第1話

 あれから、十八年の歳月が流れた。

 今朝も俺は目覚まし時計に起こされ、安アパートの一室で、頭痛を抱えながら起きる。

 俺の朝の習慣、歯磨き、髭剃り、洗顔、排泄、朝食、新聞を読む、民法の朝のニュース番組のくだらないおふざけに唾を吐き捨てる、着替える、そして仕事へと出かける。

 外出時には欠かせないもの、スケッチブック、ノート、文房具一式、手帳、ウォークマン。

 ウォークマンの中には千を超える落語の音源が入っている。

 それを聴いて仕事へと向かう。笑いはしない。もう何十回と聴いているから。

 出勤時は人間観察も怠らない。例えばあの銅像の前でぼんやり突っ立ている女性。あの人は誰かを待っている風だが、そうだとしたら、一体誰を待っているのか? 例えば怪しげに道端できょろきょろしている男性、何かを探している風だが、一体何を探しているのか?

 とにかく想像力を高めることが重要だった。想像力は創造力となり、表現力にも繋がる。

 そうこうしているうちに仕事場へと到着する。

 私の仕事場は、古めかしい二階立ての一軒家の民家の中にある。かなり大きな民家だ。

 鍵も使わずにその民家のドアを開ける。鍵がかかっていないことを知っているからだ。

「あら、今日は少しお早いですね?」

 俺が民家の奥に向かって声をかける前に、玄関前の階段から降りてきた中年の女性がそう言って笑う。この家の主人で俺の雇い主、梶木忠伸先生の奥さんだ。

「まだ他の方はこられてませんけど、主人はもう作業に取り掛かってますよ」

「そうですか、なら私も急がねば」

 俺は玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、廊下の奥にある部屋に進む。

 その部屋はリビングぐらいの広い空間で、デスク机が六つ、向かい合わせで並んでいる。

「あぁ、真鍋くん、来たんだね。おはよう」

 デスク机の一つについている、優しげな中年の男性が俺にそう挨拶した。梶木忠伸先生だ。

「おはようございます。今朝は少し暑いですね」

 俺も笑って挨拶を返す。相手の方が立場は上なので敬語は欠かせない。

「そうだね。それじゃ、今日もよろしく頼むよ。このページのベタ塗りお願い」

 梶木先生から原稿の一枚を渡され、俺は自分の席について作業を始める。

 原稿には、ベタを塗る前の漫画の一ページが描かれていた。

 もう説明するまでもないだろうが、俺の仕事というのは漫画のアシスタントだ。

 ようは漫画家の漫画を描くサポートをする仕事である。

 俺がアシスタントとして勤めているのは、漫画家の梶木忠伸先生のところ。

 梶木忠伸先生は、漫画好きの中で知らぬ者はいないというほど有名な漫画家だ。十七歳、まだ高校生の頃に漫画家デビューを果たし、漫画家になってからたった一週間で連載を持ち、しかもその連載作品がそれなりにヒット、他の漫画雑誌の仕事もするようになり、作品がアニメ化や映画化などの映像化、重版出来を果たしたりとじわじわ売れていき、三十六歳になる現在では有名漫画家と呼ばれるような地位に収まった人物だった。

 こんな凄い漫画家先生のところで働けるのは、幸運で光栄なことだった。

 ここでアシスタントをしているのは、俺を含めて四人。残りの三人は後から出勤してきた。

 まず大体は一番乗りで職場にいる、眼鏡をかけた真面目なアシスタント最年少、蜂須くん。

「あれ? 今日は真鍋さんが一番乗りでしたか?」

 蜂須くんはどこか悔しげにそう言って俺の隣のデスク机につく。そこが彼の席だ。

 次に来たのは、髪の毛を金髪に染めて少し不良じみた格好をしている大谷くん。

 大谷くんは俺と蜂須くんを一瞥したが、何も言わずに俺の向かいに座る。

 私は彼とはどうにも折り合いが悪い。なるべく目が合わないように顔を伏せる。

 最後に来たのは、髪の毛はぼさぼさで如何にも無気力そうな青年、岡永くんだった。

「岡永、今日もだいぶ遅いな」

 そう岡永くんに対して棘のある声を発したのは、大谷くんだった。

 目は原稿の方に向け、手を動かして作業をしながら仏頂面をしている。

「あぁ――なんかすいません」

 岡永くんは眠たそうな半目をして、気の抜けたような返事をした。

「なんかって何だよ。謝るんなら、もっとはっきり謝れよ」

 大谷くんの声には、先程よりも刺々しさが増しているような気がした。

「いや、だから、謝ってんじゃないっすか。すいませんって」

 岡永くんがいらっとしたような表情で、同じく棘のある声で言い返した。

「お二人とも、朝っぱらからそうカリカリしないでくださいよ」

 さすがに喧嘩になりそうだと思ったのか、蜂須くんが仲裁に入った。

 梶木先生はというと、原稿に夢中で気づいていない様子だった。

「まぁまぁ、とりあえず仕事仕事」

 俺が蜂須くんの後に続く形でそう宥めると、一直即発な雰囲気は治まったようだった。

 大谷くんは再び無口になり、岡永くんは俺の席から斜向かいの席について作業を始めた。

 梶木先生のところで働けるのは本当に光栄なのだが、どうも人間関係がぎすぎすしているのが難点だった。主に、ぎすぎすさせている原因は大谷くんだったが。

 俺を除いたアシスタントは、全員俺よりも年下だ。

 俺がここにアシスタントをしに初めて来たときは、俺よりも年上の方ばかりだったのだが、みんな一様にプロの漫画家デビューをしたり、転職したりして消えていった。

 ――丁度、今の俺くらいの年齢の頃に、みんな。

 あぁ、いかんいかん、また余計なことを。今は目の前の仕事だ、仕事。

 俺は原稿のベタ塗りに集中する。仕事に集中していると、時間はあっと言う間に過ぎる。

「もう今日はここらへんでいいかな。締め切りも立て込んでないし」

 梶木先生がそう言えば、その日の仕事は終了だ。

 首を回して伸びをし、少し呻いて時計を見上げると、時刻は午後六時。

 斜陽が窓から、仕事部屋の中をオレンジ色に照らしていた。

 みんなそれぞれに帰り支度をして帰っていく。

 飲みの誘いとか、一緒に飯を食おうとか、そういう話は滅多にない。

 そもそも仕事中も仕事終わりもそんなに会話しない。まぁ口下手の俺には楽な環境だが。

 私も帰り際に、梶木先生に挨拶してから家路につく。

 両耳にはイヤホンをして、ウォークマンから落語を垂れ流しながら帰り道を急ぐ。

 途中でラーメン屋に寄って夕食を済ませた。その後はどこにも寄らずに真っ直ぐ帰った。

 一人暮らしの家に帰ったところで、誰も待ってはいなかったが、やることはあった。

 帰宅して電気を点けたら、すぐに部屋の隅にある勉強机に飛びつく。

 その勉強机の上には、文房具やインク、そして描きかけの漫画原稿が積み重なっている。

 俺は急ぐ気持ちを押さえ、勉強机について漫画の続きを描き始める。

 ――描ける――これは描ける!

 俺は興奮で鼻息を荒くしながら、原稿用紙の上にペンを走らせた。

 アシスタントの仕事から帰ってきてすぐは、いつもこうだ。

 梶木先生の漫画に手を加えているうちに、段々と自分の漫画を描きたい欲求が胸の内側から溢れてくる。あんなことを描きたい、こんなことを描きたい、と無心でベタ塗りをしたりしているときに限ってアイデアが湧いてきて、すぐにでも家に帰って描きたくなる。

 しかし、その興奮状態は長く続かない。

 描き始めてみれば、あれだけあった意欲もなぜだか、どんどん萎んでいく。

 二ページも描き終わらないところで、ペンが止まってしまう。

 ストーリーは思いついているのだ。だが構図が上手く思いつかない。いや、少し前までは確かに思いついていたのに、急に脳がだるくなって思いつくのを拒否したようだった。

 こうなると、創作している快感もなく、ただただ疲れるだけだ。

 俺は勉強机から離れ、万年床の上に胡坐を掻いてぼんやりとテレビを観る。

 デブの芸人がグルメレポートをしている。白々しいリアクション芸だ。

 なんだかつまらないのでテレビも消し、ふと本棚を漁る。

 本棚には九割がた漫画が詰め込まれている。そのうちの一冊を適当に選んでページを捲る。

 他人の描いた漫画を読んでいると、また沸々と創作意欲が湧き上がってくる。

 その漫画を読むのは冒頭部分にまで留め、またすぐに勉強机へと向かう。

 そして再び漫画を描き出すわけだが、初めは良くてもやはり長続きせず。

 今度は一ページも描き終わらないうちに、ペンが進まなくなってしまった。

 ダメだ、調子が出ない、今日はもう寝よう。

 俺は夜の習慣として風呂に入り、排泄し、歯を磨いた。

 そして眠る前の日課としてもう一つ、玄関の横の下駄箱の上の、ガラスケースの中に大切に保管されたサインボール――桜庭選手のあのサインボール――子供の頃からの宝物に、俺は手を合わせる。私にとっては、それは神棚みたいな存在だった。

 ――大丈夫、きっと大丈夫。諦めなければ、諦めさえしなければ。毎日少しずつでも。

 そう念じながら、少なくとも一分間は手を合わせる。

 あの日、あのサインボールを桜庭選手からもらった日、桜庭選手がヒーローインタビューで言っていたことを思い出す。「その夢はきっと叶う」というあの台詞を。

 そうすれば、不思議と不安感が霧散して希望が湧いてくるような気がするのだ。

 手を合わせ終われば、あとは布団に潜って眠るだけ。

 明日こそはもっと描けますように、そう願いながら目を閉じる。

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