サインボール
すごろく
第0話
昔、まだ小学生だった頃、親父にとある大きな球場へ連れていってもらったことがある。
夏の日差しが暑い日だった。球場では野球の大会が行われていた。
俺は野球が好きな親父の影響で、野球が大好きだった。
応援球団は親父と同じで『スーパー巨神』という球団で、どんな試合のときでもその球団を応援し、その球団が勝てば我がことのように喜び、負ければ我がことのように落ち込んだ。
その日のその野球の大会は、その『スーパー巨神』の試合だった。
相手の球団も相当有名なところで、二組とも押しも押されぬ接戦を繰り広げていた。
俺も親父も、大声で『スーパー巨神』を応援し、相手の球団に野次を飛ばした。
九回裏満塁、後攻の『スーパー巨神』のターン。『スーパー巨神』はこの時点で、相手のチームから一点遅れを取っていたが、ここで打てれば逆転勝ちも狙えるという大事な場面。
そこでバッターとして立った選手に、俺は興奮を隠し切れなかった。
それは俺が最も大好きで、最も尊敬している選手だったからだ。
球団『スーパー巨神』のエース、桜庭智孝。それがその選手の名前だった。
桜庭選手は当時の『スーパー巨神』の最年少選手で、高校生のときいた野球部は甲子園優勝を果たし、その優勝へ導いたのは桜庭選手だともっぱら噂され、ドラフト会議でもほとんどの球団が指名し、取り合ったという逸材、それが桜庭智孝選手だった。
そんな選手がこんな大事な場面に出てくるのだから、会場の盛り上がりは最高潮だった。
バッターボックスに立った桜庭選手は、神妙な面持ちでバッドを構えた。
思いっ切りボールを投げる投手。そして――。
カッキーンとバッドとボールがぶつかり合う音が、球場の隅々にまで響いた。
打ったのだ、と気づくのに、数秒ほど時間を要した。
その桜庭選手の打ったボールが、俺の座っている座席の方へと飛んできていることにも。
「危ないっ」誰かが叫んだ。確かに危なかった。このままでは飛んできたボールと俺の頭が、見事に衝突してしまいそうだった。
軽いボールとはいえ、猛スピードで飛んでくれば立派な凶器。頭蓋骨を割り、脳震盪を起こさせるのにはわけないことは、小学生の俺にもわかった。
俺は恐怖で咄嗟に目を瞑り、ボールの飛んでくる方へと空中に手を伸ばした。
掴もうと意識して手を伸ばした覚えはない。ただ単純に、反射的に出しただけだった。
しかし、伸ばした俺の手に、ぱしっと何かが当たる感触があった。俺はそれを掴んだ。
恐る恐る目を開けて掴んだものを見てみてば、それは飛んできたボールだった。
それは紛れもなく、桜庭智孝選手のホームランボールだった。
ホームランで興奮した人々から湧き上がる歓声と熱気の中、俺はそのボールを持って呆然としていた。嬉しいという感情が湧いてきたのは、それから三十秒ほど後だった。
「すげぇじゃねぇか! 良かったな!」
親父はまるで自分の手柄のように喜び、まだ夢見心地の俺の背中を叩いた。
桜庭選手のホームランのおかげで、『スーパー巨神』は勝利し、当然ながらその日のヒーローインタビューは、桜庭選手。桜庭選手はそのインタビューで、こんなことを言った。
「皆さんは私のことを、天性の才能を持った恵まれた人間だと思っている方が多いと思います。しかし、私はこう見えて人並みに努力してきて、その努力のおかげで、今ここに立てていると思っています。だから夢のある人は絶対に諦めないでください。その夢はきっと叶います、きっと。なんて、こんな若造が言っていい台詞じゃなかったですかね」
桜庭選手は少しはにかんだ。会場からどっと笑いが湧いた。
「こんな偉そうなことを言えるのも、単衣に皆様の応援があってのことです。本当にありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします!」
野球帽を取って深々と礼をする桜庭選手に、観客は盛大な拍手を送った。
俺はグラウンドから出ていく桜庭選手を見送ると、観客席を離れ、駐車場まで走った。
咄嗟に思い付きでの行動で、親父には何も言わなかったが、親父は俺を止めなかった。
駐車場には球団の団員が乗るためのバスが停まっていた。
そのバスに、桜庭選手が乗り込もうとしているところだった。
「桜庭選手っ!」俺は大声で桜庭選手の名前を呼んだ。
桜庭選手は立ち止まり、俺の方に振り返った。俺は肩で息をしながら桜庭選手に近づく。
「あ、あの――これ! これを取ったやつなんですけど」
俺は掴んだままにしていたボールを、桜庭選手の前に突き出した。
「あぁ、君が取ったのか。そのホームランボール」
桜庭選手は嬉しそうに表情筋を崩した。
「よ、よければ、その――このボールにサインしてくれませんか!」
半ば断られるだろうと思っていた。しかし、桜庭選手の反応は予想に反したものだった。
「いいとも! そのくらいお安いご用だ!」
桜庭選手はそう笑うと、俺の手からボールを取り、どこに隠し持っていたのかサインペンをポケットから取り出して、そのボールにさらさらとサインと日付を書いてくれた。
「ほら、世界に一つだけのサインボールの出来上がりだ! 大事にしろよ!」
サインをしたそのボールを、桜庭選手は俺に返してくれた。
俺は嬉しさのあまり言葉が出ず、ただ「ありがとうございます!」と繰り返していた。
「それじゃあな。元気でやれよ!」
桜庭選手は最後まで笑顔でそう言い残し、バスに乗り込んでいった。
他の選手もバスに乗り込み、じきにバスは走り出した。
俺はそのバスの車体が見えなくなるまで、ひたすら手を振って見送った。
俺の手の中には、確かに桜庭選手のサインボールが残っていた。
一年間はずっと、そのサインボールで家族や友人たちに自慢したものだ。
今でもそのサインボールは、俺の大切な、唯一無二の宝物である。
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