第三部 ぼくとセンパイと紅の竜姫
第1話 猫の楽園
そこは――――深い森の中だった。ぼくの目の前に広がるのは、立ち並ぶ何本もの太い幹。右を向いても左を向いても、その風景は変わらない。
見上げれば、天に向け生い茂る大樹の群れ。わずかな葉の隙間からはまぶしい陽射しがこぼれ、時が止まったかのような静寂の中……時折思い出したかのように響く、鳥のさえずり。
海外のファンタジー映画に出てくるような、広大な森林地帯。ぼくは、その緑の牢獄の只中にいたのだ。
「どうして……どうしてこんな事に」
ほんの数分……いや、十分くらい前には普通の道を歩いていたというのに。
そう、コンビニからの帰り道でふと見かけた猫を、何気なく追いかけてみただけのはずだったのに。
「どうしてこの学園は……こんなに森ばっかりなんだよぅっ!」
そして、ぼくの叫びを聞く者は誰もいない。他ならぬぼく――――
――――校舎と寮の間にある、一軒のコンビニ。そこはぼく達学生にとってかけがえのない便利スポットである。
富士の裾野に広大な敷地を持つ全寮制女子校……
一定の距離を開けて同業他社の店舗が立ち並ぶ様は、ここが学園の中であることを一瞬忘れさせる光景だ。
そんなコンビニの近くでよく見かけられるのが……猫。どういった経緯で紛れ込んだのか、この学園内にはそれなりの数の野良猫が住み着いていたのだ。
妖を通さない結界も、気ままな猫たちには何の効果も無いらしく……今も学園のそこかしこで優雅にくつろぐ姿が目撃されている。
ぼくが見つけたのも、そんな猫たちの一匹なのだろう。コンビニを出たぼくの目の前を足早に横切り、道路の向こうの木立に滑り込んだ……茶虎の子猫。
うん。今更言うのも何だけど……ぼくは、猫が好きだ。道で見かけた猫には必ず挨拶をしているし、特に用がない時はギリギリまで接近し、可能ならばお触りを許して頂くのを日課としている。この学園はぼくの地元より野良猫との遭遇率が高いため、中々に充実した猫ライフを満喫できるのだ。
家ではお
……で、その末路がこの有様である。子猫を追跡していたつもりが、いつの間にか前後左右見渡す限りの森の中。入学初日にも迷ったけど、今にして思えばあの時はまだ道が繋がっているだけマシだったんだね……
ふと、「遭難」という単語が脳裏に浮かぶ……いやいや、いくら広いといってもここは学園の中。もう少し歩けば、どこかしら人の手の入った場所に辿り着くはず。
それに、いざとなればしるふ――――ぼくの友達である、風の精霊――――を呼んで空から脱出する事だってできる。まあ後で「とーやったらまた帰り道でマイゴになったんだヨ~!」などとと言いふらされるだろうから、それは最後の手段だけど。
ほとんど変化のない木々の群れの中を、カンだけを頼りに進む。何となく明るい方、風を感じる方向を目指して進んでいく事しばし。
正面で森が薄くなり、降り注ぐ光が強くなっていく。やった、出口だ――――期待に胸が踊り、疲れた足が自然に早まる。半ば駆け足になったぼくの前で、不意に森は開け……
そこにあったのは、ぽっかりと開けた空き地だった。ちょうどこの前、あの恐ろしい【
「で、出口じゃないの……?」
がっくりと肩を落としたぼくの耳に、何かかすかな物音が飛び込んできた。ぴちゃ、ぴちゃという……小さな水音だ。
音の方向に視線を向けると、そこには半ば草に埋もれた……ええと、何て言えばいいんだろう? 直径一メートル、長さ二メートル半くらいのコンクリート製の筒?が三本、並んで横たわっていた。
初めて見る物なのに、どこか既視感を感じるのは……多分昔の漫画か何かで見た光景だからだろう。ああいうのが確か、空き地によく置いてあったんだっけ?
息をひそめて近づいてみると……居た。筒の中に置かれた小皿を囲む、数匹の子猫。ぼくが聞いた音は、その子猫たちが皿の中のミルクを飲んでいる音だったのだ。
一匹ずつ毛色の異なる子猫たち。その中には、ぼくが追って来たのと同じ茶虎の子も混じっている。
微笑ましい光景に、ぼくは迷子になったという現実を忘れ……もう少しそばで見たいという欲求のまま、音を立てないようにそーっと、そーっと近づいて――――
「おい」
「ひゃう!?」
背中から突然かけられた声に、思わず飛び上がってしまう。女の人の声だけど、妙にドスが効いていて迫力のある
それを聞いてか、ミルクを飲んでいた子猫達が蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ去った。
「その制服……中等部か? ここからは真逆の方向だってのに、何でこんな所に……」
ざしざしと草を踏みながら迫ってくる声の主。一体、何者だろう……そもそもこんな何も無い森の中で誰かに会うなんて、全くの想定外だ。
「……って、おい。何固まってんだ。こっち向けオラ」
なんか、怖い人だ――――! ぼくは恐怖に心臓をわし掴みにされつつも、とりあえずこの危機に立ち向かうべく振り返る。
「ご、ごめんなさいっ!」
立ち向かう……といっても、できる事は反射的に頭を下げるだけなのが情けない。ぼくという人間の、これが限界――――基本コミュ障のぼくは、見ず知らずの人に話しかけられるだけでも、かなりのプレッシャーを感じてしまうのだ。
「あ? 何謝ってんだコラ。
そして、その対応は相手を更にイラつかせたようだ。そういえば、いつか静流ちゃん――――ぼくの小学生時代からの友達――――に言われた事がある……「月代君は謝りすぎなの。まるで何でも自分が悪いみたいに言うのって、相手によっては失礼に取られるわよ?」と。
その時は確かにそう思い、改めようと思ったはずなんだけど……残念ながら、無意識の反射行動を改善するまでには至らなかったようだ。
おそるおそる顔を上げると、目に入ったのはすらりと背の高い制服姿の女の人。ぼくが着ている制服と似通っていながら微妙にデザインの違うそれは、おそらく天御神楽学園の……高等部の制服だろう。
しかし、その着こなしはよく言えばワイルドな……ぶっちゃけ乱れた雑なものだった。大胆に開けた胸元に、危険を感じる程短いスカート。イマドキの女子高生スタイルとしては間違っていないけれど、この学園内でそんな格好をしている人を見るのは初めてだ。
っていうか、普通に校則違反じゃないのコレ……天御神楽学園はお嬢様学校の最高峰と
そして、まるでライオンのたてがみのように広がった茶髪には一筋の赤いメッシュが入り、その表情は鼻筋の通ったキリっとした顔立ちと相まって、ある種の風格めいたものを
単にだらしなかったり
「その銀髪……染め物じゃねえな。留学生か? まあ、そんな事はどうでもいい」
切れ長の眼から放たれる鋭い矢のような視線が、ぼくの全身をざくざくと射抜く。外人でも留学生でもないと言い返したかったけども、ぼくの身体はその迫力に
「何だ、もしかしてびびってんのか。こんな秘境に踏み込んで来るようなお転婆娘が、ずいぶんとしおらしい……」
不意に言葉を切る彼女。その足元にはいつの間にか、さっきの子猫たちがじゃれついていた。
「おいやめろ、爪を立てるな。まったくこいつらときたら……」
険しい表情を崩し、眉をひそめてため息をつく彼女。それと同時に空き地全体を包んでいた張りつめた空気が弾け、ぼくを捕らえていた金縛りのような感覚も霧散する。
しゃがんで猫たちとたわむれる彼女の姿は、さっきまでの威圧感とはまるで無縁な……どこにでもいる、普通の猫好きなお姉さんに見えた。
「まあ、なんだ。何でここに居るのかは知らねえが……とりあえずは歓迎されてるみたいだな、お前」
「えっ」
突然足元に感じる、柔らかい毛並みの感触。びっくりして下を見ると、そこには無邪気にぼくの足にすり寄る……一匹の子猫。
「ようこそだ、お嬢様。あんたがこの独立国――――【猫の楽園】の最初の客だ!」
子猫を肩に乗せ、満面の笑みを浮かべる彼女。おだやかな春の陽射しの下、そのまぶしい笑顔にぼくは言葉を忘れ――――
無心にじゃれる子猫の爪が、靴下の上から容赦なく突き立てられるまで、ただただ立ち尽くすだけだったのである……。
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