第50話 スタート・ライン

 脳髄を焼くような眩い閃光、そして激しい衝撃が体内を駆け抜ける。意識の半分がぶつり、と断ち切られる感覚と共に、私の身体は宙に投げ出されていた。


 急激に四肢の感覚が戻ってくるのと同時に、凍えるような寒さが全身を襲う……そう言えば今はまだ三月だったっけ。こんな季節にびしょ濡れのまま外に放り出されれば寒いのは当たり前。凍死したって文句は言えないだろう。


 自分の身に危機が迫っているというのに、どこか他人事のように感じるのは……

 ついさっきまで、私が私であることを放棄していたからに他ならない。


 受け止め切れない苦しみから逃れるために、自分でないモノにその身を委ねていた……泥のようにねばつくぬるま湯に浸かって、一時の安息を得ようとしていた私。


 けど、それも終わる。夢が必ず覚めるのと同じく、私はまた現実へと引き戻されていく。ふわふわとした浮遊感がゆっくりと消え……やがて落下へと転じる。

 どこまでも落ちていく、永遠のような一瞬。


 その一瞬を断ち切ったのは、絶命の衝撃ではなく……柔らかな二本の腕だった。


「静流ちゃん!」


 肌の触れた場所から温もりが広がって、凍えかけた体が癒されていく。


「月代、君……」


 あふれ出す涙で歪んだ視界いっぱいに映る、美しい少年の顔。月明かりに照らされて輝く……神秘的な銀色の髪。

 私を抱きかかえて星空を舞うその姿は、まるで妖精の国の王子様のよう。


 その澄み切った瞳が私を……私だけを見つめている。それはさっきまで見ていた悪夢とは正反対の、幻想的な光景。


 このまま永遠に、彼と見つめ合っていたい……

 心に沸き上がるのは、そんな欲望。 背筋に冷水を浴びせられたような悪寒に、私は戦慄した。


 ――――いけない。私はそんな幸せを求めてはいけないのだ。もう、そんな資格はない。私には、もう……


「「あのっ」」


 ……見事に、ハモってしまった。どうして月代君が相手になるとこうも上手くいかないのだろうか……いつも完璧な優等生を演じている私が。


「し、静流ちゃんからどうぞ……」


 そして彼はこちらがリアクションを起こす前にいち早く引き下がっている。気を遣ってくれているのはわかるのだけど、今までの流れ的に私がそれを強制しているようで……なんだかバツが悪い。


「月代君から言って。言いたい事があるんでしょ? あなたに助けられたんだから、聞く義務があるの……私には」


 そう、私は聞かなければならない。月代君を追い詰め、無茶をさせたのは私のせいだ。彼にどのように罵られようと、一言一句聞き逃す事は許されないのだ。

 罰は……受けなければならない。


「そ、それじゃあ、言うね……」


 戸惑いながらも、口を開く月代君。目をつぶって、私はその瞬間を待った。


「その、えっと……ごめんなさい!」


 ――――耳を打ったのは、またしても謝罪の言葉。私の頭が静かに沸騰していくのが分かる。欲しいのは謝罪じゃなく、罰だ! 私は罰せられなければならないのに! 私を罰せるのは、あなただけなのに!


「月代君、どうしてあなたは謝るの! 人を助けておいて、謝る理由がどこにあるって言うの!?」


「あ、いやそのっ! ぼくに助けられるのは嫌かなって……」


 いかにも申し訳なさそうにうつむく彼。


「静流ちゃんはぼくの事……嫌い、だよね? だから……」


「嫌いな訳、無いじゃない! 私が聞きたいのはそんな事じゃなくて……」


 勢いでまくし立てた後で、はっと気付く――――思わず、本音を出してしまった事に。


 私は、綾乃浦静流あやのうらしずるは月代君と距離を置くと決めた。それは私の存在が彼を傷つけ、けがしてしまう事を恐れてのこと。

 けれどその意図を知られてしまえば、彼はきっと私から離れてはくれないだろう。それでは駄目なのだ。


 だから、私は口をつぐんだ。何も告げないまま、素っ気ない態度を取り続けた。彼が諦めるまで、そうするつもりだった。


 ……本当に彼の事を思うなら、もっと良い方法があった。そう、「嫌いだ」とでも言えばいい。ハッキリと言い切ってしまえば、それで終わりにできたはず。


 その一言を言う勇気がなかったせいで、余計な迷惑をかけてしまったというのに、私は……


「……静流、ちゃん?」


 蒼氷色アイスブルーの瞳が、まっすぐに私の眼を射抜く。純真無垢を体現するかのようなその眼差しの前では、もう隠し事なんて出来ない。

 彼のその瞳の前で噓をつくなんて、最初から無理な話だったのだ。


「謝らなきゃいけないのは、私の方よ……ごめんなさい、月代君。私のせいで、いっぱい迷惑をかけて……」


 涙が、溢れてくる。とめどなく湧き上がる、涙と……想い。


「……冷たくして、ごめんなさい。話を聞かなくて、ごめんなさい。月代君は何も悪くないの……悪いのは、ぜんぶ私なの」


「静流ちゃん……」


「だけど、ひとつだけ……これだけは、信じて。 私は、あなたを……月代君を嫌いになった事は、一度だって無いの。だから――――」


 もう、止まらない。止められない。神の前で懺悔する罪人のように、私は本当の気持ちを……


「――――許して。駄目な私を、あなたを傷つけた私を、許して……」


 本当の願いを、打ち明けた。


 ――――永遠にも感じる、数秒の沈黙。それを破ったのは、不意に頬を打つ暖かい雫。


「良かった……ぼくはずっと……嫌われてるって、思ってた、から……」


 泣いていた。月代君は泣いていた。私がひどい言葉を浴びせた時も、必死に涙をこらえていた彼が。


「静流ちゃんを助けられただけで、良かったのに……嫌われてもいいって、思ってた、のに……」


 ぽろぽろと真珠のような涙をこぼしながら、彼は……にっこりと微笑んだ。


「やっぱり……嬉しいや」


 私は、間違っていたのだろう。最初からこうするべきだった。自分勝手に理不尽を押し付けるのではなく、全てをさらけ出していれば良かったのだ。


 彼を傷つけたくない。その思いは同時に、彼自身の強さを軽く見ているという事を意味する。私は、無意識のうちに思い込んでいたのだ……彼は弱いと。お姫様のように、守られるべき存在なのだと。


 けれど、今は違う。私を救ってくれた彼……その行いにふさわしい、王子様の衣装を纏った彼。かつて学芸会で演じた役割とは、全く立場が逆転してしまった。

 そう。彼はもう……守られるだけのお姫様じゃない。


 少し、寂しいけれど……誇らしくもある。私がしばらく見ない間に、彼は立派に成長していたのだ。


「月代君、お願いが……あるの」


「ぐすっ……なあに、静流ちゃん?」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐいながら答える彼。そんな仕草も、また愛おしい。


「今更こんな事を言うのも何だけど……私と、友達になってくれる? ほ、ほら! さっき私、友達じゃないなんて言ったでしょ! だから……改めて私から、お願いしたいの」


 神妙な顔で見上げる私に、彼は、


「もちろんだよ! ぼくもずっと……静流ちゃんとまた、友達になれたらなって思ってたから!」


 最高の笑顔で、そう答える。


 暖かな、銀色の月明かりの下で、私は――――




 ――――私たちは再び、友達になった。

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