番外編その2 潜入、あこがれの大浴場!
「これが……大浴場っ!」
ぼくの目の前に広がるのは、ちょっとした広場のように開けた浴場だった。一度に十人くらいは浸かれるだろう湯船には所々に自然の石が使われており、いかにも温泉といった見た目になっている。
実際、ここは学園内でも珍しい本物の温泉なのだ。よく見ればご丁寧にお湯を吐き出すライオンの頭的なものまで置かれており、かなりそれっぽい見た目を意識した造りである。
更に驚いたのは正面の壁が一面ガラス張りになっており、眼前にそびえる富士山を拝みながら入浴できるという事。この学園が富士の樹海という立地だからこそ成し得た設計だろう。
まさに本当の温泉観光地に来ているみたいな気分になれるのだ。
ただ、残念なことに今は夜。昼間なら絶景を楽しめるだろう窓の向こうには、ただ黒々とした闇が広がるばかりだ。この方向からは山しか見えないので、ライトアップされた夜景なんてものも期待できない。
「ヤッホー! ひっろ~い!」
バスタオル――――正確には、パイル地のハンカチからぼくが作ったタオルもどき――――を巻いたしるふが、勢いよく浴場に飛び込んでいく。
そして湯けむりに満たされた空間をくるくると嬉しそうに周回し、いきなりどぼん、と湯船に突っ込んだ。
「ちょっとしるふ! いきなり入ったらダメだよ! まずは体を流してから……」
けど、しるふがはしゃぐのも分かる。なぜならぼく自身、今すぐ走っていってお風呂の大海に飛び込みたいという衝動を抑えるので精一杯だったからだ。
――――
この天御神楽学園の教育方針として、「生徒同士のコミュニケーションを重視する」というのがある。それを反映してか、寮の設備も基本、多人数が同時に使うことを前提としたものが多い。
食事を共にするロビーや、各階にあるフリースペース等……そのひとつに、浴場も含まれていた。
ただ体を洗うだけではない、生徒同士がいわゆる「裸の付き合い」をするための場所。それがこの大浴場という訳だ。
……そして、それこそが今までぼくがこの場所に近づけなかった理由でもある。
男子禁制の学園で過ごすようになってはや二週間あまり。自分自身たまに忘れそうになるけど……ぼく、月代灯夜は男の子である。
当たり前の話だけど、女子と一緒のお風呂なんて入れるはずもない。恥ずかしいとか恥ずかしくない以前に、男だとバレたらこの学園にいられなくなってしまうのだ。
そもそも特例として入学する時にもうちょっとこう、配慮とか何かあっても良かっただろうに……何がどうなってか、ぼくは正体を隠して女の子のフリをし続ける事を余儀なくされている。
それは寮においても、うっかり気を抜くわけにはいかないということだ。
幸い、この寮の各部屋にはシャワーが常設してある。だから体が洗えなくて困るという事はないのだけれど……樹希ちゃんや愛音ちゃんから大浴場の話を聞くたびに、一度は入ってみたいという欲求は日々高まっていった。
そこで、ぼくは一計を案じた。大浴場が開放されるのは平日の午後七時から十時。休日には昼間も空いているけれど、その時間は他の寮の学生も入りに来るため混雑するので無しだ。
この限られた時間の中で寮生達は入浴を行う。ぼくはその詳しい時間……ひとりひとりが何時から何分まで利用するかのデータを取り、空白の時間がないかをこの二週間を使って検証したのだ。
毎日一階のロビーに陣取り、スマホをいじる振りをして大浴場に向かう女の子達をチェックする日々……傍から見れば不審者のような行いに良心の
この時間、大浴場は無人になる。一週間のサイクルの中でたった一度の奇跡だ。二十分というのはちょっと物足りないけど、これが現時点で最長の空白。
一ヶ月、二ヶ月とデータを蓄積していけば、もっと長い空白時間を見つけられるかもしれないけど……さすがにそこまでは待てない。
とにかく、ぼくは早く温泉に入りたかった。住んでいる寮に温泉があるのに入れないなんていう拷問のような日々に、一刻も早く終止符を打ちたかったのだ。
しるふは早速ばしゃばしゃと音を立ててお風呂を満喫している。そんな彼女を尻目に、ぼくは壁際に設置された洗い場に向かった。
まずは頭と体を洗うのが先決だ……特に頭。目をつぶっている間に誰かが近づいてきたら打つ手がない。万が一のリスクを避けるためにも、危険行為は先に済ませておかなければ。
ぼくは眼鏡を外し――――始めて入る場所に裸眼では不安だったからだ――――持ち込んだボディーソープとシャンプーを使って、手早く身を清める。備え付けの石鹼等もあるけど、基本それらは自分で持ち込んだ物を使うと樹希ちゃんから聞いていた。
「ふぅ…………」
ひと通り
ああ……やっぱりお風呂はいい。最近はずっと部屋のシャワーで済ませていたけど、ゆっくりお湯に身体を預ける感覚は他に代えがたい癒しだ。
泳ぎ疲れたのか、遠くでぷかぷかと漂うしるふをぼんやり眺めながら……ゆっくりと手足を伸ばして至福の時間を堪能するぼく。
しかし、それも長くは続かなかった。不意に気配を感じて脱衣場のほうを見ると、すりガラスの引き戸の向こうで何やら肌色の影が
馬鹿な、ぼくの計算では少なくともあと十分は誰も入って来ないはずなのにっ!
ど、どどどどどーしよう。この浴場には隠れられるような場所は全くない。湯船の底に潜ったところでどうにもならないし、そもそも脱衣場に置いた着替えを見られていれば誰か入っているのは自明の理。ここは……どうにかやり過ごすしかない!
激しく動揺しつつも覚悟を決めたぼくの前で、がらがらと引き戸が開く。そして、現れたのは……
「いよぅ、トーヤ!」
「あ、愛音ちゃん!?」
普段は三つ編みの髪を解いて、流れるような赤毛をなびかせて歩いてくるのは……愛音・
けれど、彼女が大浴場を利用する時間はまだ一時間以上も後のはず。第一、今日は妖事件対策の当番で作戦室に詰めているって話だったのに……
「なんか今日はヒマだから帰っていいって言われてさー。んでオマエがここに来るのが見えたんで、急いで追って来たって訳よ」
そ、そうきたかー! まあこういう事態もあるとは思っていたけど、よりによって愛音ちゃんが来るとは……普段は仲良くしてくれる大切な友達だけど、それ故に彼女はぼくと距離が近い。こういった状況では確実にすぐ隣まで近づいてくるだろう。
「ノイも誘ったんだけどよー、風呂は嫌いだから行かねーとか言うし。変なトコだけ猫っぽいんだよなーアイツ」
のしのしと大股で近づいてくる愛音ちゃん。例によって、彼女はまだぼくの正体を知らない。でなければ、一緒にお風呂に入ろうなどとは考えないだろう。
一応、こんなこともあろうかと大事な部分を隠すタオルは準備してある。だけど……問題はそこじゃない。そこじゃあーないのだ。
今現在における最大の問題、それは湯気で曇った眼鏡のレンズ越しでもハッキリと分かる……ぽよんぽよん軽快に揺れる、彼女の胸のふたつの膨らみにあった。
「あ、あの……愛音ちゃん? その……」
「ん、オレの顔になんかついてんのか?」
「いや、少しはその……隠したほうがいいんじゃないかな?」
ぼくの視線を追って、自分の胸をまじまじと見る愛音ちゃん。その口元がゆっくりと吊り上がり、やがて見るからに邪悪な笑みを形づくる。
「フフ……なるほど。確かにお子ちゃまにゃ目の毒かもしれねーよなぁ。この、オレ様の! 豊満なバぁストはっ!」
隠すどころか、誇らしげに胸を張る彼女。そうだった……彼女にとって、この発育の非常によろしい胸部は絶好の自慢ポイントなのだ。
同級生のみんなが割とまだ控え目なサイズなのに対し、ハーフの留学生のそれは規格外の大きさを誇っている。さすがは海外産、国産物とはレベルが違うという事か。
特に愛音ちゃんの場合、身長がそれ程でもない分破壊力が増しているというのもある。普通に着衣の状態でもヤバ目なそれが、目の前でぷるぷる揺れているとなれば……それはもう目の毒どころの騒ぎではない。
重ねて言うが……ぼく、月代灯夜は男の子である。仮に同性だったとしても恥ずかしくなるような光景を前にして、いつまで冷静でいられるかは判断しかねるのだ……
「自慢じゃねーが、この寮の一年の中で胸のサイズはオレが最強だかんなー。あのシズルって奴もそこそこ大きかったけど、まだまだオレの敵じゃねーぜ!」
陽気に笑いながら屈みこみ、ことさらに胸を強調するポーズを取る愛音ちゃん……いやホント、勘弁して下さい。眼鏡が曇ってなかったら鼻血を吹いて卒倒モノの絵なんだからっ!
「でもオマエも一応まだまだ成長期なんだし、あんまし気にすんじゃねーぜ?」
暖かな励ましの言葉を上の空で聞き流しながら、ぼくは思った……ダメだこれ。一刻も早くこの場を逃れないと、理性が危うい。
「ご、ごめん。折角来てくれて悪いけど、のぼせちゃいそうなんでそろそろ出るね!」
入念に身体を隠しながら、お湯から上がる。そして洗い場に置いたシャンプーやらをいそいそと回収すると、ぼくはいまだお湯の上を漂い続けるしるふに声を掛けた。
「ほら、いくよしるふ!」
はぁ~い、と気の抜けた返事を上げてふわふわとついてくるしるふを確認すると、ぼくは後ろ髪を引かれる思いで浴場を後にした。
「えー何だよー。ハダカの付き合いってやつを楽しもうと思ったのにー」
「ごめん愛音ちゃん……また今度、ね?」
折角来てくれた彼女に心から謝りつつ、引き戸をぴしゃり、と閉じる。はあ、危なかった……愛音ちゃんには悪いけど、ぼくはまだこの学園から追放されるわけにはいかないのだっ。
ほっと一息つきながら、荷物カゴに入れたバスタオルを取ろうと手を伸ばした……丁度その時。
ぼくの耳に飛び込んでくる異音……それは、脱衣場の入り口ドアが軋む音と女の子達の話し声。しまった! 思っていたより次の利用者が来るのが早い!
この時間は確か……同じクラスの服部さんと及川さんだったか。二人共たまたま妖が見えてしまう体質の一般人で、ぼくや静流ちゃんと同じように今年からこの学園に通い始めた子達だ。
同じ境遇のせいか二人で行動している事が多く、最近ではそれに静流ちゃんを加えた三人でいるのをよく見かけるようになった。
この脱衣場は出入り口から直接中が覗けないよう、細い通路を挟んだ構造になっている。だからまだぼくの姿は見えていないが……あと数秒の間に身を隠せというのはどだい無理な話だ。
だいたい、ここには人が隠れられるようなスペースはない。やり過ごそうにも、今のぼくは全裸。二人に見られず着替えを終えるのはまず不可能である。
かといって、お風呂に戻ったら愛音ちゃんに怪しまれる。それに結局、入ってきた子達にはどうしても姿を見られてしまうのだ。
これは――――絶体絶命のピンチ! ああ、ぼくの学園生活はここで終わりを告げてしまうのだろうかっ!?
足音が近づいてくる。すぐに角を曲がって、女の子達が顔を出すだろう。その時、ぼくは――――
がらがらと引き戸が閉じ、脱衣場は再び静寂に包まれた。聞こえるのは……ぽたり、ぽたりと床を打つ水滴の音と、早鐘のようなぼく自身の心臓の音だけ。
「た…………助かった?」
『まさにキキイッパツ、だったネ!』
しるふの思念が頭の中で響く。そう、あの僅か数秒の間にぼくは魔法少女に変身し……ジャンプして天井にへばりついたのだ。
女の子達が上を向いたら即アウトという危険な賭け。どうやら今回は運よく切り抜けられたらしい。髪を伝って水滴が垂れ落ちた時はもうダメかと思ったけれど……幸い彼女達には気付かれなかったようである。
「さあ、後は早くここを脱出しなきゃだ!」
音を立てないよう、そおっと天井から舞い降りると、ぼくは変身を解除した。そして手早くバスタオルで体を拭き、下着を身に着け……
……ようとした時、背後でばさっ、と布が落ちる音がした。
「!?」
おそるおそる振り向いたぼくは……そのままの姿勢で文字通り凍り付いた。
そこにいたのは……静流ちゃん。この学園では数少ない、ぼくの秘密を知る女の子。おそらくは先の二人とお風呂で待ち合わせていたのだろう。
そして、彼女の視線はぼくの顔から下へ向けて移動し……一糸まとわぬ下半身と、穿きかけの下着へと移る。
「…………」
「し、静流ちゃん! あの、これはですね――――」
「…………変態」
氷のように冷たい声が響き、脱衣場の体感温度は一気に氷点下にまで急降下したのだった……。
――――結局、静流ちゃんはこの後しばらく口を聞いてくれませんでした。
ぼくの秘密は守られたけど、それ以上に大きな何かを失ったような気がするのは……たぶんきっと、気のせいだと……いいなぁ……。
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