第42話 策謀の巨塔
妖大将に反逆し、池袋の某六十階建て高層ビルに潜伏した富向入道たち……裏切りの妖。
渋谷で行った召喚術によって呼び出した異界の妖、“姫君”の奔放なふるまいに悩まされながらも、彼らは更なる儀式の準備を進めていた。
追手の気配を察知した栲猪は迎撃に向かい、同じ土蜘蛛一族の刺客である阿邪尓那媛と対峙する。
彼が仕掛けた召門石によって池袋の街が大混乱に陥る中、富向と“姫君”が潜むビルにもまた危機が迫っていた――――。
◇◇◇
――――時はわずかに戻り、それは灯夜たちが丁度展望台に降り立った頃。
「……おのれ、やはり日の光の下というのは落ち着かぬわ」
雲ひとつ無い青空から、容赦なく降り注ぐ初夏の陽射し。それに加えて時折吹く高所ゆえの強風にさらされて、袈裟をまとった禿頭の男……
ここは彼らが潜伏場所に選んだ、
そのほぼ中央に、丁度人の背丈ほどの大きな塊が置かれていた。被せられたブルーシートによって詳細は分からないが、その内部から漏れ出す鼓動めいた気配は……秘められた力の大きさと、
「大分膨らんでおるが、まだ半ばといったところか。この調子では溜まり切るのは真夜中……ええい、追手がもうすぐそこまで来ておると言うのに!」
富向の最終目的――――彼をして、
「まだ、見られる訳にはゆかぬ。知られる訳にはゆかぬ。この儀式の事は、最後の最後まで隠し通さねばならぬのだ……そう、あの小娘には特にな」
ブルーシートの前で富向が印を切ると、脈動する塊の姿は次第に薄れ……やがて完全に見えなくなった。発せられる気配も大半は消え去ったが、依然としてそこに何かが存在しているのは間違いない。
「その場凌ぎの目くらましだが、無いよりは良かろうて。建物の中で迎え討つよりはマシとは言え、儂がこのような危険を冒さねばならぬとはな……」
富向が追手の侵入に気付いたのは、つい先刻のこと。ビルの要所に張り巡らせた結界のひとつが、建物内に彼ら以外の妖の存在を捉えたのだ。
……妖大将は裏切り者を決して許さない。となれば、彼らに向け放たれた刺客も一人という事はないだろう。この場所を突き止めたのは、
「いや、問題などない。
「ヘっ、ずいぶんと自信家なんだな……まあ、そうでなきゃあー裏切るとか、普通考えねーもんなァ?」
不意に背後から響く若い男の声に、富向は思わず身を固くした。
「き、来おったか……妖大将の犬めが!」
階下へ通じる出口から現れたのは、両手をスカジャンのポケットに入れた瘦せぎすの男だ。乱れた白髪に
実際に会うのは初めてだったが、冨向はその男の名を知っていた。
「【がしゃ
内心の不安を悟られまいと、僧形の男は吠える。だが、当の我捨はそんな冨向の顔を一目見て……遠くからでも聞こえるように大きく溜息をついた。
「何だよ、栲猪じゃねーのか……
土蜘蛛一族の中でも屈指の強者である栲猪と比べれば、冨向入道は遥かに小物。妖単体の戦力という面では、最早比較するまでも無い。
人間への憑依を果たし、上位の妖に匹敵する力を持つ我捨にとっては、戦いにすらならないレベルの退屈な相手である。外れと言いたくなるのも無理はないだろう。
「チッ、まあいいさ。だったらさっさと片付けて次に行くまでの話よ……おいオマエ、今すぐ盗んだ呪具とやらを渡せ。素直に渡すなら、苦しまねェように殺してやるぜ?」
ニヤニヤと笑いつつも、その
……抹殺以外の選択肢など、最初からありはしないのだ。
「どうだい、俺は慈悲深いだろう?」
「ぐく、
冨向の額から、脂汗がだらりと滴り落ちる。彼は自分がこのような状況に陥る事を事前に予期し、それへの対策もすべて織り込み済みではあったが……実際に身をもって味わう死線の恐怖は想像以上のものだった。
そう。冨向の前に立つこの死神めいた妖は、
「少し見ねェ間に、下も盛り上がってるみてえじゃねーか。人間の術者共が出張って来る前に、こっちも早いとこ仕事を済ませたいんだよなァ~」
余裕の表情の我捨、その何気ない一言に冨向ははっとした。池袋の街は今、空前の騒乱の只中にある。栲猪が召門石で開けた【門】から大量の妖が溢れ出し、我が物顔で暴れ回っているのだ。
――――栲猪がもたらしたこの騒動に、これから使う儂の術。その二つを
「……新参者の若造が、
「おいおい、命乞いならもう少しマシな言い方があるだろ……まあどの道、オマエはここで殺すけどなァー!」
ポケットに両手を入れたまま、我捨が無造作に間合いを詰める。冨向が何をして来ようと、その身ひとつで完封する自信があるのだ。
……しかし。
「お主は何も解っておらぬ。これで儂を……妖術師冨向入道を追い詰めたつもりか!」
叫ぶと同時に、富向が素早く印を結ぶ。だが、その動きは当然我捨の想定内。
「悪いが、
印が完成するまでの、ほんの一瞬。痩身の男の脇腹から伸びた鋭い骨針が、音もなく冨向の胸板を貫いていた。
「……くく、掛かりおったな!」
「何ッ!」
我捨は目を疑った。確かに敵を捉えた筈の骨針には、何の手応えも伝わって来ない。そう、まるで霧か霞を突いたがごとく……
「
高らかな
「――――幻術かッ!」
「気付くのが遅いわ!」
突如として、屋上全体が鳴動する。幾条もの閃光が床を縦横に走り、ビルの中心を軸とした魔法陣を描き出す!
「ちィ!」
我捨が骨針を放つ。無数の鋭利な針が魔法陣上の冨向に殺到するが、それらは全て寸前で見えない壁に当たったように弾かれた。
「そして、お主を
富向を守った不可視の壁……半球状のそれは瞬く間に広がり、屋上全体を覆いつくしていく。逃れようにも、ここは地上六十階の天辺。流石の我捨とて避けるすべは無い。
「如何に憑依を果たした妖とて……この高さから落ちれば無事では済むまい!」
「まずい……ぐぁッ!!」
我捨が壁に弾かれ、屋上から放り出されるのを確認すると……冨向は大きく息を吐いた。敵の慢心に救われた形だが、彼自身はそうは思っていない。
「ふ、ふはは! 万一生き延びたとしても、あ奴はもうこの塔には入ってこれぬ。唯一の道には既に“門番”を置いておるしな……」
――――すべてが、計算通りに運んでいる。こうして危機を脱せたのも、自らの知略のなせる業だ。冨向は、己の成功を微塵も疑っていなかった。
「この儂、冨向入道には長きに渡り磨き抜いた術と……深遠なる知略がある! 満を持して動いたからには、失敗など最早有り得ぬのだ!」
……難敵を退けた自信が慢心を招いた事に、冨向は気付いていない。ビルから叩き落した筈の我捨に、すぐまた足を
このときの彼には、到底思い至らぬ未来だったのである。
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