第4話

『昭雄、大変! お父さんが倒れた!』

 お袋からそんな切羽詰まった電話がかかってきたのは、梅雨に入り始めた頃だった。

 俺は雨の中、血相かいて実家へと飛んで帰った。

 しかし蓋を開けてみれば、親父は何てことはなく病院のベッドの上でぴんぴんしていた。

 盲腸だったらしく、手術したらあっさり治ったらしい。

「もう、驚かせんなよ」

「悪い悪い、倒れたときは俺も本気で死ぬかと思ったんだぜ」

 俺がホッとして愚痴ると、親父は照れ臭そうに笑ってそう言った。

 俺はその日、実家に泊まっていくことになった。住み慣れていたはずの家だったが、しばらく実家に帰ってきていなかったせいか、妙な余所余所しさを感じた。

 夕飯には食卓にお袋の手料理が並んだ。久しぶりに息子に食わせるから張り切ったようだ。

 お袋ともう一人、実家には姉貴がいた。姉貴は都会にある商社に働いているOLなのだが、俺と同じく父が倒れたという連絡を受けて帰ってきたようだった。

 俺の兄弟には他にも兄貴がいるのだが、帰ってきていなかった。

「兄貴は? 親父が倒れたって兄貴にも連絡したんだろ? 帰ってきてないの?」

 何となく理由は察していたのだが、一応お袋に訊ねた。

「あぁ、幸雄はね、忙しいから帰れないって、それだけ言って電話切っちゃったのよ」

 まぁ、大方そんなところだろうとは思った。

 兄貴は都会で売れない劇団役者をやっている。俺がまだ幼い頃から兄貴は俺によく「俺はいつか芸能界の大物になるんだ」と嘯いていて、その夢を未だに追いかけているのだ。しかし、十年以上の役者活動をしても売れず、バイトだけをこなす苦しい生活を送り、お袋もいい加減まともに就職しろと急かしているそうだが、夢を諦めきれずにいるようだった。

 いや、俺は別段兄貴に文句を言えたような立場にはいないのだが。

 三人揃って料理に箸を突いていたら、自然と兄貴の話になった。

「兄さん、まだ役者の夢諦めきれないの?」

 姉貴がきゅうりの漬物を噛みながら、呆れたような声音で言った。

「せめて定職についてくれりゃいいんだけどねぇ。あの子、なんか意地になってるみたいで、役者を目指すには定職について一日中働いてる時間の余裕はないなんて言ってねぇ」

「経済的な余裕がないんだろっつーの」

 俺はお袋と姉貴のやり取りを聞きながら、黙っていた。

 俺が兄貴の事情に口を挟めるような人間ではないことは、俺自身が一番よく知っていた。

「そういや昭雄、あんたはどうなのさ」

 せっかく黙っていたのに、姉貴が俺の方に矛先を向けてきた。

「どうなのって――何だよ?」

「あんたも、夢追いかけてるでしょ? 漫画家だっけ?」

「まぁ――そうだけど」

「あんたもいつ定職つくのよ?」

「いや――別に定職にはついてるから」

「定職? 何て職よ?」

「アシスタント――漫画家の」

「漫画家目指してのに、漫画家のアシスタントやってんの?」

「いや、今プロの人でも元々アシスタントだった人は結構多いし」

「ていうかアシスタントって定職なの?」

「専業でやってる人もいるし――」

「それって何年でもできる仕事なの?」

「――どういう意味?」

「いやだからさ、六十歳とか一般的な定年の年齢になるまで働ける仕事なのかってこと?」

「それは――」

 俺は言葉に詰まってしまった。そして内心、愕然とした。アシスタントが歳を取っても続けられる仕事なのかという点ではない。実際に専業としてアシスタントの仕事を勤め上げた人はいる。そうではなくて、そんな歳になるまで自分が漫画家にならずアシスタントであること、そしてそれが容易に想像できてしまったことに、俺は愕然としたのだ。

「――専業で定年まで勤め上げた人もいるから、大丈夫だよ」

 詰まらせた後の言葉は、とりあえずそう続けた。

「ふーん」と姉貴はもう興味が失せたように、テレビの恋愛ドラマに目を向けていた。

「それでもやっぱり心配だから、ちゃんと就職すること考えといた方がいいよぉ」

 お袋が心配そうに言った。「本当に大丈夫だよ」と俺は笑って誤魔化した。

 夕食後、私は約一年ぶりに実家の自分の部屋の畳の上に寝転がった。

 畳の臭いと埃の臭いが、同時に鼻の穴の中に忍び込んできて、懐かしさが鼻孔を擽った。

 畳の上をしばらく無心でごろごろと転がり、ふと先程のあの愕然とした気分を振り返った。

「このままなのかなぁ――俺――」

 虚空に呟いてみても、もちろん返事なんかなかった。

 何もしなくても余計なことばかり考えて気分が重くなるだけだから、俺は部屋の隅にある本棚から一冊漫画を取り出した。その本棚も、俺が一人暮らししている部屋の本棚と同じで中身は九割がた漫画だった。違うのはこちらの本棚の方が多く埃を被っていることだ。

 埃を払い落としながら、漫画のページを捲った。

 俺が小学生の頃から持っている、古い子供向けギャグ漫画だった。

 子供向けとはいえ、やはりプロが描いた作品らしく素晴らしい完成度で、久しぶりに読んだのも手伝ってか、俺は所々で声を出してくすくすと笑った。

 そういえば、これを読んで「ギャグ漫画なら描けそうだからギャグ漫画家を目指そう」、とか息巻いていたのに、いざ描こうとしてみたら、つまらないオヤジギャグみたいなものしか思いつかなくて、結局「ギャグ漫画は向いてない」なんて結論に落ち着いたんだよな。

 そういえば、いつから漫画家目指してたっけ? と今更過ぎることを思った。

 きっかけは――きっかけはそう、やはり小学生の頃だ。

 冒頭でも述べたが、俺は元々野球好きの父の影響で野球が好きだった。

 野球繋がりで、野球漫画を読んだのがきっかけだった――と思う。

 その漫画にいたく感動した俺は、他の漫画も読むようになり、そしてどんどん漫画の世界へと引き込まれていった。一年も経たないうちに、授業の作文で書いた『将来の夢』が、プロ野球選手から、漫画家に変わるくらいには、俺は漫画の世界にのめり込んでいた。

 後は特に語ることもない。描いては没にされ、それを繰り返して今になってしまった。

 これからもそうなんだろうか? これからも俺は――。

 また憂鬱がのっそりと頭をもたげたとき、廊下の奥からお袋の声がした。

「昭雄、お友達が来てるわよー。いっちゃんとやっくん」

 お袋に呼ばれて玄関先まで行くと、二人の地元の友人が来ていた。

「昭雄が久しぶりに帰ってきたって聞いてな。飲みの誘いに来たんだよ」

 友人の一人がそう言って笑った。俺は少し悩んだが、その誘いに乗ることにした。

 俺と二人の友人は近所の居酒屋へ行き、三人ともビールで乾杯した。

 三人はそれぞれ自虐めいた近況報告をし、世間話や冗談話をして笑い合った。

 始終和やかだったが、中盤辺りから異変が生じてきた。正確には俺に――。

 俺の酒癖――それはどうも愚痴っぽく、しかも怒りっぽくなってしまうことだった。

 おまけに俺はアルコールに弱い。その日もそんなに飲んでいないのに早くも酔ってしまい、意識はあるにも関わらず自制は利かずにいつもの酒癖が発動してしまった。

「――なぁ、聞いてくれよ。俺、いつまでこんなんだろな?」

 俺はついに愚痴り始める。自分でも、またか、とうんざりする。

「いつまでアシスタントなんかやってんだろうな? そりゃさ、梶木先生のところで働けるのは光栄なことだし、嬉しいことだよ。でもさ、俺は漫画家になりたいんだよなぁ。漫画家になりたいんだよ。なりたいのにさ、なれないんだよ。どこの出版社に持っていても原稿は没にされるし、読み切りすら一度も雑誌に載ったことがない。正直俺には才能ないのか――いや違う、俺に才能がないんじゃない、あいつらの感性が鈍いんだ。そうだ! 俺が間違ってるんじゃない! あいつらが間違ってるんだ! 知ってるか? 今年の和田敦彦賞を受賞した漫画。画力以外はクソ過ぎたぞ。あんな画力だけの見せかけのクソ作品が賞を取れるなら、俺が疾うに獲っていても良いと思わないか? 思うだろ? なぁ? 思うだろ?」

 自分でも呆れる。恥を塗りに塗りたくって情けなくなる。

 そう頭の冷静な部分では理解していても、愚痴を喋る口は止まらなかった。

 幸い、俺のこの悪癖を知っている友人たちは、俺の愚痴を笑って聞き流してくれた。

 それでも俺は、内心情けなくて情けなくて仕方なかったのである。

 気付けば飲み会は終わり、俺は一人実家へと帰っていた。

 確か、友人が送ると申し出てくれたが、断ったのだと思う。

 唐突に吐き気が込み上げてきて、近くの用水路に向かって突っ伏す。

 そこに胃から昇ってきた吐瀉物を撒き散らかした。苦してくて、酸っぱくて、消えたくなった。

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