第4話 闇に喚ぶ声

 轟々と唸る風が、男の耳元を吹き抜けていく。暦の上では春を迎えていても、夜風はいまだ冷ややかなものだ。


「変わってしまったものだな。そして、恐らくはもう……戻るまい」


 そこは、とある高層ビルの屋上。普段なら人が立ち入る事すらまれなその場所に、一人の男がたたずんでいた。


 灰色のマントでその身を覆った、身長百八十センチ程もある壮年の男……頭髪は黒が半分、白が半分といったところか。

 深いしわが刻まれたいかめしい顔付きは、彼が刻んできた永い年月を想起させるものだ。


 つかつかと、屋上の外縁に向け男は歩く。びの浮いたフェンスで区切られたその向こうには……一面、星が散りばめられたような大都会の夜景が広がっていた。


「夜とは暗きもの。常闇こそが在るべき姿……それが、当たり前で無くなる世が来るとはな」


 くいと顔を上げ、男は空を見上げる。本来、変わらずそこにある筈の星空は……しかし地上の光の前に色褪せ、輝きを減じているように見えた。


「……少し、長居をし過ぎたかも知れぬ」


 自嘲するようにつぶやくと、彼は肩越しに振り返り……屋上の中央に置かれた、簡素な祭壇を睨み付ける。

 白木で組まれた台と、その上に載せられた白い小石。内側から光を発するかのようにぼんやりと光るその石こそが、今宵こよいの儀式の為に彼等が持ち出した【召門石】と呼ばれる宝具だ。


 その中には大量の霊力が封じ込められており、解放すればわずかな時間ではあるが、異界へと通じる小規模な【門】を開ける事ができる。

 今回、男は同じ物を六つ用いて、この場所を含む六ヶ所に同様の祭壇をしつらえたのだ。


「仕込みは終わった。後は――――」


 男はフェンスを掴むと、軽々とそれを乗り越え……ビルの谷間へと身を躍らせた。


 夜の空気を押し退けながら、男は音もなく落下する。十メートル、二十メートル……その途中で彼の右手が閃き、向かいのビルに何かを打ち込んだ。

 

 ――――それは、糸。ロープより細く強靭な糸が落下の軌道を変え、男の身体を振り子のように移動させる。そしてその振り幅が最大になった所で、彼は左手で別のビルに糸を打ち込み、右手の糸を切り離す。


 まるでサーカスのようなアクロバットを幾度か繰り返し、やがて男が降り立ったのは……先程より大分背が低いが、倍以上の広さがあるビルの屋上だった。


栲猪タクシシよ、遅いではないか!」


 駆け寄って来たのは、袈裟けさをまとった僧侶姿の男。マントの男より背は低いが、その分横幅がある体躯たいくを持つその男は……禿げ上がった頭に脂汗を浮かべながら、血走った眼で頭ひとつ上にあるいかつい顔を睨み付けた。


「首尾よく済ませたであろうな! 祭壇の位置が少しでもズレれば、儂等わしらのこれまでの苦労が水の泡になるのだぞ!」


「無論だ。多少高低に差はあれど、横軸が合っていれば儀式に支障はあるまい」


 栲猪と呼ばれたマントの男は、袈裟の男の剣幕に動じる事なく……広い屋上いっぱいに描かれた複雑な紋様に眼を向けた。

 三角形を重ねた様な図形と、その周囲に描かれた様々な国の文字。彼も良く知るこの国古来の術式に、南蛮渡来のそれを掛け合わせた……それはかつてない程複雑な儀式呪法の陣だった。


「準備は整った。ここからはお主が腕を振るう番であろう……入道よ」


「応よ。貴公はそこで見ておるが良い……この国の誰も真似出来ぬ、儂だけの秘術の完成をな!」


 陣の中央へと大股で歩み寄る、袈裟の男――――入道。そこには栲猪がしつらえたものより手の込んだ祭壇が置かれており、その中央の台座に敷かれた白い布の上には……赤くきらめく手の平大の欠片かけらが鎮座していた。


 金属のような光沢を持ちながら、同時に光を透過する赤い欠片。それはガラスや陶器、プラスチックといった既存の素材とは明らかに異なる物質だった。


「ぐふふ……【召門石】を用いた陣と、この触媒を持ってすれば。そうよ、今こそ証を立てる時……儂の長きに渡る研究、その偉大なる成果の!」


 入道は祭壇の前に立ち、懐から取り出した数珠を握ると、それを天に向けて掲げ……


「喝ッ!」


 びりびりと、周囲の大気を震わす程の気合。それに呼応して、屋上を縦横に走る紋様が次々と妖しい光を帯びる。

  同時に禍々まがまがしい妖気が祭壇から吹き出し、瞬く間に陣の内外を覆っていった。


 屋上全体が妖気に満たされたその時、異変は起こった。先程、栲猪が祭壇を仕掛けた高層ビルからあふれたまばゆい光が、一条の光柱となって天を突き刺したのだ。


 それだけでは終わらない。周囲のビルから更に二本目、三本目の新たな光柱が立ち昇る。陣の描かれたビルを中心に……計六本。等間隔の光柱が円を描くように屹立きつりつしていた。


 夜の闇を切り裂く輝きを拝みつつ、入道は数珠を軽く鳴らしきょうの暗唱を始める。低く唸るような声でつむがれた、暗く不気味な詠唱。

 それは次第に、経とは異なる言語と抑揚を持つものに変わっていった。それを唱える入道の声も、人間の声帯では有り得ない音階へと推移すいいしていく。


 突如、直下型の地震のような激しい衝撃がビル全体を揺るがせた。そして、屋上に描かれた陣の光がまるでサーチライトのごとく夜空に映し出される。


 ――――周囲のビルから生じた六本の光柱を、それぞれ頂点として描かれた六芒星。摩天楼の上空をキャンバスに変え、巨大なる魔法陣がここに現出したのだ!


「来るか……異界の怪物ものよ」


 天空の魔法陣の中心に集まり、輝きを増していくこの世の物ならぬ光芒。その眼を焼かんばかりの光をマントでさえぎりつつ、誰にともなく栲猪はつぶやく。



 詠唱が最高潮を迎えた瞬間、光は弾け――――身の毛もよだつ巨大な咆哮ほうこうが、深夜の大都会に響き渡った。

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