第38話 秘術の代償

「……迂闊うかつだったわ。まさか、この術から逃げおおせる奴がいるなんて」


 わたしが見下ろした先にあるのは、広く浅い川。黒く澄んだその水面には、既に波ひとつ立ってはいない。


『水妖の術に、水面から別の水面に転移するというものがあります。川に入った瞬間に気配が途絶えたのは、恐らくその所為せいかと』


 成程、あやかし達も馬鹿ではない。自分達が逃れるための手段をちゃんと用意していたのだ。


「どの道、水の中に入られたら【黒ノ呪獄くろのしゅごく】の範囲外。迂闊うかつに追いかける訳にもいかなかったのだけど」


 妖術【黒ノ呪獄】……それは黒煙の結界によって敵の視覚、聴覚、嗅覚などの感知能力を阻害し、その上で結界内に居る者の霊力を吸い取って術者に与える……霊獣・ぬえの最大術式。

 平安時代末期、天皇の御所を襲った鵺が用いたと伝えられる……それは正に、恐るべき妖術。


 いかに強力な妖であろうと……いや、強力な妖である程吸収される霊力は膨大なものとなり、それは術者の戦闘力に加算されていく。

 また、その効果は結界内に入った全ての生物に適用される為、多勢で囲む戦術も通用しない。敵の数だけ、術者の力が増すだけなのだ。


 一度発動してしまえば、結界内の敵に対してはほぼ無敵。しかし、この術には……その強力さ故にいくつかの弱点が存在していた。


 その一つが、術の効果範囲である。術者を中心として発生した黒煙は直径約20メートルの半球状に広がり、その内部を暗闇に閉ざす。

 だが煙を媒体とする都合上、地面近くになる程闇は薄くなり、更に水中ではその効果も失われる。火のない所に煙は立たぬという訳だ。


『私はそれより、奴が市街地に向かわなかった事にほっとしています。そうなっていたら、少なからず犠牲が出ていたでしょうから』


 無敵の術である【黒ノ呪獄】を軽々しく使えないのは、その効果範囲の問題もある。この術には、敵味方を区別するなどといった高尚な機能は無い。結界内に入った者は妖であれ人であれ、無差別にその霊力を吸い取られる事になる。


 霊力を失うことは、妖と同様に人間にとっても命に関わるダメージとなる。その為、この術は人口密集地ではもちろん、他に味方がいる際にも使用が制限される、文字通りの最後の切り札なのだ。


「切り札を切った上で逃げられるなんて、大した失態だわ。これを知ったら愛音のヤツ、さぞ良いかお嘲笑わらうんでしょうね……」


『考え過ぎです、お嬢様……今はそれより、現状を確認する事が先決です』


「そうね。この結界の中じゃ、外がどうなってるかなんて解らないのだから」


 【黒ノ呪獄】の中を視る事ができるのはその術者のみ。しかし、その弊害へいがいとして術の最中は結界の外を知覚できなくなる。これもまた、弱点のひとつ。

 その為、先程のような結界外からの攻撃に対処するのは難しくなる。伝説上の鵺を破ったのも、黒煙の外から放たれた一矢だったのだ。


 そして、黒煙そのものが強力な探知阻害の妖力を帯びている影響で、この中では携帯電話等の連絡手段も全く機能しない。外の様子を知るには、術を解く以外にないのだ。


「雷華、いい? 【黒ノ呪獄】解除よ」

  

『――――了』


 発動した時と同じく、音もなく結界が弾ける。濃密だった暗闇が解け、夜の闇の中に霧散していく。


 それと同時に、わたしの霊装も解除される。短く走った閃光の後、目の前には……膝をがくりと着いてうずくまる雷華の姿があった。


「雷華!」


「……申し訳ありません。やはりまだ、反動を抑えられないようです」


 ――――この世界は異質なる力の存在を拒む。物理法則に反する魔術、妖術の行使は、同時に反作用とでも言うべき強烈な反動を伴うのだ。


 使う術が高度に、強力になる程その反動は大きい……単純な霊力消費の増加だけに留まらず、極度の集中による疲労で一定時間行動不能になってしまうリスクまで存在する。


 【黒ノ呪獄】のそれは、結界内で吸い取った霊力と引き換えにしてもなお、大きな負荷を生じさせるものだった。 


「雷華のせいじゃないわ。わたしが……わたしがもっと、同調できていれば」


 霊装の同調率が高くなれば、妖側の負担を均等、更には自分側に引き受けることまで可能になるはずなのだが……残念ながら、わたしはまだその域に達していない。


「少し休めば、また霊装できる程度には回復します。最も、その必要が無いのが最善なのですが」


「…………悪いけど、そうも言っていられない様よ」


 そう。わたしは見てしまった……学園の方角から天高く伸びた光の柱を。どうやらあの我捨とかいう妖の相手をしている間に、状況は大きく変動していたようだ。


 不意に、携帯の着信音が鳴り響く。懐から取り出したそれを耳に当てると、安堵と焦燥の入り混じった声が飛び込んできた。


『イツキ!? やっと繋がった……一体、どこで何してたのよっ!』




「――――学園内に、妖ですって!?」


 月代先生からの知らせは、わたしにとって正に寝耳に水だった。どういう経緯かは分からないが、学園内にある【門】のひとつがその封印を解かれ、そこから妖が現れたというのだ。


「一体どうしてそんな事に……学園の警備は何をやっていたんです!?」


『それがわかんないのよ! 結界に異常は見られなかったし、警備員も監視カメラも何も見てないって言うし。内部の人間の犯行……とは、考えたくないけど』


 学園内に入れる者はすべて、その身元が特定されているはず。結界を通れる妖も許可を受けた者だけだ。やったのが学園関係者だとしたら、すぐに足が付くだろう。

 それに、今は犯人探しよりも優先すべき事がある。


「取り敢えずは、現れた妖を何とかしないと……まさか見失ったりはしてないでしょうね?」


『それは大丈夫よ。ドローンで確認した限りでは、妖は【門】から動いていないわ。ただ、問題なのは……』


 携帯の向こうで、深い溜息が聞こえる。たっぷり数秒勿体着けてから、先生は再び口を開いた。


『現場で妖を足止めしてるのが、どうやら灯夜らしいのよ』


「えっ」


 最後の定時連絡では、灯夜は市街上空から愛音達のサポートをしていたはず。それがどうして学園に?


『アイネちゃんが街のスタッフに残した伝言によると、灯夜は「学園が狙われるかもしれないから警戒するように」と言い残して、一足先に戻ったみたいなの』


「なんで直接言わないんです? 愛音達はともかく、灯夜は携帯を持っているんでしょ?」


『それが……なんか落としちゃったみたいで。GPSの表示がずっと動かないから、何度も連絡してたんだけど』


 ああ、またどうにも面倒くさい事になってしまっている! なんであの子はこういう、想定外の危険に自ら飛び込んでいくのだろう?

 命令された訳でもないのに勝手に先回りしているなんて……わたしには理解できない。


「わかりました。行って助ければいいんですね?」


『待って、そっちは今アイネちゃん達が応援に向かってるわ。イツキ達はまず一度作戦室に戻って』


「どうしてです? わたし達だってまだ戦えますよ!」


 確かに雷華の消耗は激しいが、最悪彼女抜きでも戦う覚悟はできている。わたしは四方院の巫女だ。一人でもそこらの妖に遅れは取らない。 


『そうじゃなくて、渡したい物があるのよ。とにかく早く戻って来て!』


 それだけ言うと、ぶつりという音と共に携帯は沈黙した。


「……まったく、忙しい夜だわ。最後に最悪のイベントまで用意されてるなんて」


「ええ。まさかこんな形で学園を攻めてくるとは思いませんでした。今夜の事件そのものが、妖による大規模な陽動だったのですね」


 妖がここまで組織的に、かつ明確な目的を持って動いたのは……それこそわたしが生まれる前、前世紀末に起きた一連の騒動以来だろう。

 その時でさえ、学園の結界内に招かれざる妖を呼び込む事態には至らなかった。


 ――――学園の結界は絶対。わたし達術者が信じきっていたその裏を、奴等はいたのだ。


「東の妖大将が動いているというのも、これで納得だわ。強力な指導者の存在無くして、こんな犠牲を強いるような作戦は成立しないもの」


 あの土蜘蛛は、これが夜行だと……それも、ほんの先触れに過ぎないと言っていた。


「初手で敵の本丸を衝くなんて……わたし達は、とんでもない化け物を相手にしているのかも知れないわね」


「はい……ですが、今は」


 上空から爆音が近づいてくる。先生がヘリを手配してくれたのだ。これでもう少しは、雷華を休ませてやれる。


「そうね、今は……まず学園へ戻らないと。後の事は、この忌々しい夜を終えてから考えましょ」


 闇を切り裂いて、サーチライトがわたし達を照らし出す。頭の上でホバリングするヘリの側面が開き、縄梯子が投げ降ろされる。


「愛音様が助けに向かったとはいえ、灯夜様の安否が気にかかります。無事ならよいのですが」


 ……灯夜。学園の守りが絶対であるという先入観を持たないあの子だけが、いち早く妖達の真意に気付いていた。


 思えば前の事件の時も、灯夜はわたし達より早くシルフと接触し、サラマンダーとの戦いに介入した。ウンディーネと最初に戦ったのも、彼の方が先ではなかったか。

 やはり、あの子は何か“持って”いる。訓練では鍛えようのない、天性のカンのようなものが……灯夜にはあるのではないか。


 妖が視えるだけでなく、それに抗しうる力を手にし、戦いの中でその才能を開花させていく……それは果たして、彼自身にとって幸せな事なのだろうか?


 少し不憫ふびんに思わなくもない。だが、それは妖と関わってしまった人間の宿命でもある。手にした力は、正しく使われねばならないのだ……使いたくても、使えない者達のために。


「きっと大丈夫よ。たった一週間とはいえ……あの子は、わたし達が直々に鍛え上げたのよ?」


 半分は雷華に、もう半分は自身に向けて、そう言い放つ。


「無事で居なさい。でないと……承知しないんだから!」

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