第17話 火蓋切る狩猟者
「ウルヴズネスト……ここか」
繫華街からわずかに外れた、人通りの少ない路地。古びた雑居ビルの入り口から階段を下り、現れたドアに書かれた店名を読み上げたのは……十代半ばくらいの歳の、一人の少女であった。
上は黒いノースリーブのシャツに両袖の無いくたびれたGジャン、下は右脚が丸々千切り取られたダメージジーンズというワイルドな服装に、獅子のたてがみを連想させる
――――制服姿でこそ無いが、それは紛れもなく先日、月代灯夜が学園内の森で出会った……あの風変わりな高等部の先輩である。
しかし、今彼女の身から漂う空気は、およそ十代の少女が
少女の周りに張り詰めているのは……敵意。触れた物すべてを嚙み砕かんばかりの、限りなく殺意に近い敵意だ。
「居るな。一匹、か……」
獲物を数えるような口ぶりで低く
警戒しつつ、少女は店内に足を踏み入れる。まず目に入ったのは、要所に置かれたオレンジ色の光を放つランプ。光量の絞られたそれは、店の中の薄暗さをむしろ強調しているかのようだ。
「…………」
しんと静まり返った店内からは、
一歩、二歩……そして三歩目を踏み出すと同時に、くるりと振り返る。ドアが閉じ、からからと鳴るベルの音が止むと……店内を再び重苦しい沈黙が支配した。
少女は溜息をつくと、真っ直ぐにドアの方を睨みながら、誰にともなく言葉を
「……いつまでそうしているつもりだ? もしや、あたしが諦めて帰るまでそこに隠れている気じゃあるまいな」
「チッ、お見通しかよ。最近のガキは可愛げのカケラも
ドアの脇から姿を現したのは、スーツを着崩した体格の良い男だった。僅かな灯りに照らされたその表情は……険しい。
――――この店の入り口には、ひとつの仕掛けが施されていた。ドアが開いた時、丁度その影になる場所に人一人が潜めるスペースが設けられていたのだ。
そこはドアが閉じるまで完全に死角となり、店内に入って来た者の背後を突く事もできれば、また隙を見て店外へ逃れる事も可能である。
この店のオーナーである犬吠埼自身が、万が一の事態を見越して仕込んでいた罠。しかし、それもこの少女には通用しなかったようだ。
「あのチンピラが言っていた犬吠埼ってのは、お前か」
「俺の名前を知っているって事は、
それは、既に会話では無い。ただ、お互いの立場を確認し合うだけの……言わば通過儀礼。双方とも、言葉でこの場を収めるつもりは毛頭ないのだ。
「しかし、本当に一人で来るたぁな……俺も舐められたモンだ」
「それはこっちの台詞だ。てっきり手下を並べて待っているものと思ったが、拍子抜けだな」
少女の何気ない一言で、犬吠埼昇の脳神経は一気に煮えたぎった。
彼女が自分の部下数名を瞬時に叩きのめした術者だという事は知っている。それを知ったからこそ、彼はこの場所で迎え撃つ事を選んだのだ……そう、一人で。
元々、我捨に協力したのは犬吠埼の独断によるものであり、彼の属する組とは無関係だ。これ以上巻き込まれて再起不能になる部下を出す事は、彼自身の立場を危うくする。
そして何より、部下の多くは彼の妖としての姿を知らない。それは組長以下数名の幹部だけが知っていれば良い事であり、不用意に広まれば都合が悪い事実でもあるのだ。
「ガキの相手なんざ、一人で充分って事だ。手前こそ、仲間を連れて来なかった事を後悔するだろうぜ――――」
そう言うが早いか、犬吠埼の姿が少女の前から搔き消える。そして、次の瞬間……彼女は後ろからがっしりと羽交い締めにされていた。
「どうよ! 流石の術者サマでも、こうなっちゃあ術どころじゃねェだろッ!」
筋肉質の腕が、ぎりぎりと少女の身体を締め上げる。大の男でも身動きできなくなる程の圧力を受けながらも……
「フッ、そのガキ相手にこうもムキになるとは……“術者”なんていう肩書きが、そんなに怖いか?」
そう、涼し気に言い放つ。まるでこの程度の修羅場は慣れっこだと言わんばかりの余裕に、犬吠埼の怒りは沸点に達した。
「ガキが! これでもまだ、吠えられるかッ!」
その光景を横から見ていた者がいたなら、突如、犬吠埼の体が膨張したのが分かっただろう。薄紫色のスーツの上半身がぱんぱんに張ったかと思うと、それは内圧に耐えかねて破れ、弾け飛んだ。
そして現れたのは……獣のような毛むくじゃらの身体。
それだけではない。少女の頭の上で、男の顔だったものが見る見るうちに変貌していく。口は大きく裂け、鼻面が伸び……その全体を硬い体毛が覆う。
まるで、イヌ科の獣――――この国では絶滅して久しい、古き狼の頭部がそこにはあった。
「
鋭い牙が並んだ
――――しかし、彼女は
「犬臭い、ワケだ」
「……手前ッ!!」
狼獣人と化した犬吠埼が、その両腕に更に力を込めようとした時。少女の細い身体が突然、炎に包まれる。
「なにィ!」
獣の腕の中で火焔は渦を巻き、容赦なく犬吠埼の獣皮を焼いていく。
「勘違いしていたようだな……そう、お前は“狩る”側じゃあない」
肉が焼ける異臭が漂う中、少女は
「“狩られる”側だ。あたしに……この
炎は爆発的に広がり、店全体を一瞬で覆い尽くす。それは犬吠埼の
渋谷の街に、轟音と衝撃が響き渡った。
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