第11話 潜み伏せるもの

 ほの暗い水の底で、「それ」は時を待っていた。


 「それ」は永く囚われの身であった。どのようにして囚われるに至ったのか、何の為に囚われているのか……そんな事すら忘れてしまう程の間、「それ」は人間達によって封じられていた。


状況が変わったのは、つい昨日のことだ。


 「それ」は唐突に開放された。封印の器が破壊され、永劫とも思える拘束から解き放たれたのだ。何かの事故か、手違いか。「それ」の他にも数体の精霊が開放され、思い思いの方向へと逃げ去っていく。


「それ」もすぐさま逃走に転じた。追手がかかる前に、可能な限り距離を稼いでおかなければ。久方ぶりに味わう自由を、再び失ってなるものかと。


 折しも降り出した雨が「それ」の助けになった。濡れたアスファルトの地面を滑るように駆ける。大気に満ちた水の匂いに感覚を研ぎ澄まし、身を隠せる場所……大きな池や川を探した。


――――無い。「それ」は歯噛みした。夜明けまでに移動できる範囲内にあるのは、人の手の入った生け簀の類ばかり。水を司る精霊である「それ」にとって、混ぜ物がされた水は毒にも等しい。うっかり下水にでも入ろうものなら、あっという間に衰弱し消滅してしまうだろう。


雨の勢いも次第に弱まりつつある。どこか、適当な場所で妥協するしかない。そんな時だった。「それ」がその場所を見つけたのは。


 そこは例によって人間が作った生け簀のひとつだった。大きな建物の上に設けられた溜め池……本来なら候補にすら入らない場所だ。しかし、人に造られながらもその池には緑の藻が生い茂り、長い時間をかけて溜まった雨水が並々と満ちていた。


ここしかない。「それ」は壁面をよじ登り、人工の池にその身を投じた――――


 それから約半日が過ぎた。水底に潜みながら、「それ」は英気を養っていた。さすがに生き物の数こそ少ないものの、そこは十分に自然の環境に近かった。大量の藻に遮られ、夜が明けた後も差し込んでくる光はわずか。底面を通して多くの人間の気配を感じるが、池に近づいてくる者は皆無である。


――――近いうちにまた雨が降る。その時まで、ここで力を蓄えるのだ。水と同化し気配を絶っている限り、追手が来たとしても容易には「それ」を見つけられないだろう。


……その筈だった。


 「それ」は先刻から水面上を飛び回る厄介な乱入者に悩まされていた。風の精霊……おそらくは「それ」と共に封じられていたものだろう、そいつが何を思ったか、池の上に居座ってしきりに呼びかけてくるではないか。


 四大精霊とひとくくりにされる事が多いが、元来属性の異なる精霊同士が交流することはほとんどない。多くの精霊は自らのテリトリーから離れることを好まず、結果他属性の者と関わる機会も少なくなる。なにせ、生活環境から何から全く異なる生き物なのだ。互いの気配を感じ合い、ある程度の意思の疎通はできるものの、進んでそれを行う者はいない。


……唯一、シルフ族を除いては。


 風の下級精霊、シルフ族には……極めて好奇心が強い固体が多いと言われている。彼らは興味本位で他の種族――あやかしに限らず、時には人間とも――様々な干渉や接触を試みる為、相互不干渉を旨とする他の精霊や妖の類からは厄介者扱いされていた。なまじ広い行動範囲を誇るだけにその被害は枚挙に暇なく……今も世界のそこかしこで悪意なき災厄をばらまいている。


 「それ」も今まさに、災厄のただ中にあった。水面上のシルフにいかなる意図があるのかは分からないが、このまま放置するわけにはいかない。自分達は今、追手のかかった身なのだ。そもそも状況を考えれば、「それ」が隠れ潜んでいる意味もわかりそうなものだが……


 兎に角、今はこのシルフを追い払うしかない。こいつをこのまま放置する事は追手に見つけてくれと言っているのに等しいのだ。「それ」にはシルフの思考が理解できなかったし……また、理解したいとも思わなかった。


 水面が盛り上がり、数本の細い水柱が立ち登る。それらはそれぞれが意思を持っているかのようにうねり、シルフへと襲いかかった。驚きながらも間一髪で避けるシルフだが、水柱は執拗に目標を追い続ける。シルフが池の上空を離れるまで、その攻撃が止む事はなかった。


 「それ」は名残惜しそうに池の周りを数周した後、飛び去っていくシルフを確認し……ようやく安堵に胸を撫で下ろした。いざとなればいくらでも飛んで逃げられるシルフと違い、「それ」は基本的に水場伝いにしか移動できない。もちろん無理をすればその限りでは無いが……大した速度も出ない上、水分の喪失に伴い力を失うリスクもある。


 やはりここを離れるのは次の雨を待ってからだ。それまでは見つかるわけにはいかない。「それ」――――水の精霊ウンディーネは、その身を水底深くへと沈めていく。


――――この自由を、二度と再び失ってなるものか。ただそれだけを念じつつ、浅い眠りに入る。


 コンクリートに囲われた四角い水面は何事もなかったかのように、波ひとつなく静まり返っていた……

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