第104話 遥かなる旅路の果てに

【前回までのあらすじ】


 西池袋の地を揺るがす妖同士の死闘。それに終止符を打ったのは、我捨の切り札【餓鬼魂・直喰らい】であった。

 阿邪尓那媛が戦場に乱入した事によって生まれた、栲猪の一瞬の隙。我捨はそれを見逃さなかったのだ。


 ひとつの戦いの終わり。しかし、それは新たな戦いの始まりでもあった。東池袋上空の異変……迫りくる黒い太陽に、我捨と樹希は戦慄する。


 しかし……栲猪が敗れる様を目の当たりにした阿邪尓那媛にとって、そんな事はすでにどうでも良い事だったのだ……。

 



◇◇◇



 ――――先程までの激闘が嘘のように、西池袋の街は静まり返っていた。


 薄暗い空の下、いくつもの建物が崩れ落ち、アスファルトの路面には大きなひびが幾重にも走っている。動いているのは、垂れ下がった電線の先で時たま閃く火花と、未だ倒壊の途中にあるビルから降る細かい瓦礫がれきくらいのものだ。


栲猪タクシシ殿……」


 そんな中、ひとりの女が立ち尽くしていた。彼女の前にあるのは、人の身の丈をはるかに越えるほどの大きさの巨大蜘蛛……今や頭部を失い、ぴくりとも動かぬむくろと化したかつての同胞の姿であった。


「私が――――私の所為せいでっ!」


 ……彼が、栲猪が我捨がしゃの一撃を浴びたのは、明らかに彼女を――――阿邪尓那媛アザニナヒメかばっての事だった。でなければ、土蜘蛛最古参の雄将と呼ばれた彼が、このような姿を晒している筈がない。


 彼女が死闘の最中に乱入してこなければ。少なくとも、それがあの・・瞬間でさえなければ……

 栲猪は生きて、彼女の前に立っていたはずだったのだ。


「栲猪殿――――」


 悲嘆と後悔、そしてあまりに大きな喪失感。いったいどうして、こんな事になったのか――――彼の助けになるどころか、逆に死に追いやる結果になろうとは。


 絶望のあまり、砕けそうになる膝を……支える努力を放棄しようとした、その時だ。阿邪尓那媛の視界の隅で、何かが動いた。

 いや、実際には何も動いてはいない。彼女の鋭敏な感覚器官が、ただ動く気配のみを感じたのだ。


 はっとして振り返った彼女は……見た。ひび割れた道路の端に横たわる、老人の上半身を。


「――――!」


 それは、紛れもなく老将・栲猪のもの……巨大蜘蛛の額から生えていた、人間の上半身だった。我捨の一撃で蜘蛛の頭部が消し飛んだ時、運よく消滅を免れていたのだ。


「栲猪殿っ!?」


 阿邪尓那媛は夢中で駆け寄った。妖の中枢といえる場所が無事でさえあれば、まだ助かる望みも――――


 しかしその胴体を抱き上げた時、彼女はそれが儚い希望に過ぎない事を思い知る。下半身はもとより、両の腕さえもすでに無い老人のからだは悲しい程に軽く……かつて満ち溢れていた生気も、霊力も、今や枯れ木のごとく尽き果てているのが……解ったからだ。


「そんな……」


 悲しみに暮れる彼女に応えるかのように、老人のまぶたがぴくり、と揺れる。そしてかさかさにひび割れた唇から……静かに言葉が漏れた。


「――――ふふ、してやられたな……この栲猪も、ついに焼きが回ったか」


「栲猪、殿……」


 ゆっくりと眼を開き、栲猪は自分を助け起こした者の顔を見た――――正確には、目を向けただけだ。彼の眼に、すでに視力は残っていなかったのだから。


「お前の所為では……ない。ただ、あれが……我捨と言った、か? あ奴が一枚、上手だったというだけだ」


 それでも、栲猪はそれが誰なのかを悟っていた。裏切り者として討たれた我が身を案じる者など、もう彼女しか居ないのだから。


「し、しかし――――」


「恨むでは、ないぞ。勝者とは、最後まで立っていた者の事……如何いかなる術策をろうしてでも、勝ちにいく執念が奴にはあった。その一点において……我は確かに及ばなかったのだ」


 奇妙なことに、栲猪の顔には敗北の悔しさや無念といったものは微塵も浮かんではいなかった。安らかに微笑む彼は阿邪尓那媛の記憶のどれよりも穏やかで、静かな暖かさに満ちている。


 それが、この世に何の未練もなく死にゆく者だけが見せる表情だと思い至った時、彼女は叫ばずにはいられなかった。


「どうして……どうしてなのですか!? 貴方程の方が何故、このような無茶な戦いを!」


 事の始まりからずっと、阿邪尓那媛の内にわだかまっていた疑問。そもそも栲猪はなぜ、一族の誰にも告げず出奔しゅっぽんしたのか?

 土蜘蛛八将の座も捨て、自らの命を賭してまで求めたものとは、一体何だったのか?


「私にはわからない! 栲猪殿がこんな所で……裏切り者として死なねばならない理由が!」


「…………」


 長い、沈黙があった。廃墟となった街を包む冷たく渇いた空気は、流れる事すら忘れたかのごとく……二人を包む無音の時間を漂うのみだ。


「――――どうして、なのだろうな」


 栲猪の口から満を持して発せられた言葉は、ため息のように短い一言だった。 


「栲猪殿ッッ!」


 相手が瀕死の老人であろうと、阿邪尓那媛は問い詰めずにはいられない。まさかこのおとこは、全ての謎を抱えたまま墓場へ往くつもりではあるまいか?


「フッ……我自身、一言でそれを語るすべを知らぬのだ……ただ、ただ長く――――戦いばかりを、永く続けていた所為か」


 栲猪の見えぬ眼が、はるか遠くを見つめるように細められる。


「……阿邪尓那よ、お前は人間が憎いか?」


「えっ」


 問いを問いで返され、驚きはしたが……彼女にとっては悩むような問いではない。


「憎い、に決まっています。奴等は私たちの敵なのですから」


「そう言う我等も、かつては人間であったのだぞ?」


「そ、それは……そう伝え聞いてはいますが――――」


 土蜘蛛とは、怨念を抱えた人間が妖へと変化したもの――――その事実は、土蜘蛛一族の間では秘中の秘とされている。これを知るのは、八将とごく僅かな者だけに限られていた。


 阿邪尓那媛がその名を継いだ際、初めて聞かされた一族の真実……最初から妖として生まれてくるのが当たり前の世代である彼女にとって、先祖が人間だなどと言うのは今でも半信半疑の域を出ないのだ。


「今思えば、それこそが過ちの始まりだったのだ。一族の子たち……【土蜘蛛】が妖へとちていなければ、人として生まれてきたやも知れぬ者たちに、我等は憎しみを強いた。戦うすべだけを教え、人の敵となる道を強いたのだ……」


 深い苦悩と悔恨が、老武人の顔に影を落とす。


「しかし一族に生まれたからには、一族の為に戦うのは当たり前ではありませんか!」


「怒りも憎しみも、虐げられた屈辱も……全ては我等の代で終わらせるべきだったのだ。だが、出来なかった……戦いは長引き、妖狩りを生業なりわいとする術者たちによって我等は追い詰められていた。一族が生き延びる為には、子供であろうと戦場に送る他になかった――――」


 ……阿邪尓那媛は絶句した。栲猪の眼に、涙が浮かんでいた――――今まで、少なくとも彼女が知る限り、誰にも涙を見せた事のない老将の眼に。


「仕方がない、やむを得ないから始まった事が……いつしか当たり前になっていた。我等がかつて人間であった事実も、人間を敵とするにあたって都合が悪いと隠されるようになった……」


 不意に、栲猪がき込んだ。その弾みで残った身体の節々に亀裂が入り、細かい砂粒とも灰ともつかない欠片がぱらぱらとこぼれ落ちる。

 ……すでに、限界なのだ。いくら妖といえど、身体のほとんどを失って生きていられる筈もない。


「我等の怒りと憎しみが……このあまりに長い戦いを生んだ。【土蜘蛛】という妖の、血塗られた歴史を作ったのだ。気が付いた時には、もう手遅れだった……我等の背中には、散っていった多くの同胞の想いが、無念が積み重なっていた。立ち止まる事など、すでに叶わなかった……」


 「栲猪殿……」


 老将の死に際の懺悔を、阿邪尓那媛はただ聞き続ける事しかできない。千年にも及ぶ、果てしなき苦悩――――それは彼女の理解の範疇をとうに超えていたが……それでも、一言一句として聞き逃す事は許されない。


「それでもなお、我等が戦い続けたのは……勝利が、いつか訪れる勝利こそが……全ての犠牲に報いる唯一のすべだと信じていたからだ。だが……その望みもついえた。先の大夜行……東西の妖大将が共に立ったあのいくさこそが、我等が勝ちうる最後の機会だったというのに――――!」


 激しく咳き込む栲猪。もはや、彼に残された時間は僅かであった。


「……阿邪尓那よ、よく聞け。この百年かそこらの間に、人間たちの力はあまりにも大きくなり過ぎた。そして先の大夜行以来、我等妖の勢力は衰退するばかり。このまま戦いを続ければ、遠からず我等は滅ぶ。一匹残らず狩り出され、文字通りこの世界から消え去るのだ。かつての竜種が、そうであったように……」


「そんな……いえ、例えそうだとしても、私は最後まで――――」


 戦い抜く――――と、彼女は言い切れなかった。栲猪の灰色の瞳が、優しく諭すような視線が……その答えを拒んでいるように思えたのだ。


「戦いとは、生きる為……そして、生かす為に行ってこそ、価値があるものだ。憎悪に駆り立てられ、闇雲に犠牲を積み重ねた我等と同じてつを、お前たちは踏んではならぬ」


 死にかけた老人とは思えぬほど、漢は力強く語る。しかし同時に、それはロウソクが燃え尽きる前の最後の輝きを想起させるものだった。


「今ならば、まだ間に合う……人間に勝つまでは至らずとも、妖にはまだ力が残っている。我等の居城に蓄えられ続けてきた呪具宝具だ。あれを正しく用いれば、僅かな手勢でも事を成すのに充分である事は……我が身をもって示した通り!」


 ほんの数時間で、無惨に荒れ果てた池袋の街――――この惨状が、実質栲猪と富向フウコウ入道二人で招いたものである事を考えれば……用いられた呪具宝具の役割の大きさは言うまでもない。


「この力を使って……見つけるのだ。妖が生きる新たなる道を。お前たち若き者が……戦う以外の道を見出せなかった、我等に代わって――――!」


「栲猪殿っ!」


 漢の身体が、崩れていく。阿邪尓那媛の腕の中から、灰色の砂粒と化してこぼれ落ちていく。


「貴方の深い志、よく分かりました! しかし、ならばこそ……ならばこそ貴方は死ぬべきでない! 新たな道へと私たちを導いて行けるのは、貴方をおいて他には居ないではありませんか!」


 そう。彼が最初からそれを話していれば、阿邪尓那媛だけではない。多くの妖が彼の元に集ったことであろう。土蜘蛛の重鎮たる栲猪が号令を掛けたなら、それこそみずちや妖大将さえも無視できない一大勢力と成り得たかもしれないのだ。


「だから……いかん、のだ……」


「え……?」


 柔らかく微笑みながら、しかし栲猪は首を振った。


「阿邪尓那よ……我は、人間が憎い。幾多の同胞を……手塩に掛けて育てた子供たちを奪った奴等を許す事は出来ぬ。この魂に染み付いた憎しみが、その血を求めて止まぬのだ。故に、我はお前たちと共には……行けぬ」


「――――っ!」


 彼は誰よりも、一族の行く末を案じていた。しかし、そんな彼が見い出した未来には……皮肉にも、彼自身の居場所は無かったのだ。


「妖とは、変化を嫌う生き物だ。歳を経る程に、変わる事を恐れる……その変化に己の魂が耐えられぬのが、解ってしまうからだ。新たな道を行くお前たちにとって、最大の壁となるのは人間ではなく、そうした古き妖達となるだろう。この我のように……ぐはっ!」


「た、栲猪殿っ……!」


 目の前で消え逝く命に対して、阿邪尓那媛は無力であった。自分がもっと強ければ、賢ければ……こんな結末は避けられていたかもしれない。

 ――――たとえこの最期が、栲猪自身が望んだものであったとしても。


「いいか阿邪尓那よ、妖大将には気を付けよ! あ奴は妖でありながら、妖以外のことわりで動いている。我等とは違う何かを見ておるのだ――――何か、計り知れない何かを。奴はその為ならば、我等の命など……ぐっ、げふっ!」


「……栲猪殿! わかりました! 全て私が――――この阿邪尓那媛がうけたまわりました! ですから、もう……」


 腕の中で砕けていく恩師の身体を、どうしようもなく抱きしめる。こらえていた涙が溢れ、そのひび割れた頬に落ちた。


 ――――それが、栲猪がその生の最後に感じた温もりであった。


「長い、旅だった……随分と、遠回りをして……しまった、が――――」


 その最期の言葉を、阿邪尓那媛は聞き取る事ができなかった。背後で鳴り響く巨大蜘蛛の崩壊音が、彼のかすかな吐息をかき消していたのだ。


 しかし、彼女は見た……崩れ去る唇が最後に形作っていたものを。



 ――――今、帰ったぞ。


 老将栲猪の発した最期の言葉、それが誰に向けてのものだったのか。阿邪尓那媛に、もはやそれを知るすべは無かった――――。

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