第71話 阿邪尓那媛の苦悩

【前回までのあらすじ】


 池袋を混乱の渦に陥れた裏切りの妖・栲猪と、四方院樹希の戦いが始まった。ビル街を己の庭のように駆け巡る栲猪の戦法に、樹希は苦戦を強いられる。


 二人の激突の最中、阿邪尓那媛は使命に従い栲猪を討つか、同族として彼に加勢するかの狭間で苦悩していた。

 それを見たもう一人の刺客、我捨は煮え切らない態度の彼女を問い詰めるのだったが…………!?



◇◇◇



 ――――奇妙な沈黙が、場を支配していた。白昼の大都会、西池袋のビル街がここまで静まり返った事が、かつてあったであろうか。

 駅周辺地域に出された避難指示により、一帯からは人の生み出す喧騒が完全に消え去っている。


 ふたりの人物が対峙していたのは、ある平均的な高さのビルの屋上でのことだ。めったに人が立ち入らないであろう殺風景なコンクリートの庭。そこで向かい合う……男と女。


「お前は、どうするつもりなのだ……【がしゃ髑髏どくろ】の我捨がしゃよ」


 先に口を開いたのは、女の方。美女と称されて然るべき、長く艶やかな黒髪と整った顔立ち……しかし、重苦しく沈んだ表情からつむぎ出された言葉は冷たく、平坦で彩りのかけらも含まれてはいない。


「……どうするもこうするもねェよ。俺はみずちの旦那の命に従う。そう決めているんでな」 


 押し殺したように低い声で、男が応じる。焦げ目のある黒革のボトムスに、サラシを巻いただけのラフすぎる格好。体の節々ふしぶしの煤汚れは、まるで今しがた火事場から這い出て来たかのようだ。


 ――――やれやれ。まさかとは思ったが、これは旦那のカンが当たっちまったか?


 我捨の脳裏に、蛟から裏切り者討伐の命を受けた際の経緯いきさつがよみがえる。最初、討伐は土蜘蛛一族のみで行われる筈であった。身内から裏切り者を出した事を恥じ、今一度妖大将への忠誠を証明したい……そう願い出た土蜘蛛の将たちに、しかし蛟は難色を示したのだ。


「裏切り者たちは人間の街に潜んでいると思われる。ならば、その地に明るい者が刺客を務めるべきであろう」と。


 結局、討伐に向かうのは蛟の配下の我捨と土蜘蛛一族の代表一人という事になった。土蜘蛛側の事情を半分はんだ形に見えるが、実の所、蛟の狙いは別にあった。


「……俺に、相方を見張れって言うのかい!?」


「そうだ。栲猪タクシシは土蜘蛛きっての古強者。それ故、奴を慕う者もまた多い。討伐を一族だけに任せれば、更なる離反者を生む恐れもあるのでな……お前をねじ込んだのは、それを抑える為の一手という訳だ」


 土蜘蛛一族は、東の妖大将の配下の中でも最大の一派である。それがこの裏切りを機に割れるような事があれば、大将の留守を預かる蛟はその責任を問われるだろう。


「そして、刺客に選ばれた蜘蛛……恐らくは七将の誰かであろうが、その者が万が一にも寝返る素振りを見せたなら……」


「そいつを殺れ、ってワケか。確かに、俺にしか出来ねェ仕事だな」


 元より、我捨はこうした汚れ仕事には慣れている。並みの妖を超える力だけでなく、西からの流れ者故に東の妖たちとの間にしがらみが無い事から、彼にはこの手の仕事が多く舞い込むのだ。


 ……そして、今に至る。彼が見るに、阿邪尓那媛アザニナヒメは今微妙な状態にあると言えた。積極的に裏切るまでには至っていないが、味方として背中を預けるのは少々危うい。

 彼女自身が、自分の意志を見失っているフシがあるのだ。戦力としては当てにしたい所だったが、無理に戦わせるのはむしろ逆効果だろう。


「お前の方こそ、どうしてェんだ阿邪尓那媛。俺たちの仕事は裏切り者の始末。その為なら、俺は何だってやるぜ?」


 我捨の視線の先には、今もビルの谷間で死闘を続けるふたつの影があった。片方は裏切りの妖・栲猪であり、もう片方は人間の術者――――彼自身がその手強さを知る四方院の巫女だ。


「まさか、あの四方院の味方でもするつもりではあるまいな? 人間の術者はこちらの事情など知らぬ。諸共にほふられるのが落ちであろうに」


「それが案外、そうでもねェのさ」


 答えつつ、薄い唇の端を吊り上げる我捨。ここに来た人間の術者が、あの四方院だった……彼にとって、それは不幸中の幸い。


「ここだけの話だが、さっき電車でけられた後に四方院の奴と少~しお話ししてな。裏切り者共の情報と引き換えに、休戦協定を結んでおいた」


「何……だと!?」


 阿邪尓那媛の目が驚愕に見開かれる。彼女にしてみれば人間との交渉など論外の選択。ましてやそれが上手くいったなどとは……にわかには信じられない。


「少なくとも今回の件が一段落するまで、アイツは敵じゃない。そもそも術者の相手なんざギャラの内に入ってねェんだ。無駄に仕事を増やすなんて馬鹿のやる事だぜ」


 我捨にとっては、受けた任務の達成こそが最優先すべきこと。その為なら手段を選ばないのが彼の流儀である。

 しかし同時に……阿邪尓那媛が人間との共闘を受け入れないだろう事もまた、想定の範囲内だった。


「我捨! 人間と取引するなど……貴様には妖の誇りは無いのかっ!」


「あいにくと、俺はそんな大層なモノは持ち合わせてねェんだ。気に食わねえってんなら、アンタはここで見てればいい。覚悟の足らねェ奴は……足手まといだ」


 そう言って、くるりと背を向ける我捨。屋上の端まで進むと、びの浮いた柵に足を掛ける。


「ま、待て――――」


 阿邪尓那媛の制止に耳も貸さず、我捨は宙に躍り出た。そしてビルの屋根伝いに、戦場へとまっすぐ駆けていく。

 その姿はあっという間に小さくなり、程なくして彼女の視界から消えた。


 追わなければと思いつつも、阿邪尓那媛の足は動かない。それどころか不意に力が抜け、彼女はその場にがくりと膝をついた。

 追いかけて、どうする……我捨と共に栲猪と戦うのか? それとも――――


「何故だ……何故、こうも心が揺らぐ? 栲猪を討つ、その覚悟はして来た筈なのに!」


 彼女が栲猪の討伐に志願したのは、あわよくば彼を救う為ではあったが……当然、最悪の結末を予想しなかった訳ではない。

 その時は自身の手で、決着を着ける――――実際栲猪と相対するまで、彼女はそうするつもりであったのだ。


「……糞っ!」


 吐き捨てると共に、床に拳を叩きつける。二度、三度……冷たいコンクリートに打ち付けられた白く繊細な指から血が滴り落ちるも、その痛みは彼女の欲する域に届きはしなかった――――。





「追っては……来ねェか。それでいい。土壇場で寝返られるよりは、ずっとな」


 本来の我捨ならば、ここまで阿邪尓那媛を気にする事はなかっただろう。誰であろうと立ち塞がる者は殺す。彼はそういうスタンスを通した上で生き延びてきたのだから。


 だが、今回ばかりは勝手が違う。これから相手にする栲猪は、背中を気にしながら戦うには危険すぎる相手なのだ。

 ちらっと見ただけだが、あの四方院を半ば圧倒するような戦いぶりは脅威と言う他ない。


「あのまま続けりゃ、流石の四方院でも勝ち目は薄い。今の俺でも、サシでったら厳しいだろうぜ……」


 阿邪尓那媛の前では平静を装っていたが、我捨の身体にはここに来る前の戦闘で受けたダメージが色濃く残っている。この状態では全力の七、八割も出せればマシな方だ。


「だが、やるしかねえ。冨向フウコウの野郎が障壁の中に引き篭もってやがる以上、栲猪だけでも倒さねえと面子メンツが立たねえからな」


 四方院の娘と二人掛かりで、勝算はようやく五分を超えるといった所だろうか。それも互いに足を引っ張り合わない事が前提でだ。


「さぁて、とりあえずは奇襲といくか。これで決まれば、苦労はねェんだが……」


 気配を消し、ビルの隙間を走る我捨。厳しい状況とは裏腹に、その顔には知らず知らずのうちに不敵な笑みが浮かび上がっていた。



 様々な思惑を孕みつつ、混迷を深める戦場。妖たちの戦いは、ここに佳境を迎えようとしていたのである…………。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る