第31話 高架橋上の逃亡者

【前回までのあらすじ】


 妖大将に逆らう裏切り者を追い、渋谷の街に集まった我捨たち妖の刺客。

 人間達の追跡を阻む為、裏切り者の行った儀式の痕跡を消そうとするも……半妖の暴力団員、犬吠埼のミスにより失敗。彼らもまた術者によって追われる身になってしまうのだった。


 自らの失態にけじめをつける為、アジトで追手の術者を待ち伏せした犬吠埼。

 しかし強大な火炎を操る少女……不知火ミイナに返り討ちに遭い、撤退を余儀なくされる。

 孤立無援の状況で、逃走を続ける彼の運命は如何に……?



◇◇◇



「チクショウ、この俺様が無様に逃げるハメになるたァな……」


 静かに走り続けるタクシーの後部座席で、犬吠埼昇いぬぼうざきのぼるは誰にともなくつぶやいた。裸の上半身に直に着込んだ革ジャンが、身じろぎする度にみちみちと音を立てる。


 これは逃走の際、たまたま近くにいた不幸な通行人から無理やり拝借した物だが……大柄な犬吠埼にとっては微妙にサイズが小さい。

 裸でいるよりは人目を引かないとは言え、ぎりぎりと締め付けられる不快感は、そろそろ耐え難いレベルに達しつつあった。


 ちなみに彼本来の上着は狼獣人に変身した際に弾け飛んでおり、予備の服は喫茶ウルブズネストと共に焼失してしまっている。 


「一時はどうなるかと思ったが、流石に高速までは追って来ねぇか」


 追手は一人。渋谷の人混みに紛れ込めば、すぐに見失ってくれる筈……そう軽く考えていた彼だが、敵の追跡能力は予想を遥かに上回っていた。

 充分に引き離したと思ってもいつの間にか追いつかれ、視界から消えたと安心すれば先回りされている……その嗅覚は、獣の感覚を併せ持つ犬吠埼の理解さえ超える代物だったのだ。


 ――――このままでは逃げ切れない。それを悟った時、彼は恥を忍んで我捨がしゃに助けを求めた。組の人間の手を借りることも考えたが、今朝はそれで失敗したばかりである。

 自ら申し出た追手の始末をしくじっておきながら、実に情けない話ではあるが……背に腹は代えられない。


 『テメエの不始末だ。テメエ自身でなんとかしろ』


 電話に出た我捨の返事は非情なものだったが、それでも口頭でできる限りのアドバイスは得る事ができた。

 『大通りに出てタクシーを拾い、高速道路に乗れ』――――術者は人目の多い所では襲って来れない。それを利用して足を手に入れ、一気に引き離そうという訳だ。


 指示に従い、タクシーに乗ってしばらくして……背後の気配は消えた。向こうもタクシーで追ってくる可能性を考え、そのまま高速に入り高架橋の上を走ること十数分。


 恐らく、これで振り切れた筈。そう思いつつも、犬吠埼の心中から不安は消えなかった。


「アイツの……あのヤロウの眼。俺もこの世界でそれなりに修羅場をくぐってきたつもりだが、あんなツラ構えの女を見たのは初めてだぜ……」


 暴力団員という職業柄、彼は命を取り合う現場とそれに従事する人間を良く知っている。一度でも人を殺めた事のある者は、そうでない者と目つきからして違うのだ。

 だが、犬吠埼の前に現れた術者……まだ十代であろう娘のそれは、彼のむ世界ですら生ぬるいと思わせる程に異様なものだった。


 ……炎。それも地獄の底で亡者達を焼く黒炎のようなものが、その瞳には宿っていた。

 人は一体、何人殺せばあんな眼が出来るようになるのか? かつて対立組織との抗争で血の雨を降らせたと言われる組のトップでさえ、ここまで人間離れした目はしていなかった。


「……人間離れ? そうだ、あの眼……我捨の兄貴に似てるんだ。もうとっくに人間を止めちまってるヤツの目つきだぜ、アレは」


 かつて、我捨より聞かされた事がある。術者の中には、【妖遣あやかしつかい】……契約によって妖を縛り、その妖力を我が物とした者が居るのだと。

 その力は高位の妖のそれにも匹敵し、対抗できるのは我捨のように憑依を果たした者ぐらいだという話だ。


 印を結んだり呪文を唱える仕草もなく、あれだけの炎を放ってみせる能力。それもあの女が【妖遣い】だとすれば納得がいく。


「【妖遣い】には近づくな、出会ったら全力で逃げろ……か。兄貴が言うくらいだ。俺ももう関わりたくはねえぜ」


 不安を振り切るように頭を振って、何気なく窓の外へ目をやった時……犬吠埼は不意に気付いた。流れていく景色のスピードが、明らかに遅い。

 さっきまで快調に飛ばしていた筈のタクシーは、今や人が歩くのと同等のノロノロ運転に変わっていたのだ。


「オイ、どうなってる!?」


 座席越しに身を乗り出し、犬吠埼は運転手を問い詰めた。


「この先で渋滞でさァ。ゴールデンウイークともなりゃ、こういう事もありますさね」


 そう事もなげに答える初老の運転手。確かに、長くタクシー業を続けている彼にとっては日常茶飯事の光景なのだろうが……犬吠埼にしてみれば気が気ではない。


 それから間もなくタクシーは完全に停止し、後ろを走っていた車もそれにならう。高架橋に並んだおびただしい数の車両によって生み出される、果てしなく続く渋滞。

 犬吠埼は、その巨大な蛇の身中に囚われていたのだ。


「チィ、早く池袋ブクロの兄貴達と合流してえってのに…………!?」


 頭を抱える彼の背筋を、不意に悪寒が駆け抜けた。半妖である犬吠埼の五感は並の人間より数段鋭い。今まで幾度となく危険なシノギを生き延びてこれたのも、その感覚あってこそである。


「――――出せ」


「はぁ?」


 後ろから肩を掴まれた運転手が、素っ頓狂とんきょうな声を上げる。


「車を出せ、って言ってんだ。早くしろ」


「そう言われてもねぇ、見ての通り前も後ろも詰まって……ひぃっ!」


 肩を掴んでいた手に喉元を締め上げられ、運転手は悲鳴を上げた。その顔前に大きく身を乗り出した犬吠埼の殺気立った形相が広がる。


「路肩が空いてるだろッ! 構わねーから行けよッ!」


 そこまで言った時、犬吠埼はタクシーの窓がこんこん、とノックされる音を聞いた。恐る恐る振り向いた彼が見たのは……赤いメッシュの髪と、その奥で光る炎の如き眼光。


「――――クソがっ!」


 咄嗟に身を屈めた犬吠埼の頭の上に、轟々ごうごうと燃える深紅の塊が突き出す。術者の少女の右腕、そのひじから下が火焔を帯びて……透明アクリルの窓を音もなく貫いていたのだ。


 炎によって形作られたてのひらはその場でくるりと上を向き、鉤爪のような五指が窓枠を掴む。車体が激しくきしんだ次の瞬間には……タクシーの屋根そのものがめりめりと引き剝がされていた。


「……よう。また会えて嬉しいぜ?」


 捻じくれた鉄板と化した屋根を無造作に投げ捨てながら……少女が微笑む。年頃の娘が見せる、可憐なそれとは遠くかけ離れた笑顔。

 それは、獲物を追い詰めた肉食獣が……舌なめずりをする表情に似ていた。


「なっ、ななな――――!?」


 現実離れした光景を目の当たりにし、蠟梅ろうばいする運転手。叫び出したいのは犬吠埼も同様であったが……彼は唇を噛んでそれをこらえた。


 ――――ヤクザ家業は、舐められたらしまい。この仕事を始めるにあたって、最初に叩き込まれた信条だ。すぐに狼狽うろたえる奴は舐められる。どんな苦境に追い詰められようと、それを顔に出さない者が“一流”なのだと。


「へへ……折角来てもらって悪いんだが、乱暴な女はタイプじゃねェんだ。キャンセルの受付はしてくれねェのかい?」


 だから、犬吠埼はわらう。それがやくざ者の生き方……骨の髄まで染み込んだ、彼自身の生き方だ。


「残念だが……もう手遅れだ!」


 少女が右腕を振り上げる。燃え盛る炎の鉤爪がくわっと開き、火の粉がばらばらと辺りに振り撒かれる中。


「……ななな、何を!?」


 犬吠埼は運転手の襟首を掴み、力任せに引っ張り上げた。シートベルトからすっぽ抜け、宙を舞った哀れな運転手の身体が……鉤爪を構えた少女に向け叩き付けられる。


「あばよッ!」


 その一瞬の隙に、犬吠埼は運転席へ乗り移っていた。少女が再び態勢を整える前に、タクシーのエンジンに火が入る。

 前後の車にぶつけてスキ間を作り、路肩に乗り上げた天井の無いタクシーは、スピードを上げ爆走を始めた。


「ヤクザにだって面子メンツがあるんだッ! 女なんかにパクられてたまるかよッ!」


 吠えながらも、その心中は穏やかとは程遠い。振り向かずとも……少女が追ってくるのが分かっていたからだ。


「クソ、厄介な事になりやがったぜ。これが貧乏クジってヤツかい、兄貴……!」

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