第2話
「あー、なんか、まぁ悪くはないんですけどねぇ」
ヒラメみたいな顔をした、その編集者の反応は煮え切らないものだった。
「こう――何といいますか、もうちょっと夢がある話がいいかなぁ、個人的には」
編集者は曖昧に言葉を濁す。俺はその態度に内心イラつきながら、愛想笑いを浮かべる。
「ははっ、そうですよね、いくら何でも暗いですよね、この話」
俺はこういう話が面白いと思って描いたのに。その台詞は喉の奥底にでも留めておく。
「今回はご縁がなかったということで。また別の機会に――」
編集者がそう言って、原稿を俺に突き返した。
俺は相変わらず煮え繰り返る腹の中を隠して、へらへらと愛想笑いをする。
「すいませんね、今度はもっと明るい話を描いて持ってきますよ」
「はい、そうしてください」
編集者は席から立ち上がり、テーブルの端に置かれている伝票を手に取った。
「それでは、私は別の仕事があるのでこのへんで。勘定は真鍋さんの分も含めて私が払っておきますよ。お暇ならしばらくのんびりしててください」
編集者は少しだけ嫌味っぽい台詞を残し、レジで勘定を済ませて店から出ていった。
俺は冷めたコーヒーを啜り、没になった漫画原稿を前にぼんやりと頬杖をついた。
現在俺がいるのは、昼下がりの寂れた喫茶店の中。客は疎らだった。
――今回もダメだったなぁ。
煙草を取り出してそれの先端にライターで火を点け、煙を空中に吐き出しながら思う。
前回も、前々回も、前々々回もダメだった。この調子だと次回もダメそうだ。
煙草を吸い終わったらコーヒーを一気に飲み干して、俺は原稿を脇に抱えて店を出た。
季節的にはまだ春のはずだが、今日も随分と暑い。
冷房の利いた店内から外に出た瞬間に、じわっと毛穴から汗が噴き出してきた。
今日はアシスタントの仕事はない。やることがない。あの編集者の言う通り、暇だ。
作品を没にされたせいか、創作意欲も湧いてこない。このまま帰っても昼寝するだけだろう。
だから家路に向かう道中で、行きつけの画材屋に立ち寄ることにする。
私の家の近くに、画材屋は一軒しかない。『葉山画材店』という店だ。
そこに入店して、買い物かごの中に不足していた画材や用紙を放り込んでいった。頭の中では金の計算。今の全財産はこれだけで、これを買ったらこうで、食費がああだから――。
今月も乗り切れそうか? あぁ、でもこれは買わなくても――。
「真鍋さん?」あれこれ考えていたら後ろから声をかけられ、俺は振り返った。
「――蜂須くん?」
俺に声をかけたのは、アシスタントの同僚の蜂須くんだった。
いや、蜂須くんだけではない。蜂須くんの隣にはぼーっとした表情の男がもう一人。
「岡永くんもいるのか?」
「はい、ちょっと二人で画材を買いに」
「あれ? 蜂須くんと岡永くんってそんなに仲良かったっけ?」
「言ってませんでしたっけ?僕と岡永さん、ルームシェアしてるんですよ」
「え? 初耳だけど? 二人で同じ部屋に住んでるってこと?」
「そうです。それで最近ここに越してきたんですよ。前に住んでた場所は、梶木先生の家に通うには遠くて不便だったんで。真鍋さんもこのへんに暮らしてたんですね」
「あぁうん、前から、一人暮らし始めたときからずっと」
私と蜂須くんが会話している間も、岡永くんはインクコーナーを物色していた。
一応私はあのアシスタントの中で最年長で、アシスタント歴も長く、岡永くんにとっても先輩のはずだったが、岡永くんはまるで私なんか見えていないように挨拶の一つもしなかった。いやまぁ、私はあまり気にしないが、少しもムッとしないわけでもなかった。
「どうです?この画材屋の帰りに、酒でも一杯?」
蜂須くんが、くいっと酒を呷るようなジャスチャーをした。
「いえ、私は遠慮しとくよ」
俺は断った。俺は酒癖があまり良くなかった。酔うと出るちょっとした悪癖があるのだ。
その後、ちょっとした世間話をして、それぞれで会計を済ませ、三人揃って店を出た。
すると、空は多少雲があっても晴れているのにも関わらず、雨が降っていた。
「あー天気雨かー。天気予報じゃそんなこと言ってなかったのにな」
蜂須くんが愚痴った。岡永くんは空を見上げるきりで何も言わなかった。
「まぁ待ってたら、そのうち晴れるでしょ。あ、その前にちょっとトイレ行ってきますね」
蜂須くんはそう言い残し、トイレへ行きに店の中へと戻っていった。
店先の庇の下で、俺と岡永くんが二人きりで取り残される形になった。
岡永くんは俺と二人きりになっても、ぼんやり空を見上げているだけで口を開かない。
なんだか気まずいが、俺もどう声をかけていいものかわからない。
「あの――真鍋さんって、プロの漫画家目指してるんですか?」
早く蜂須くん帰ってこないかな、と思っていたら、唐突に岡永くんが言葉を発した。
あまりに何の前触れもなく突然だったので、俺は不自然に身体をびくっとさせてしまった。
「あ、その、まぁ目指してない――わけもないというか――」
おまけに返事までシドロモドロになってしまった。年上なのに恥ずかしい。
だがしかし、岡永くんは俺の羞恥心なんて知ったこっちゃない様子で、台詞を重ねる。
「僕も目指してるんですよ、プロの漫画家」
「へ、へぇ、そうなんだ」
「真鍋さんの席の机の引き出しに入ってたノート、そのノートに描かれてた漫画、ちょっと読ませてもらったんですけどね――」
「なっ!」
俺はつい大きな声を出してしまった。
「読んだ? 読んだって――勝手に?」
「あぁ、すいません。ダメでしたか?」
「ダメも何も――」
「率直に感想を言わせてもらうと、面白かったです」
「はぁ」今度は気の抜けた返事が出た。まさか褒められるとは。
半ばお世辞だろうと思いつつも、「どのへんが?」と訊ねてみた。
すると岡永くんは、ぼそぼそ話していたのが嘘のようにはきはきした声で喋り出した。
「まずですね、キャラクターが良いですよ! なんか生き生きしてる!それからギャグセンス!声に出して笑っちゃいましたよ! そして最後にはほろりと泣かされて――」
怒涛の褒め言葉だった。私は呆気に取られて雄弁な岡永くんを見ていた。
岡永くんは変に思われているのに気付いたのか、少しだけ声のトーンを落とした。
「とにかく真鍋さんは才能あると思いますよ」
岡永くんはそう言って照れ臭そうに笑った。彼の笑顔を見たのは初めてな気がした。
「今度、良ければ僕が描いた漫画も読んでください」
岡永くんにそう頼まれて、私はとりあえず頷いた。
「うん、じゃあ機会があったら読ませてよ」
心なしか、自分の声が明るくなっているような気がした。
自分の漫画が褒められたのは、随分と久しぶりのことだった。だからとても嬉しかったのだ。しかもそれは同じアシスタントの仕事をしている人に、同じように漫画家を目指している人に褒められた、それがすごく嬉しかった。今までは岡永くんのことを、じつは感じの悪いやつだと思っていたのだが、少し接しやすくなったような気がした。
そうこうしているうちに、トイレから蜂須くんが戻ってきた。天気雨も止んでいた。
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