君の物語
下上筐大
僕の物語
フェルマーの最終定理をご存知だろうか。
かつての天才ピエール•ド•フェルマー、アマチュア数学者として鬱陶しがられた天才が紙に残したたった1つの式。気まぐれのように残された式が後に数百年に渡って天才達を苦しめることになる。
しかし、そんなフェルマーの最終定理にも終わりはくる。フェルマーの最終定理は1人の天才によって証明されたのだ。それが当時どれほど数学界を震撼させたか、想像にあまりがあるが、僕の知らないところで、フェルマーの最終定理にまつわる物語は終わった。
物語—例えば、道ですれ違ったサラリーマン。例えば、スーパーで買い物をする主婦。彼ら彼女らにもそれぞれ特有で固有で唯一の物語があるだろう。もっというと道に生えている植物なんかにも物語はあるのかもしれない。
そして、これは、これから語られるのは僕が語らなければ誰も知ることもない、他の誰でもない僕の僕自身の運命を大きく変えた物語だ。
「君は君が君であることに疲れているんだよ。」
白衣を身にまとい、顔にはたっぷり化粧をぬった女医、
「はあ…」
15歳の少年、
見渡す限り白の天井、白の床、白の棚、白の…ほとんどを白に覆われたその部屋はまさしく病院の一室という感じのする部屋だった。
僕は今診察を受けている。学校の精神チェックみたいなやつで、マークシートに質問の答えを書き込んで行くやつなのだが、それで異常ありという結果が出たのだ。だから、訪れたのは外科でも内科でもなく当然精神科だ。
異常がある…まさかそんな診断をされるなんて思ってもみなかった。いや、本当は自分で自分の異常性を認めたくなかっただけなのかもしれないが。
近所の病院。病院にくることなんて久しぶりだった。
病院—病院と聞いて、抱くイメージは人それぞれだが、僕は病院に関して悪いイメージはない。むしろ良い所だと思っていた。小さい頃風邪なんかをひくと、病院に来て、診察してもらって、薬をもらって、家に帰った後には薬を飲んで寝ていたら体調はだいたい良くなっている。そんな経験も手伝い僕は病院は良いところだと思っていた。だから、今日も初めてくる精神科にも関わらず僕は少しも警戒していなかった。いや、そもそも病院に行くのに警戒している人なんているとは思えないのだが…
「ええと…御山くん。最近感動したこととかある?」
「いや、特にはないです…」
「うんうん。じゃあ次の質問。趣味とかある?」
「ええと…ないです。」
「じゃあ次の質問…」
目の前にいる女医、赤坂佳子は僕に何度も何度も質問をした。その内容は趣味、好きな本、好きな映画などなど多岐に及んだが、僕は全ての質問に
「そんなものはありません」
と答えた。もちろん口調は変えているが。
気づけば、30分も経っていた。30分の間赤坂佳子は質問をし続けた。よくもまあ、そんなに聞くことがあるもんだと感心したのだが、はたして彼女は何をいうのか。僕はある種期待していた。彼女は質問を終えた彼女はしばらく考えてから、いや、考えるふりをしていただけだったのかもしれない。学校の診断を貰った時から何を言うか決めていたのかもしれない。そう思わせるほど、彼女は自信満々に前を見据えて、ひとつ呼吸をおいて、こう言った。
「君は君が君であることに疲れているんだよ。」
「はあ…」
僕は彼女が何を言っているのか理解できなかった。これだけ聞いて何かを察することができる人がいるなら是非ともアドバイスを頂きたい。当然女医も凡人であるところの僕が普通の人間であるところの僕が言葉の意味を理解できるはずがないと踏んで、説明を続ける。
「君は人生に飽きているんだと思うんだけど、どうだろうか。」
「……?」
またよくわからないことを言われた。
「ああ、すまない。説明不足で。私は医者の癖に説明するのが下手くそでね。わかりやすく言うとだね、まあそうだね……まずは君の身近なところから始めようかな。」
「はあ…」
「君は勉強することが好き?」
また質問か…答えるけど。
「嫌いです。」
「だよねえ。私も嫌いだ。じゃあ次…君は今したいことはある?」
「…特にはないですけど」
「それなんだよ。」
指をパチッとならす女医。
「君はあまりにも無関心すぎるんだ。そりゃ皆勉強だって嫌いだし、今したいことなんてないかも知れない。けれど、そんなやつだって何か好きなことの1つはあるんだよ。いや、なければならない。」
そこまで言って女医は1つ息をついてから、言葉を続ける。
「けど、君には好きなことが何もなかった。何1つもだ。君にたくさん質問したが返答は全ていいえだった。NOだった。」
「……」
このとき僕ができたことは黙って聞くことだけだった。聞けば聞くほど、僕を僕という人間を否定されてるだけのように聞こえたが、意外と不快には思わなかった。なぜなら、それは真実であったし、また自分でも認めていることであったからだ。
「そこで、私はこう考えたの。」
女医は続ける。
「君は君が君という人間であり続けるから、何にも興味を持てなくて、何も好きになれない。君は君という人間に疲れている。」
「……」
「それでね、私はこう思うの。」
女医は言葉を区切る。
「君は君という人間をやめればいいって。」
このとき、女医がくれた言葉が、いや、もっというと、今日この時間に病院を訪れて、赤坂佳子という女医に出会えた偶然が僕の僕という人間を変えることになる。偶然。なんとも頼りない言葉だが、薄っぺらい言葉だが、僕はこの出会いに感謝しなければならないのだろう。
「はあ…」
目の前で自慢気な顔で座る女医。いやいや、目の前にはまだ理解が追いついていない少年がいるのですが。その雰囲気に気づいたのだろうか。
「ん?どうした?分からないことがあったのならどんどん質問してくれ。」
女医は言う。
質問したいことが、主に最後らへんにあったので、遠慮なく僕は質問をする。
「えーと、僕が僕という人間であることに疲れてるっていうのはなんとなく分かったんですけど、僕が僕という人間をやめるってどういうことです?」
「おお!君が君という人間であることに疲れているの部分は理解してくれたのか!そこの説明が難しくて私なりに頑張ったのだが…そうか伝わったのか。よかった…」
感動する女医さん。なんとなく理解しただけだけど。だってそれは僕もなんとなく思うところがあったからだ。だってそうだろう?自分が大好きで大好きで仕方がないなんて言えるやつなんてそうそういないのだから。皆どこか自分に呆れているんだから。疲れているんだから。
「そして、質問に答えるとね。要するに心を入れ替えるってことだ。心を入れ替えて生まれ変わる。私はそういう意味で人間をやめるという表現を使ったんだ。」
「はあ…」
心を入れ替える。僕という人間をやめる。言葉にすれば簡単だが、簡単にできることであるわけがない。そこに苦労も伴わない。
「んーと…具体的にはどうすればいいんですか?」
僕は素直に質問をする。
「具体的に…ね。御山くん。私は君にアドバイスをあげることはできても、具体的にあれこれすればいいなんていうことは言ってあげることはできない。」
「しかも君のことなんて、出会ってからまだ1時間も経っていないのに分かる訳がない。」
それはそうだが。だから、僕はどうすれば…
「それはそうですが…でも僕は何をすれば…」
「だから、それは」
それは
「君が見つけるんだよ。」
女医はそう言った。僕を真っ直ぐに見据えて。疑いのない、まっすぐな目で。
「君の物語は君が作るんだよ。」
これが僕を変えた女医との話だ。いやはや彼女はまるで、僕の全てを見抜いたかのように僕に自分を持てなかった僕に言葉をくれた。この言葉を受けて僕は何とも思っていなかったのかも知れないし、深く深く感動していたのかもしれない。それは今となってはわからないことなのだけれど、それでも僕の中の何かを変えたのは間違いない。
僕が語らなければ誰も知ることのなかった話。僕という、地球上大部分の人間に全く関係のない人間を変えた話。そんな話が物語がまだまだこの世の中にはたくさんあることを忘れてはならない。そして、僕は僕だけの物語を誇りをもって語れる物語を作れる唯一の存在であるということを忘れてはならないのだろう。
君の物語 下上筐大 @monogatari
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