雑というか――」

 何を言っているのだ、俺は。違うだろ、本当に抱いた感想は違うだろ。

 しかし、それは口から這い出してこない。適当に捏造したダメ出しばかりが溢れてくる。

「キャラクターにも感情移住できないしな――」

 岡永くんの表情がみるみるうちに、しょんぼりと萎んでいくのがわかった。

 罪悪感がちくちくと、しつこく心を刺した。

「で、でも大まかに面白かったから。うん、面白かったは面白かったから」

 俺は岡永くんと目を合わせないように顔を伏せ、ノートを返した。

 そして「それじゃ、また明日」と岡永くんの反応も見ずに一目散に逃げ帰った。

 速足の家路の途中、虚しさと情けなさが同時に襲ってきて、つい道端に頭を抱えて蹲った。

 くそ、何なんだよ。自分は何がやりたくて、わざわざあんな傷つけるような言い方したんだよ。本当はすごいと思ったくせに。自分には真似できないって、自分が何年修行してもこんな漫画は描けないって、それだけで感動したのに――それだけ感動したからか? それだけ感動したから、自分には届きそうにないって思ってしまったから、だからあんな風なことを言ったか? つまり嫉妬か? 醜い嫉妬か? なんて女々しくて矮小な男だろう、自分は――。

 俺は十数分ほど、ずっとその場に蹲って軽く呻いていた。

 岡永くんのプロデビューが決まったのは、その日から二週間足らずのことだった。

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