第45話 魂の泥濘

 ずっと、夢を……見ていた。


 ただ真っ暗な世界の中、体の感覚も無く……ただ意識だけがそこにある。そしてその意識が、私を責め立てる。私が彼を……月代灯夜をどれだけ傷つけたのかを責め続ける。


 夢というなら、それは紛れもない悪夢。出口の無い迷宮に魂を囚われたかのような、逃れようのない悪夢の中に、私はいた。


 この責め苦は、いったいいつまで続くのだろうか? これが犯した罪に等しい罪科だとするなら、私はどれだけ罪深い存在なのか。


 月代君の心を傷つけただけでなく、先程はついに手をあげてしまった。自分の悪評を聞かれたのが辛くて、悔しくて……気が付けば彼に平手を見舞っていたのだ。


 そして私は逃げた。生まれて初めて直面した、自分ではどうしようもない状況に……私は迷うこともせず逃げ出していた。


 自分という存在がいかにちっぽけで、取るに足らない卑小なものなのか。

 彼を見るたびに、私は思い知らされる。優等生などと言われて舞い上がっていた自分が馬鹿に思えてくる。

 特別とは、月代君のような二人といない尊い存在の為にある言葉であり、私のような人間がどれだけ頑張っても、その足元にも及ばないのだ。

 そう、私が彼に近づいた事自体、今にして思えば大きな過ちだったのだ。


 自責と悔恨の泥沼に、心が沈んでいく。魂がどろどろと溶けていく。生きているのが、辛い……私が私でいる事に耐えられない。


 いっそ、消えてしまいたい――――そんな事さえ願った私に、“それ”はこう答えた。


『ナラバ、キエテシマエバイイ』


 体も、魂さえも、コーヒーに浮かべた角砂糖のようにじわじわと浸食され……溶け崩れていく。自分が自分であるための、決定的な何かが失われていく。

 それは苦痛であると同時に、ある種の安らぎを私にもたらしてくれた。


 もう、自分でいなくていい。苦しみも悲しみも後悔も、すべて“それ”に預けてしまえばいい。

 私が私でいるための……優等生の委員長でいるための努力なんてもう、必要ない。


 ――――そうして私は、“それ”の一部になった。綾野浦静流という存在はもう居ない。月代君を傷つける悪い女の子はもう、どこにも居ないのだ。


 これで、安心できる……もう罪を重ねずに済む。そう思ったのも、ほんのつかの間のあいだだけだった。



 “それ”の操る水の柱が、空を舞う月代君目がけて襲いかかる。何度も何度も、悪意と憎しみのこもった攻撃を繰り返す。


 違う! 私はそんな事をするために“それ”になったのでは無い! 月代君を傷つけたくない。私はその一心で……


 ……違う。私はただ、逃げただけだった。自分の痛みから、苦しみから。自分のすべてを委ねるという事は、すべての選択肢を放棄するという事だ。


 今の私にはもう、したくない事をしないでいる自由さえ無い。わかっていたはずだった……ただ逃げるだけでは、何も変わらないと。

 どこまで逃げようと、現実からは逃げられない。逃げれば逃げる程に、むしろ状況は悪くなっていく。


 自分の責任に目をつぶり、苦しみから逃避した愚か者に……天罰を与えるかのように。



 そして唐突に視界のすべてが白い閃光に包まれ、“それ”の意識が途絶える。同時に私の意識も暗い深淵へと落ちていく。

 これが、終わりなのか? これで、終わってくれるのか。


 しばしの……沈黙。遠くで、声が聞こえた気がする。聞き違えようのない、月代君の澄んだ美声こえ


 ――――静流ちゃんは悪くない。


 彼はまだ、そんな事を言っていた。明らかに事実と違う、間違った認識。けれどその言葉を嬉しく思ってしまうのは……私の弱さの現れなのか。



 再び視覚が戻った時、私、いや……“それ”は湖にそびえ立つ巨大な存在に姿を変えていた。

 そして湖岸に並ぶ建物を、怒りにまかせ手当たり次第に破壊していく。どうしようもない程の怒りと、憎しみが私の中を駆け抜けていく。


 ――――憎い。人間が憎い。人間の作った物が憎い。


 両腕から伝わる破壊の感触が、私を昏い喜びで満たしていくのがわかる。そうだ、壊せ。何もかも壊してしまえ。この力があれば、すべてを壊してしまえるのだから。


 やがて黒い翼を持った少女が視界に入った時、怒りと憎しみはその一点に収束した。憎き敵。自分に屈辱を与えた存在……こいつに、復讐するのだ!


 少女が雷を投げかけてくるが、同じ手は二度と食わない。身体を構成する水の純度を上げることで、中枢……水の精霊ウンディーネ本体へのダメージを遮断する。


 しかし、黒翼の少女の猛攻は止まらない。頭上より飛来した雷の掌底が炸裂し、身体の半分が吹き飛ばされる。

 激しい痛みを感じると同時に、増幅される憎悪。咄嗟に中枢を逃がしたものの、ダメージは大きい。


 ――――これを食らい続けたら、危ない。


 危機感を覚えたのは、ほんの一瞬だった。あるではないか……敵の攻撃を無力化する、上等な盾が。


 不意に、体が浮き上がる感覚。そして……



 ざばぁ、と顔が水面を突き破る。熟睡していたところを無理矢理起こされたような不愉快さ。まだ夢の続きを見ているような、ぼんやりとした意識の中で。


 ……遠くから、何か聞こえてくる。さっきと同じだ。月代君が、何か言っている。


 ――――嫌だ、聞きたくない! そんな思いと裏腹に、急激に意識が覚醒していく。月代君は、私を責めるだろう。逃げた私を……弱い私を責めるだろう。

 彼を想ってしたつもりの事がことごとく裏目に出た挙句、彼自身を深く傷つけてしまったのだ。もう言い逃れはできない。私は、罰を受けるのだ。

 ……月代灯夜その人によって、断罪されるのだ。


「――――静流ちゃん! 目を覚まして、静流ちゃん!」


 気付けば、彼は私の目の前にいた。時が止まったかのような静寂の中、私は彼と向かい合っていた。


「……月代、君」


 私は覚悟を決めた。これから彼に、どのように罵られようと……すべては私のせいだ。全部受け止め、心が壊れたとしても……自業自得だ。


「良かった! ぼくが絶対助けるから、諦めちゃダメだよ!」



 ――――何を、言ってるの?


「何か方法があるはずだよ! だから、心配しないで!」


 何を言ってるの!? 私は罰を受けて当然の人間なのに! あなたに裁かれるのを待っていたのに! どうして……


「……どうして、そんなに優しいの?」


「静流ちゃん?」


 一点の曇りもなく私を見つめる、月代君の眼差まなざし。


「やめて! そんな目で私を見ないで! 私には……そんな資格、無い!」


「静流ちゃ……うわっ!」


 私の腕が――水の巨腕が月代君を掠める。私の意思に反して……いや、彼を遠ざけたいという意思を曲解しているのか。


「逃げて! 助けるなんて……あなたには無理よ!」


 二度、三度と振り回される巨腕をかいくぐり、月代君はなおも離れようとしない。駄目だ。これ以上は……これ以上、彼を傷つけたくない!


 少し迷った後、私は言葉をつむいだ……これが彼に刻み込む、最後の傷になる事を祈って。


「君と私は友達でも何でもないでしょ! 分かったらもう、私に構わないで!」

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