番外編 天御神楽学園は平穏なり!
番外編その1 バレンタインデーとお姉ちゃん
――――それは月代灯夜がしるふと出会う、約一ヶ月前の出来事である。
「うふふ……午前零時キタ! 二月十四日開始ッ! 二月十四日開始ッ!」
ここは天御神楽学園にある四方院家の別邸、その地下深くに設置された……警視庁特殊事案対策室第一分室。
「うへへ……もうすぐだよ~。もうすぐお姉ちゃんが帰るからね~。うふふ……うへ、うへへへ――――」
その中枢である情報作戦室において、倉橋望美は隣のデスクでモニターに向かう同僚――――一応の上司ではあるが――――の不気味な呟きに、思わずため息をついた。
「……月代巡査。申し訳ないのですが、少し静かにして頂けませんか」
「手作り……ふへへ、手作りチョコ……」
「月代巡査!」
月代、と呼ばれたその人物……倉橋より少し年上、二十代も後半に差し掛かった女性の頭部がゆっくりと回転し、自分の顔を視界に収めた時……彼女は、声を掛けた事を少し後悔した。
「なーに、望美ちゃん。うひひひ……」
「いくら他に誰も居ないからって、その気味の悪い笑いは止めて下さい! それに口を開くたびチョコがどうのって……正直、気が滅入るんですよ!」
「いや、望美ちゃんだってほら、誰か渡す相手いるんでしょ? いやー若いっていいわよねぇ~」
そう言う彼女の目はもはや
事件への対応自体は民間の術者の協力でどうにかこなしてはいるが、それを統括できる人間は限られている。この分室の室長である彼女もその一人であり、それが連日の深夜までの残業という結果を招いているのだ。
「巡査、分かってて言ってます? こんな樹海に囲まれた男子禁制の学園で働いてたら、渡す相手も何も無いでしょうが!」
ここ、天御神楽学園は伝統ある女子校であり……生徒はもちろん、教職員や用務員、学内テナントの従業員に至るまで徹底した男子禁制を貫いている。
その上富士の樹海の真っ只中という立地を加味すれば、もはや出逢いなど皆無に等しいのだ。
「あ……なんかゴメン。けど、望美ちゃんって確か外部の人よね? 元々は大手IT企業に勤めてて、この作戦室をリニューアルする際にスカウトされたとか何とか」
「ええ。そうですが、それが何か」
「その頃に誰かさ、イイ人とかいなかったの?」
蒼衣は、軽い気持ちで聞いたのだろう。だから、倉橋の両目に揺らめく昏い炎に気付くのが……遅れた。
「……ええ。そりゃー引く手あまたでしたよ! 丁度今の巡査と同じゾンビみたいな顔した連中に日々絡まれて……女性のSEがほとんど居ないせいで、事あるごとにやせ細ったにやけ顔の群れが期待を込めた視線を突き刺してくるんです! あんな職場に残るくらいなら、メイドのコスプレでもしてたほうがよっぽどマシですよっ!」
「あぅ……ほんとゴメン」
烈火のごとくまくし立てる倉橋の勢いに、さすがの蒼衣もたじたじだ。元々疲労困憊の身、言い返す気力も既にない。
「そんな事より、現場はどうなんです? そろそろ撤収作業も終わる頃でしょう」
蒼衣の前にあるモニターには、つい先程起きた事件の詳細な経過が記されていた。現地のPCと同期して、常に最新の情報が表示される仕組みだ。
「うん。イツキ達もそろそろ引き揚げるって。あと一時間もすれば戻ってくるでしょ……そうしたら、終わり! 帰れるのよ――――懐かしの我が家へ!」
そう。彼女は今日、休暇を取っていた。学園の仕事も事前に午前中までの半休を申請している。
「そうすれば、念願の手作りチョコが……灯夜の手作りチョコがあーしを待っているんだよっ!」
――――灯夜というのは、蒼衣の甥にあたる子だ。かつて倉橋が強引に見せられた写真に写っていた、日本人離れした銀髪の美少年である。
蒼衣の血縁者にどうしてそんな人物が存在するのか、
そして、彼女はバレンタインに彼からチョコレートを貰う事を心から楽しみにしているのだ。
……渡すのではなく、貰う方なのは何故なのかと思わないでもないが、倉橋は今更ツッコむ気にもなれなかった。
「そう、手作り! 今年は手作りなの! あの灯夜が……可愛い灯夜がわざわざ材料買って、湯煎で溶かすトコから始めるんだよ! くぅ~」
感極まったのか、両手を握りしめてぶんぶん振り始める蒼衣。そのご褒美だけが、今の疲労困憊した彼女を支えているのだろう。
「……はぁ、分かりました。後は私が見ておくんで、巡査は上がっていいですよ」
そう言ってちゃきっ、と眼鏡を直す倉橋を見て、蒼衣はきらきらとその瞳を輝かせる。
「え、いいの!?」
「出迎えくらいなら当直の私一人で充分です。それに、あと一時間も横でチョコチョコ言われると憂鬱なので」
やったー、と諸手を上げながら帰り支度を始める蒼衣。これでしばらくは静かな時間を過ごせるだろう……倉橋はほっと胸をなで下ろした。
「そういえば、帰りはどうするんです? タクシーですか? 今から呼ぶとなると結構時間かかるんじゃ……」
「その点は問題ナシ、よ。零時越えが確定した時点で、すでに“足”を用意してあるから!」
倉橋はひとつため息をつきながら、うきうきと作戦室を後にする蒼衣を見送った。
「“足”ですか。まったく、災難よね……彼も」
「お、いたいた! おーい、ヒコロー!」
大型駐車場に併設されたドライブイン。ここはこの学園で数少ない、男子禁制のルールから外れた場所だ。そこの休憩スペースの片隅に……彼は居た。
黒をベースに、シルバーとメタリックブルーで彩られたライダースーツを身に着けた、中肉中背の男。歳は二十代半ばに見える。
「……大声で呼ぶな。恥ずい」
「いーじゃん。他に客も居ないんだし」
「聞かれなきゃいいって問題じゃないが……」
彼の名は、
在学中から暇さえあればバイクに乗っていた彼は、どういう訳か知り合った蒼衣の“足”として何度も利用される事となり、その関係は共に社会人となった今もまだ続いていたのである。
「あ、そうだ! 忘れないうちに……」
蒼衣がハンドバッグをまさぐる。そして取り出したのは、綺麗にラッピングされた薄い小箱だ。
「ほれ、ハッピーバレンタイン~! いつもお世話になっておりますからね~。ささやかなお礼だよっ」
「お、おう……」
無表情で応じる土師。表情の変化が乏しい上に目つきが悪いせいで、何かと誤解を招いてしまう彼だが……長い付き合いのある蒼衣はそんな事お構いなしだ。
「なにさ、相変わらずリアクション薄いな~。もっと喜べってーの」
朗らかな笑みを浮かべながら、土師の手にチョコを押し付ける蒼衣。先程まで瀕死レベルに憔悴していた人物とは思えない回復ぶりである。
「……分かった、感謝する」
「んー、まぁいっか。それじゃいつもどーり、ウチまで頼むわ!」
ウキウキとスキップしながら出口に向かう彼女の後を追いながら、
「ささやかな……か」
誰にともなく、彼はつぶやいた。
大排気量のバイクが、深夜のハイウェイをひた走る。土師が所有する自慢の一台……蒼衣は車種までは把握していないが、そこそこ高級なやつだと聞いた覚えがある。
「……おい、起きてるか?」
「おー、なんとかね~。まぁ気絶してても問題はないと思うけど~」
「冗談じゃない。しっかり掴まっていてくれないと……困る」
実際、彼女は今までに何度も背中で寝落ちした事があり……土師はその度に肝を冷やしたものだ。
「うい~。あーそうそうヒコロー、お返しは三倍だかんね~」
「……三倍?」
「チョコよチョコ。三倍返しは基本でしょ?」
ああ、その話か……土師はヘルメットの中でため息をついた。ささやかなお礼という話は何処へ行ったのだか。
「そんな景気のいい時代、とっくに終わってるだろ……」
そう答えた時だ。蒼衣の懐から軽妙な呼び出し音が鳴り響いたのは。
「げっ」
「待ってろ。端で止める」
スピードを落としつつ、路肩に寄せてバイクを停める。彼女が帰宅途中に呼び出されるのは、割とよくある事だ。そして、その後の対応も大体同じ。
「――――あー、うん。了解しました……」
背中から聞こえる応対の声が、次第に生気を失っていく。どうやら、「今回も」らしい。
「はぁ。ヒコロー……目的地変更」
「…………おう」
――――結局、月代蒼衣は実家に辿り着く事は無かった。彼女の休暇はすべて深夜の妖事件への対応と、その事後処理に費やされたのである……。
「うう……非道い。年に一度のバレンタインだったのに~」
二月十四日……午後十一時。作戦室を訪れた倉橋が見たのは……前にも増して憔悴した蒼衣の姿だった。
「まあ、仕方ないでしょう。そういう仕事ですからね……それより、巡査にお届け物があります」
「んー、何?」
倉橋が手提げ袋から取り出したのは……可愛らしいリボンが巻かれた、ピンク色の小箱だった。
「これって……」
「ついさっきバイク便で届いたそうですよ。何でも、どうしても今日中に届けたかったんだとか」
……リボンに挟まれたメッセージカード。そこにはこう記されていた。
『大好きなお姉ちゃんへ。体に気をつけてお仕事がんばって下さい。あと、お酒は控えめにね?――――――――月代灯夜』
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