第36話 蜃気楼の乙女

【前回までのあらすじ】


 渋谷の街で大規模な召喚術を行った妖を追い、奔走する天御神楽学園の術者たち。

 集団行動を嫌う不知火ミイナは、自らの勘だけを頼りに妖の手掛かりを追う。


 逃走する人狼・犬吠埼昇を追撃するミイナ。高架橋上で渋滞した高速道路において彼を追い詰めるも、犬吠埼は車ごと彼女を高架の下へ突き落とそうとする。

 落下する車から間一髪で逃れたミイナと、逃走手段を失った犬吠埼。再び対峙した二人の死闘が幕を開ける――――!



◇◇◇



「――――うおおおッ!」


 獣の如き、それは咆哮ほうこう。鋭い爪を備えた毛むくじゃらの巨腕が振るわれる度、切り裂かれた空気がごうと唸る。

 身長二メートルを超える、直立した巨大な狼……その巨躯から放たれる一撃一撃は、どれも人が受ければ致命傷となりうる強烈なものだ。


「フッ、どうした……威勢がいいのは口だけか?」


 しかし……当たらない。獣化した犬吠埼いぬぼうざきの攻撃は、戦闘開始から数分を経た現在に至るまで、不知火しらぬいミイナにかすりもしていなかった。


「クソがあ――――!」


 力任せに振り下ろされた拳がアスファルトの路面をえぐる。人狼の本性を現した犬吠埼の身体能力は、人間のそれとはもはや比較にならない。腕力だけでなく、スピードも然りだ。

 相手が人間である限り、無手での格闘で遅れを取る筈はないというのに。


「遅い!」


 背後から響く声。振り返ろうとした狼のあごに、炎をまとった拳が突き刺さる。衝撃と灼熱に焼かれ、後ずさる犬吠埼。


――――何故だ、何故当たらない!? 当たりさえすれば、こんな奴一発でお終いの筈なのに!


 彼の敵は、どう見てもまだ十代の少女だ。右手に炎を宿らせている以外、何の変哲もない少女。それが獣化した彼の反応速度を平然と超えてくるのだ。


「……何故当たらない、とでも言いたそうだな?」


 そんな犬吠埼を見透かしたかのような、ミイナの言葉。数分間にも及ぶ獣人の猛攻を無傷で凌ぎながら、いまだ息の上がった様子もない。


「そして、こうも思っている。自分の攻撃が一発でも当たれば、こいつはお終いのハズなのに……と」


 犬吠埼は戦慄した。こいつは、俺の心を読んでいるのか!? こちらの攻撃をかわすだけでなく、正確に反撃まで加えながら……更に怪しい術を使う余裕があると?


 ……術者は、あやかしの天敵。かつて我捨が語っていた話を、犬吠埼は話半分程度にしか聞いていなかった。術者という言葉のイメージから、着物姿の陰陽師やエクソシストの神父のようなものを想像していたからだ。


 要は、術を使われる前に倒してしまえばいい。ひ弱なまじない師など、獣人である自分の敵ではないと。


 だが、目の前にいる少女は……その自慢の身体能力を持ってしても捉えきれない程の怪物だった。自分が獣の姿と化して手に入れた力を、ほぼ素のままで超えてくる人間。

 しかも、それさえもまだ全力ではない。強靭な肉体と生命力を持つ犬吠埼が肩で息をしているというのに、この少女は疲れる気配すらも見せていないのだから。


 それはもはや、妖以上に化け物じみた存在。天敵というのも納得である。


「こいつは、もう腹をくくるしかねえな。イチかバチか、分は最悪に悪いが……」


 逃走の試みは失敗し、助けが来る当ても無い。そして、このままでは勝ち目も薄いとなれば。


「おおお――――――――ッ!!」


 一際激しい咆哮と共に、犬吠埼の身体が更にひと回り大きく膨れ上がった。めきめきと音を立てて関節の位置が変わり、手足も完全に獣のそれに変わっていく。

 四肢を地面につけ、全身の獣毛を逆立てた姿に……最早人だった頃の面影は微塵も無い。


 ――――完全獣化フルシェイプシフト。人としての理性と引き換えに、自らを完全な魔獣と化す……獣人種最後の切り札。

 ともすれば知性を失い、心身共に畜生に墜ちる危険なわざを、犬吠埼は解禁したのだ。


「フッ、頑張るじゃあないか。それだけに……惜しいな」


 そう呟くミイナの視線の先……巨大な魔獣と化した犬吠埼のはるか向こう側で、今まさに異変が起こっていた。

 高層ビルの街から立ち昇るのは、何本ものまばゆい閃光の柱。一本一本の規模こそ小さいものの、それは先日学園内にて屹立きつりつした異界の【門】に酷似している。


「どうやら、あちらが本命だったようだ。となれば、いつまでも雑魚に構っては居られんな」


「――――!!」


 “雑魚”という言葉に反応したのか、巨大な妖狼が一声吠えた。素早く身を屈めると、巨体に似合わぬ俊敏さで宙へと舞い上がる。

 ぎらぎらと血走った双眸そうぼうが、空中から突き刺すような殺意と共にミイナに迫る!


「サラーヴ!」


 ……炎が、はしった。ミイナが鋭く叫ぶと同時にその右手を覆っていた炎が離れ、襲い来る妖狼との間に立ちはだかったのだ。


「――――ぐおおお!!」


 一瞬にして、獣の巨体を火焔が包み込む。空中でバランスを崩し、受け身も取れず叩き付けられる妖狼。衝撃で高架は大きく震え、アスファルトの路面には何本もの亀裂が走る。


「物のついでだ……あたしの本気、触りだけでも味合わせてやろう」


 身体にまとわりつく炎を乱暴に振り払い、起き上がった犬吠埼が見たのは傲然ごうぜんと腕を組むミイナと……そのかたわらに浮かぶ鬼火のごとき炎の塊。


 いや、それは既に炎ではない。一瞬前まで揺らめく炎があったそこにはどこから現れたのか、中東風のヴェールで身体を覆った小柄な少女がたたずんでいた。


「こいつはサラーヴ。あたしの相棒にして“炎の魔人イフリート”……と言ったところで、場末のチンピラにはおそらく理解できまいな」


 漆黒の髪に、きめ細かな褐色の肌。目元を前髪で、口元を布で隠したその表情は分からない。熱に浮かされた旅人が見た、砂漠の蜃気楼しんきろうのように――――存在そのものが虚ろで現実感に乏しい乙女が、そこには居た。


「そして、これから見せるのが……この不知火ミイナ最強の姿。お前等妖を狩り尽くす、地獄の狩人の姿よ!」


 大気が、揺らぐ。初夏の陽気などという生ぬるい空気を吹き飛ばし、赤道直下を思わせるような熱波が高架橋上に満ちていく。


「ぐるるる……!」


 犬吠埼は動けなかった。完全獣化によって強化された殺意と危険を告げる獣の本能がせめぎ合い、無意識のかせとなって彼を縛り付けていたのだ。

 もし今の彼にまともな理性が残っていたなら、これ以上この場に留まろうとは考えなかっただろう。それどころか、土下座をして命乞いをする事さえ選択肢に加えていたかもしれない。


 ――――犬吠埼昇は決して無能な男では無い。暴力組織の構成員としても、また妖としてもそれなりの実力者である。しかし、現実に彼は追い詰められていた。

 強いて落ち度を挙げるなら、彼は不運だった。不知火ミイナに関わった時点で、その運勢は最悪だったのだ。


「来い、サラーヴ! 魔人霊装aljaniu alsamamat maeia!!」


 異国の言葉で呼ばれた少女が小さくうなずくと、その姿は瞬時に燃え盛る炎の柱へと変わる。ごうごうと渦を巻き、広がっていくそれがミイナの身体に触れた時。


「ぐ、ぐあぁ――――!?」


 辺り一帯を覆いつくすまばゆい閃光が、犬吠埼の視界を真っ白に染めた。


「さあ……本当の狩りはここからだ!」


 響き渡る少女の宣言に、巨大な妖狼は初めて恐怖する。不確かな視野の中でも、目の前に現れた存在の強大さと……禍々しさが伝わってくる。



 彼が手遅れを悟った時、既にその巨体は業火のあぎとに飲み込まれていた――――。

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