第17話 救いの言葉
実を言うと、目覚めようと思えばいつでもできたのだ。ぼくの意識は混沌の暗闇をすでに抜け出し、覚醒の一歩手前をたゆたっていたのだから。
そこから先に進まない――――進みたくないと思ってしまうのは、起きたらまた向き合わなきゃならない問題があるから……というのももちろんある。
けれどその理由の大部分は、今のこの状態が何とも言えず快適で……目覚めるのがもったいないと感じてしまう事に他ならない。
それは……柔らかさと適度な弾力を兼ね備え、かつほのかに暖かくぼくの頭を包み込むように支えている。
さらにどこからか伝わってくる規則的な振動が、その柔らかさを深く実感させてくれるのだ。
目覚めたくない。そう願いつつも意識は次第に夢うつつの世界を離れ、急激に覚醒し始める……残念。どうやらこの幸せな時間はここでお終いのようだ。
諦めて目を開けると、ぼんやりと霧のかかった視界に入ったのは……ふたつの大きなふくらみと……その向こうから覗く、優しい微笑み。
「お目覚めですか、灯夜様」
耳から染み込んでくるような、甘いささやき。一瞬、夢の続きかと思いながらも……ぼくの脳細胞の一部は的確に現状を把握し、その計算の結果は全身の神経に光の速さで伝達された。
「……雷華さ、うわぁあ!」
ぼくは稲妻のごとく跳ね起きた。ほんの一刹那の間に心臓はばくばくと脈打ち、顔面が熱を帯びていく。
把握……してしまった。ぼくが今まで、どのような状態にあったのかを。
「あら、そんなに慌てて起きなくても……」
ぼくの隣に座っているのは、雷華さん。樹希ちゃんのパートナーで、綺麗な黒髪のお姉さんだ。
四方院家での修行の日々では、樹希ちゃんと一緒にぼくに様々な知識と経験をもたらしてくれた、いわば恩人。ひたすらスパルタ一直線の樹希ちゃんと違い、終始優しく、分かりやすく教えてくれた……この一週間、逃げ出さずにいられたのは彼女のおかげと言っても過言ではない。
その雷華さんとぼくは、今ひとつの長椅子に一緒に座っている。だが、ほんの数秒前までは……ぼくの身体は長椅子にまっすぐ横たわっていたのだ。そう、雷華さんの太ももを枕にする形で――――
「学園まではもう少しかかりますから、そのまま横になっていて構わないですよ?」
「いっ、いえ! もう十分ですからっ!」
どうりで目覚めたくならない訳だ。ハッキリ言って、雷華さんは美人だ。ぼくが今まで出会った女性の中でも、トップクラスの美女。しかも年上で大人で……出るところも出てたりするから余計に、さっきまでの状況がいかにご褒美だったかが分かる――――こんな色っぽいお姉さんの膝枕なんて、一生涯にそう何度もありはしないはずだ。
けど目が覚めた後でもう一度、なんて事は流石にお願いできない……もったいない話ではあるが、羞恥心が上回る。中学生になりたての男子には、少々刺激が強すぎるのです……
「えっと、ここは……」
ぼくはそばのテーブルに置いてあった眼鏡を掛けて、現状を確認する。どうやらぼくは、四方院家のヘリコプターで運ばれているらしい……前に乗った機体はウンディーネに撃墜されてしまい、今は予備の機体を使っているという。
あと、眼鏡が乗っていたテーブルの上では、しるふがタオルケットに首まで潜り込んで寝息を立てている。どうりで静かだった訳だ。
「そういえばぼく、いつの間に眠って……」
「お倒れになられたのですよ。私達が着いてすぐに」
倒れた!? 確かぼくは、あの謎の魔法少女から
「御免なさいね。本当ならちゃんとしたベッドがあるのだけれど……」
そう言った雷華さんの視線の先には、人ひとりは入れそうなサイズの
そして、その中に居るのは……
「良かった。無事だったんだ……」
あの時の、妖の子供たち。全部で四匹、欠ける事なく揃っている。
「ええ。お嬢様が灯夜様の意思を尊重するように、という事で。流石に母親の方は手遅れでしたが……」
母親は、すでに致命傷を負っていた。可哀想な事になってしまったけど、この子供たちが無事だっただけでも……良かった。
「けれど灯夜様。今回の件、術者の振る舞いとしては少々問題がありますよ。妖を助けるために己を犠牲にするなど、術者のする事ではありません」
厳しい顔で、雷華さんはぼくを戒める。確かにその通り。術者が救うべきは妖ではなく、人だ。それには当然、自分の命も含まれる。
「すいません……でもぼく、どうしても黙っていられなくて」
理屈では分かっていても、感情が分かる事を拒んだのだ。ぼくは……やっぱり間違った事をしたのだろうか?
「お優しいのですね、貴方は……」
そんなぼくを見つめながら、雷華さんは再びにっこりと微笑むと、
「術者の師としては咎めるべき行動ですが……妖である身としては、少し嬉しくもあります。灯夜様にとって、妖は憎むべき敵では無いのですね」
――――そうだ。美人のメイドさんのイメージが強くてつい忘れそうになるけど、雷華さんは妖。四方院家に仕える霊獣
「あの……雷華さん、ぼくは……」
けれどぼくにとって、彼女はやっぱり“優しいお姉さん”。正体がどうとか、関係ない。
「ぼくは……【魔法少女】になって、その…………嬉しかったんです」
その優しい微笑みに甘えてしまったのか、気が付けばぼくは彼女に……心の内を打ち明けていた。
「いや、女の子の格好をするのが嬉しいわけじゃなくて……すごい力が手に入って、今までできなかった事ができるようになったのが、です」
雷華さんは、ただ黙ってぼくの告白を聞いてくれている。そう、雷華さんはちゃんと話を聞いてくれる人だ。適当に相槌を打ったり、上の空で聞き流したりはしない。
「今までは諦めるしかなかった事が、友達を助けることができて……この力があれば、もっと多くの人を助けられる。みんなを幸せにできる。アニメに出てくるような、本物の【魔法少女】に、ぼくはなれたんだって……そう思っていたんです」
だから、聞いてほしかった。お
「でも、そうじゃなかった。妖を相手にする術者としては、ぼくは全然未熟で……実力も心掛けも、全然できてなくて……」
不意に……涙が溢れてくる。自分が情けなくて、やり切れなくて。
「……さっきだって、あの魔法少女相手に手も足も出なかった。ぼくは……自分で思っていた程万能でも、強くもなかったんです。それなのに」
「灯夜様……」
「意地を張って、最後まで諦められなくて……ぼくは、ぼくは認めたくなかったんです。自分がどうしようもなく、無力なままだったって事を……!」
超常の存在、【魔法少女】……それだって結局は、しるふの力に頼ってのこと。ぼく自身が強く、偉大になったわけじゃない。
それを勘違いして、できもしない事ができると安直に考えていた自分が……どうしようもなく許せなかった。
「……灯夜様!」
突然、柔らかな感触がぼくを包み込む。雷華さんの両腕がぼくを抱き寄せ、その豊満な胸に押し込んだのだ。
「むぎゅ……えっ、ちょっと!」
顔面をもろに襲う強烈な柔らかさと暖かさ、なんか大人の女性のいい匂いとかがいっぺんに押し寄せて……ぼくの脳内は瞬時に沸騰していた。
「そう自分を卑下なさらないで下さい。灯夜様はまだ術者の道を歩み始めたばかり、未熟で当然です」
「でも、ぼくは……」
「貴方は優しい方。だからどうか、優しくあることを悔やまないで下さい」
――――それは、救いの言葉。どろどろとした自己嫌悪の闇に沈もうとしていたぼくを照らした、一筋の光。
「雷華さ……でも、ぼくは間違って……」
「灯夜様。貴方は間違ったのではありません。ただ少し、力が及ばなかっただけ。正しく事を成すには相応の力が要るのですよ。己の無力を悟ったのなら――――強く、おなり下さい」
抱きしめていた腕が緩み、ぼくは甘美なる拘束から解放される。
「どうにもならない事をどうにかしたいなら、その為の強さを手に入れることです。貴方はまだまだ成長の途中。心も体も、これから強くするのです」
「雷華さん……」
彼女は優しい人だ。けれど、だからといって甘やかしてはくれない。ぼくにとっての優しいお姉さんは、同時に厳しい師匠でもあるのだから。
「私もお嬢様も、その為のお手伝いをさせて頂きます。灯夜様が思い描いたような……立派な【魔法少女】になれるように」
にっこりと、どこまでも優しい微笑み。改めて彼女に出会い、教えを乞う事ができて良かったと思う。
「雷華センパイ! そろそろ着きますよ~」
ヘリの操縦席からメイドさんの陽気な声が響く。どうやらこの優しさに包まれた時間にも、終わりが訪れるようだ。
「分かりました――――そういえば灯夜様は今日から寮の方へ移られるのでしたね。荷物の準備はできていますか?」
あ、そうだった! 学校が終わったら移動するつもりで一応荷物はひとまとめにしておいたけど、まさか帰りがこんな夜遅くになるなんて思ってなかったから……
でも今のぼくにとっては、かえって好都合だ。何もせずじっとしていたら、あれこれ余計な事を考えてしまうだろうから。
「学園の方から連絡がありました。何でも担任の先生がお車で迎えに来ているそうですよ」
えっ、担任の先生って……車折先生の事? 一体どうして――――まさか門限破りだとか言われないよね……?
ぼくの不安をよそに、ヘリは高度を下げ……着陸態勢に入っていた。
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