第86話 アライメント・シフト

【前回までのあらすじ】


 新たな局面を迎えた池袋の街。妖対策分室長・月代蒼衣は愛音たちのグループと合流し、回復した通信連絡網を駆使して術者たちの指揮にあたっていた。

 ビルに残る人々の救助が続く中、目下彼女の心配事は未だ連絡の取れない灯夜と、指示を無視して暴走を続ける不知火ミイナの行方。


 しかし灰戸一葉によってもたらされた情報は、その両者と謎の妖がビルの屋上で相対しているという意外なものだった。

 暗雲広がる空の下、戦闘を再開するミイナ。彼女のまとう黒い炎を目にした蒼衣は戦慄を隠せない。


 アライメント・シフト。蒼衣が思わず口にしたこの言葉には、一体いかなる謎が秘められているのだろうか――――?



◇◇◇



 ――――その事件が起きたのは、灯夜が天海神楽学園を訪れるおよそ半年ほど前。


「一体、何があったって言うの…………これは!」


 学園内、四方院別邸の地下に建設された警視庁特殊事案対策室第一分室……それは高層ビルのワンフロア分を優に超える規模の地下空間に設置された、あやかし対策の拠点。

 霞ヶ関の対策室本部が対外折衝を主にしているのに対し、こちらは凶悪事件に対応する為の実働部隊とその指揮を行う作戦室を有している。


 月代蒼衣が見たのは、鉄壁の防御を誇る学園の結界の中にあって絶対安全なはずのその一角が……まるで大地震の後のようにボロボロに崩壊している光景だった。


「幸い死者、重症者はおらず……施設の被害も【第一モニター室】だけで抑えられました。まあ、ギリギリといった所ですが――――」


 頭に包帯を巻いた倉橋から報告を受け、蒼衣は分室を離れていた事を後悔した。想定外の事態とは言え、自分の留守にこんな事が起きては何とも居心地が悪い。


「万が一を考えて第一を使ったのが、結果的に正解でしたね。第二では耐えられずに施設自体が使い物にならなくなっていたでしょう」


 第一と第二のモニター室は設備仕様においては同等だが、第一は術者の戦闘訓練を行う事も考慮して第二の倍、縦横二十メートル高さ十メートルに及ぶ広さを持っていた。

 内壁には対弾、対爆に加え対魔法術式が施され、理論値では戦術核の爆発にも耐えうる構造だったはず。


 それがここまで破壊されるとは……あの四方院樹希でさえ、この設備を損壊できるような術は持っていないというのにだ。


「……ただの能力測定で、どうしてこんな状況になるのよ!?」


 その日、モニター室で予定されていたのは新しく分室所属になった術者――――不知火ミイナの霊的能力測定である。霊装術者である彼女が、実際のところどれだけの能力を持っているのか。

 それを見極め、今後の判断材料にする為にはどうしても必要なステップであった。


 本来ならば現場の指揮官である蒼衣もそこに同席するはずだったのだが、折りしも起こった妖絡みの案件の対応に駆り出され、現地で撤収準備を始めた頃にようやくこの事件を知ったのである。


「録画が残っていれば分かり易いのですが、モニター室の機材はご覧の通り全滅。事の次第を説明できるのは私を含めた数人だけです」


「ちょっと待って。モニター室の録画ならメインのサーバーと同期してるはずよね? そっちのデータが残ってるんじゃないの?」


「ええ。ですから、そっちの録画は私が責任をもって消去・・しました」


 言いながら眼鏡をちゃきっ、と直す倉橋の表情を見て……蒼衣は事態の深刻さを理解した。記録に残すことさえ危険な何事かが、ここで起こったのだ。


「測定の準備は予定通り、例の彼女も時間にはここに来ていました……イレギュラーが起きたのは開始の直前です」


 ミイナが霊装を完了し、測定が開始される段階になって……第一モニター室の倉橋はその一報を受けた。対策室本部の警視が、急遽きゅうきょこの測定を視察したいと言うのだ。


「警視って茅ヶ崎よね!? あの陰湿クレーマーがまた何の用だってのよ!」


 不意に脳裏に浮かんだ憎たらしい中年男の顔に、蒼衣は眉をひそめる。茅ヶ崎徹郎ちがさきてつろうは本庁から出向している警視であり、対策室本部では実質ナンバー2の階級を持つ男だ。


 彼自身はそれまで妖とは全く無縁の人物であり、事あるごとにこの人事への不満を漏らしていた。いわく体のいい左遷させんだとか、彼の出世を妬む者の陰謀だとか……

 妖や術者に対する理解も全く足りておらず、名目上は対策室と本庁のパイプ役であるが、実際には捜査の足を引っ張るだけのお荷物。室長が留守がちなのを良い事に、無駄に高い地位を濫用して的外れな指示を出す混乱の種なのだ。


 そんな男がなぜこのタイミングで視察などと言い出したのか? 蒼衣には嫌がらせ以外の理由が思いつかなかった。


「それで、仕方なくリモートの回線を繋いだのですが……例によってあの人は画面に映るものにいちいち文句をつけ始めて」


「あー、いつものアレね。彼は視界に入ったモノに何かしらツッコミを入れないと死ぬ病気なのよ。適当に聞き流しておけばいいわ」


 天海神楽学園は男子禁制。よって視察も遠隔地からモニター越しに行うしかない。茅ヶ崎はこの決まりにも不満たらたらで、警察組織の扱いが軽いとか何が伝統と格式だなどと散々ぼやいていたのだ。


「当然、私達はそのつもりでしたよ。けれど……」


 呆れたように肩をすくめ、ため息をつく倉橋。


彼女・・はそうもいかなかったみたいでして」


「あー、なるほど……」


 聞けば茅ヶ崎は画面に映し出されたミイナのコスチュームがふざけていると文句を付け、挙句それが真面目だと言うなら相応の実力を見せてみろと挑発したのだと言う。 


「最初は黙って聞いていたんですけど、彼女……『なら、見せてやる。後で後悔するなよ?』って」


 ――――測定開始から数分後、第一モニター室は荒れ狂う業火によって埋め尽くされていた。各種計測機器の数値はいずれも限界値付近を示し、それはミイナが現役の術者と比較しても高い能力を持っている事を証明していた。

 にもかかわらず、茅ヶ崎はやれ画面が見づらいだの現場では迷惑な能力だのと文句を言い続け……そして極めつけに、酷く余計な一言を吐いたのだ。


「『戸籍すら定かでないホームレスの子供ガキをわざわざ使うなど、くだらないボランティアの真似事か』と。その直後です……」


 何の前触れもなく、全ての計測機器の針が振り切れた。同時に施設全体に異常な振動が走り、非常事態を告げるサイレンがけたたましく鳴り響く。


「緊急時のマニュアルに従い防護シャッターを降ろしましたが、続いて起こった爆発の衝撃がシャッター越しに観測所を襲い……私のケガもその時のものです。モニター室の設備はほぼ全損。修復するにはここの数年分の予算が必要になるでしょうね」


「ちょ、待ってよ倉橋ちゃん……結局ミイナは何をやったの? ここの計測機器の針を振り切ったって……それって“人間が扱える霊力値の限界”を超えたって事よ?」


 超常の力を操る術者と言えども、その扱える力には限度がある。人間の身体能力に限界があるように、人が扱える霊力にも明確な限界値が存在しているのだ。

 かつてはその限界を超えて力を使おうとした者も居たが、彼らは例外なく反動で再起不能に陥ったという。


 それは妖と一心同体となった霊装術者であっても例外ではない。“人間が扱える霊力値の限界”とはすなわち、“人が踏み越えてはならない一線”という意味でもあるのだ。


「そんな事が出来るのは本物の大妖怪か、あるいは神か悪魔かって話になるわ……少なくとも、人間には無理よ」


 倉橋の話では死者、重症者の類いは出ていないとの事。そこにミイナが含まれていない以上、彼女が命がけの自爆を敢行したという訳ではないのだろう。

 ならば、ミイナは一体どうやってそんな芸当を成し遂げたのか?


「……ここからの話は、他言無用でお願いします。月代巡査なら、事の重大さは理解されているでしょうが」


「ええ。この状況で起こりうる“例外”は二種類しかない。ひとつはミイナが自分の身体を明け渡し、契約妖怪イフリートによる憑依状態と化した可能性だけど……」


 妖が身体の主導権を握った憑依状態においては、人間側のダメージを無視して力を使うことも可能だ。イフリートのように格の高い妖なら、モニター室を破壊する程の瞬発力を発揮できてもおかしくはない。


「けれど、あの子に限ってこれはあり得ないわね。誰かに従うことを極端に嫌うミイナが、自分自身を明け渡すとは思えないもの」


「シャッターが降りる寸前に、私は見ました。吹き荒れる炎が……漆黒に染まるその瞬間を」


 傷がうずいたか、頭の包帯を押さえる倉橋。彼女が見たものは、とりもなおさずもうひとつの“例外”の発生を意味するものだった。


「なら、起きたのは憑依の“逆”――――人間側の支配が強くなり過ぎ、妖側の本質をねじ曲げた極限状態!」


「西側が彼女をあっさり手放したのも、今なら合点がいきます。“闇”方向へのALアライメントシフト持ちなんて、腹の中に爆弾を抱え込むような物ですからね……!」



 ――――アライメント・シフト。それは霊装時の人と妖のバランスが崩れることに端を発する、ごく限られた状況でのみ起こる異常事態。

 人が人ならざる者へと変貌する、悪夢のごとき奇跡を意味した名称コードなのであった…………!

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