第49話 観客無き幕間劇
「……思っていたより、随分と早い。あちらの戦力を軽く見過ぎていたのかな?」
ここは富士の膝元、樹海の外れの高台のひとつだ。切り立った崖の上にあるそこからは、樹海内の学園の敷地が一望できた。
「大規模な術が使われた様子も無い。一体、誰がどうやって倒したのやら」
誰にともなく
だが、その体の厚みは明らかに一般人のそれには見えず、またそのような格好でこんな場所に居るのも不自然である。
「あれを倒せるような術者なんて、そうそう居る筈はないんだがねぇ……」
彼の見立てでは、学園にあの【廃れ神】――――古の御神刀が本当の神になる前に倒せる術者は、三人いた。
一人は、言わずと知れた四方院。あの家の守護獣である
憑依を果たした希少な妖をぶつけ、倒せぬまでも大きく
二人目は、学園所属のもう一人の霊装術者。その大規模な攻撃術式は、恐らく【門】そのものを破壊する事も可能だろう。
彼は出てくるとすれば彼女だと踏んでいたのだが……それらしい術が使われた様子が無い以上、違うようだ。
三人目は、ほぼ有り得ない。あの気分屋の事、万が一程度には有るというくらいか。
「あの大将サンは、あわよくば
ただ一人、相手が本当の神だろうと倒せる術者も学園には存在する。あの【廃れ神】が夜明けまで健在だったなら、その可能性もあったかもしれないが……
「しかし、分からないね……私の知らない術者がいるのか、それとも――――」
彼は学園に所属する有力な術者のデータは一通り揃えていたが、件の三人以外に【廃れ神】に対して有効な能力を持つ者は居なかった。
……正確にはもう一人、居たには居たのだが……その可能性は事前に
「――――君は、何か知らないかね? 折角の
虚空に向けたかに思えた、その呼び掛け。しかし……それに応じる者が居た。
「ほう、気付いていながら逃げぬとはな。それとも、そんな余裕も無かったのか?」
男の背後の茂みが割れ、一人の女性がゆっくりと歩み寄ってきた。シンプルなスーツに豊満な肉体を包んだ、三十路半ばの女。
街中ならいざ知らず、こちらも山歩きをするような格好ではない。
「いやなに、自分をわざわざ訪ねてきた女性を無下にしたくなかっただけさ……特に、こんな美女ともなればね」
振り向きながら、
長身に映える長いポニーテールが風に揺れ、月の光を受けて輝く様は幻想的ですらある。
しかし、彼女自身は己の美しさを誇るつもりなど皆無だった。手にした木刀を構え、じりじりと距離を詰める。
「抵抗しなければ手間が省けるのだが、そうは行くまいな。とりあえず骨の五、六本は覚悟して貰おうか」
その眼鏡越しの鋭い眼光は、男の一挙一動に油断なく注がれ続けている。不審な動きが見えたら、容赦なく打ち据えるつもりだろう。
「貴様には聞きたいことが山ほどある。逃げられるなどとは思うなよ!」
間合いギリギリまで、慎重に足を進めながら、彼女は――――
彼女は今夜一連の事件に関係していると思われる、この学園からの逃亡者を追ってここまで来た。しかしその追跡の間、ずっと奇妙な違和感を禁じ得ずにいたのだ。
自分が追っている存在、それは妖と結託した人間だと聞いていた。一部の術者の中に、そのような志の低い者達が居るのは知っていたが……
この男、術者という割には霊力が低いが、体術においては一級だ。ここまで何とか追跡してこれたものの、結局学園の敷地内では追い付く事ができなかった。
そして実際目の前に相対して感じた……その異質な気配。身体能力もそうだが、何か不可視の力の存在を匂わせるのだ。
だが、何よりも不可解なのは……彼女自身、その気配に覚えがあるという事だった。
――――似ている。しかし、あれはもう二十年近くも前の話だ。それに、奴はあの時確かに……
「フッ……怖いな。だが生憎、私もここで捕まる訳にはいかないのでね」
空気を切り裂く鋭い音と共に、男の被っていた帽子が宙に舞う。
「!!」
この間合い、見てからでは避けられぬ一撃だったはず。しかし、木刀の切っ先が男を捕える事はなかった。その寸前で、まさに紙一重で避けられていたのだ。
「……
ふわふわと舞い降りてくる帽子を事も無げに掴み取り、男はそれを元通りに被り直す。
「ふう。この間といい、また帽子に引っ掛けてしまうとは……私も少し
しかし車折の耳に、その言葉は届いていなかった。必殺の一撃が避けられたのもある。だがその一瞬、垣間見た男の素顔が……それ以上の衝撃をもって、彼女の心をかき乱していたのだ。
「ば、馬鹿な……貴様が何故!?」
それは彼女が天御神楽学園の術者となってから、初めて味わう強い動揺。遠い過去の記憶と、その時の激しい感情が一気に甦る。
「貴様は……貴様は死んだ! あの時確かに、死んでいる筈ッ!」
激しく
「そうか、あの時のお嬢さんか……綺麗になったものだ。見違えたよ」
「ふざけるなッ! 何故、貴様がここに居る! あの状況で、生き延びられる筈が――――」
そこまで言った所で、車折がはっと身を
「おや、邪魔をしてしまったかのう。これは失敬」
灌木の影から姿を現したのは、白いフード付きのマントを
「忍び込んだ
「……美国、か。お前が動くとは、どういう風の吹き回しだ?」
車折の緊張がわずかに緩む。乱入者は少なくとも、敵では無い。未だ底知れぬ存在とはいえ、それでも学園の敵に味方はするまいという確信があったからだ。
対して、トレンチコートの男は少女の登場に少なからず驚きを感じていた。今は
「御機嫌麗しゅう、
「ほう、
腕を組み、その年頃らしからぬ深い含み笑いを浮かべる少女。光の加減だろうか? その瞳が紅玉のように妖しく
「まあどちらにしろ、儂の庭で今夜の様な勝手をされては困るのじゃよ……久方ぶりに、面白くなってきた所なのじゃからの」
「はは、申し訳ない……だが本来、貴殿は学園とは無関係の存在。むしろ妖の側にある方が相応しいと存じますが、ね」
男の言葉に、少女はくく……と
「奴等の祭は古臭くてつまらん。それに……儂が許したとて、お主を追う者は減らぬぞ? ほれ」
少女がそう言った途端、何かが茂みを切り裂いて飛び出してくる。それは高速で回転する……鋭利で巨大な刃。
凄まじい速度と威力を持つであろうそれを、男は慌てた様子も無く避ける。
「やれやれ……こうも多くの女性に追いかけられるとは、男冥利に尽きると言いたいところなんだがね」
飛来物は大きく弧を描いて、再び茂みの方へ戻っていく。そして灌木の奥、背の高い木の枝の上に立っていた人影の手が……その巨大なブーメランをがしっ、と受け止めた。
「ルルガ・ルウ!」
車折が叫んだのは、奇しくもまた彼女の生徒の名だった。自分の身長ほどもある得物を掲げ、ぎらぎらとした視線を男に突き刺している少女。
その体は最低限の衣服しか身に着けておらず、むき出しになった褐色の肌に刻まれた刺青は、まるで自ら光を放つかのように輝いていた……まるで霊装術者の“呪紋”のごとく。
「流石に三人相手では身が持たないね。今宵はこの辺りで退散させて貰うよ」
そう言うが早いか、男は背後の崖へと身を投げ出した――――
「なッ!」
駆け寄った車折が見たのは、崖下に向け落ちていく男……その体が瞬く間に薄れ、消え失せる瞬間だった。
その背後からルルガと呼ばれた少女が唸り声を上げて飛び出し、巨大なブーメランを口に
「……あれは追いつけぬのう。どうやったかは知らぬが、気配そのものが完全に消え失せたわ。学園も厄介な相手を敵に回したものじゃな」
振り返った車折の前にはいつの間に近づいたのか、美国の姿。その言葉とは裏腹に、薄笑いの表情は微塵も変わっていない。
「美国……お前は奴について何か知っているのか?」
「いや、初めて見る顔じゃ。最も、向こうは儂を知っておったみたいじゃがの。それより……」
少女の瞳がきらり、と瞬く。
「あ奴については、担任殿の方が詳しいのではないかのう。見たところ、旧知の仲のようではないか?」
「…………」
「なぁに、言いたくなければ言わんでよい。儂も今はS組の一員。担任殿の流儀には従うとしよう……」
そう言うと、少女は背を向けて茂みの中へと歩み去っていく。冷たい風の吹く崖の上に残ったのは、今や車折一人となった。
「……あの時と同じ事が、また起ころうとしているのか? だとしたら、私はどうすれば――――」
その苦悩の呟きを聞く者は、誰も居ない。
――――狂騒の一夜、その終幕たる追跡劇は……こうしてその幕を下ろしたのだった。
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