第37話 “憑依”対“契約”

 「それ」は思わぬ幸運に感謝していた。


 自分と霊的に相性が良く……かつ高い霊力を持った“餌”。それが二匹も自分のテリトリーに踏み込んできたのだ。


 隠れ潜みながら英気を養っていた「それ」にとって、まさに僥倖と言ってよい。水の触手を伸ばし、まず一匹を捕える。そしてもう一匹も……


 いや、こいつからは別の精霊のニオイがする。既に手をつけられた後か。ならば……要らない。


 水の触手――――その太さはもはや“触腕”と呼ぶべきか――を振るい、もう一匹の人間を叩き落とす。この高さからではまず助かるまい……こいつに手をつけた精霊ヤツはさぞ悔しがるだろう。


 くく……全身に満ち溢れる力を感じながら、「それ」――――水の精霊ウンディーネはほくそ笑んだ。これ程上質な“餌”が自ら飛び込んでくるとは。


 ただ喰らうだけでは、惜しい……ウンディーネは“餌”の、人間の少女の精神こころに霊力の触手を伸ばす。


 本来ならば幾重にも張られている筈の心の防壁。しかしこの少女のそれはぼろぼろの穴だらけもいい所だった。直近に大きな精神的ダメージでも負っていたのだろうか?


 ウンディーネにとってはそんな事はどうでも良く、むしろ好都合だった。少女の精神の奥深くまで浸食し、深く根を伸ばし広げる。意識が無い為完全な契約には至らないが、“憑依”の完成にはそれで十分だ。少女の意思など……関係ない。


 少女の身体を完全に支配し、その霊力が全身に満たされた時。ウンディーネはかつてない全能感に包まれた。この力をもってすれば、人間達に汚された地から逃れる事はたやすい……いや、その前に――――


 復讐だ。ウンディーネは永く囚われた屈辱を忘れてはいない。内にわだかまる怒りをおさめるには、相応の代償をもってする他は無いのだ。



 そんな時だ。上空から不快な気配が近づいてきたのは。


 これは明らかに先日の風の精霊シルフのもの……いや、それにしては霊力が大きすぎる。この霊力量は今の自分自身に匹敵する程ではないか!


 やがて眼前に舞い降りたその姿を見て、ウンディーネは納得した。シルフも人間と契約していたのだ……先程叩き落とした、もう一匹の“餌”と。


 それも、自らの自由を放棄した人間主導の契約だ。愚かとしか言いようがない。

 己の真の力を、己自身が自由に使えてこそ契約の意味があるというもの。シルフが何故そのような選択をしたのか、ウンディーネは理解できなかったし……したいとも思わなかった。


 そしてウンディーネは決めていた。こいつ《シルフ》を叩き潰すと。人間達への復讐の前座として、人間の走狗と化した愚かな精霊に思い知らせてやるのだ。己の選択の誤りを、そして再び自分の前にのこのこと現れた無謀さを!


 既に問答は無用だ。生け――人間達が“プール”と呼ぶそこから蝕腕を伸ばし、シルフとその契約者に向けて叩き付ける。敵は再び宙に舞い攻撃をかわすが、それも予想済みだ。


 数本の蝕腕が新たに立ち昇り、空中の敵に襲いかかる。契約したシルフと憑依したウンディーネ……戦力においてはほぼ互角の筈だが、実際のところは違う。


 風を力の源とするシルフは、どんな状況でも安定して力を使える反面、極端に大きな力を振るうにはより多くの霊力を必要とする。

 対してウンディーネは十分な水量がなければ力を発揮できない。しかし、水さえあれば同じ霊力でより大きい力を行使できるのだ。


 ――――地形を選ばないのは確かに強みではあるが、それでは得意地形にいる者に絶対勝てない。


 プールサイドに仁王立ちしたまま、幾束もの蝕腕に追い回される敵契約者を眺めるウンディーネは……勝利を確信していた。水場にいる水の精霊に挑む事自体、愚か極まりない行為なのだ。


 この調子なら数分もすればカタがつくだろう。蝕腕を操りながら……くくく、とわらう。目障りな乱入者が自分の前に屈するのも、時間の問題だ――――



 ――――その、筈だった。


 ウンディーネは焦っていた。まさか、数分間にも渡って全ての攻撃を回避されるとは思っていなかったからだ。


 それも、ただ避けられるだけではない。こちらの攻撃に対し、敵は最初大回りで全力回避していたように見えた。

 しかし、今は違う。決して遅くは無いスピードで迫る複数の蝕腕が、ほんの紙一重の差で避けられている。まさか、こんな短時間でこちらの攻撃の癖を見抜いたとでもいうのか?


 焦りが激しい怒りに変わり、蝕腕に一斉攻撃を命じようとしたその時。めまぐるしく飛び回っていた敵契約者の動きがピタリと止まった。まるで攻撃を誘っているかのように空中で両手を広げたその姿を見て、ウンディーネの怒りは頂点に達した。


『――――!!』


 形容しようの無い奇声を発しながら、最大数の蝕腕を操作する。天高く立ち昇った水流が上空から敵を包み込むように落下していく……前後左右全てを塞ぐ、回避不能の攻撃。


 轟音と共に飛び散る、激しい水しぶき。それはすなわち、命中したという事だ。


 ――――愚か者め! ウンディーネは嘲笑した。結局のところ、避け続けるにも限界があったのだ。疲弊しきった奴は潔く止めを刺される事を望んだに違いない。


 だが、ウンディーネの笑みはすぐに引きつったそれに変わる。水煙が治まった時、そこには先程と変わらぬ敵の姿があったからだ。


 馬鹿な、蝕腕は確かに奴を捉えた筈――――憑依された少女を通して凝視するウンディーネ。その眼が捉えたのは、ほんのわずかな異常だった。


 空気が、歪んでいた――――敵契約者の周囲、直径二メートル程の空間が、まるでレンズを通したかのように歪んで見える。

 この様な現象が起こる理由はひとつしかない。敵は自らの周りに高密度の空気の壁を築いたのだ。叩き付ける水流の腕をも弾く、凄まじい密度の壁を。


 おのれ、小細工を――――ウンディーネの怒りは既に頂点を超え、まさに沸騰せんばかりだった。もはや手加減など必要ない。憑依を通して得た全霊力をもって……叩き潰す!


 プールの中心が渦を巻き、今までとは比較にならない程の巨大な水柱が屹立きつりつする。この場に存在する水量のほとんどを使った、ウンディーネの切り札だ。


 これだけの質量をもってすれば、いかに高密度とはいえ空気の防壁など、軽々と押し潰せる筈――――ウンディーネの怒りを乗せた極大の水柱は、水龍のごとくうねりながら敵に突進する。


 ここで、敵契約者が動いた。逃げるでも隠れるでもない動き……左右に開いた手をゆっくりと正面に回し、掌を打ち鳴らす。


 自分のすぐ脇を鋭角な何かが駆け抜けた時、ウンディーネは何が起こったか理解できなかった。

 次いで起こったのはごう、という突風。そして、眼前で極大の水柱が中央から真っ二つに割れて砕け落ちる光景を見て、水の精霊は味わっていた……未だかつて、感じた事のない悪寒を。


 敵は防御に使っていた高密度の圧縮空気を、攻撃に用いたのだ。解き放たれた空気は鋭い刃となって、ウンディーネの攻撃を打ち破った。



 ――――何かが、おかしい。互いに契約、憑依しているからには条件は同じ。むしろ水場にいるウンディーネの方が有利である筈だ。


 だが、現実にウンディーネは追い込まれていた。先程の攻撃……あれはわざと外したのではないか。その気になれば、憑依した少女ごと両断できたのではないのか。


 どういう事だ! 一体何が計算を狂わせたのか? そもそもシルフがこんな戦術を使うなど聞いたことがない。逃げ足だけが自慢の精霊に、こんな芸当が出来る筈……


 水の精霊は遂に思い至った。自分と敵の間にある、決定的な戦力差……その根源に。


 ――――“人間”の差かッ!――――


 人間を憑依の対象として、言わば燃料タンクのように扱っているウンディーネに対し、シルフは人間に行動の自由を与える事で、その知識を活用させたのだ。


 それだけでは無い。ウンディーネに理不尽な恐怖をもたらしている、不可解極まる事象がある。

 それは、あれだけの力を行使したにも関わらず、敵契約者の霊力がまるで減っていない事。むしろ接敵した時より大きく膨らんでいる事だ……契約を引き金として潜在的な霊力が引き出されることはあれど、ここまで急激に増加した例をウンディーネは知らない。



 ――――自分はいったい、何を相手にしているのだ!?


 ウンディーネの問いに答える者は居ない。ただそれと戦わねばならぬ現実が、そこにあるだけだった。

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