第9話 月代灯夜のありふれた日常、1
「い、いってきまーす!」
ばたばたと廊下を走りぬけ、玄関で慌てて靴を履く。朝から一悶着あったせいで時間はギリギリだ。おまけに昨夜は、妖精とのファーストコンタクトのせいでほとんど眠れなかったときている。
――――自らを【しるふ】と名乗った妖精の少女。
シルフと言えば、確か風の精霊の名前だ。僕のような小学生でもゲームや漫画等で知る機会が多い、いわばメジャー所にあたる。けれど、それはあくまで種族名だ。彼女の言い方では、人間が自分は【ニンゲン】だと名乗っているのに等しい。
その事をつっこんでみたら、意外な反応が返ってきた。彼女が言うには……シルフ族、ひいては下位の精霊達にはそもそも個人名を名乗る習慣自体が無い、とのこと。
「アタシ達ってさー、めったに同族と出会わないし、大勢が集まったりすることもほとんどないから……ぶっちゃけ名前なんてどうでもイイんだよね~」
ぶっちゃけ適当すぎる……そこらへん人間とは大分感覚が違うみたいだ。
「けどね! その分、発音にはコダワリがあるの! し、る、ふ! これがアタシ的最高にカワイイ響きなんだよ!」
その後しばらくは彼女の指導による発音の練習が続いた……名前ひとつ呼ぶにもひと苦労だ。
彼女に聞きたい事はそれこそ山のようにあったのだけど、それは彼女のほうも同じのようで。
というより、矢継ぎ早に繰り出されるどうでもいいような細かい質問の数々は、まるでちっちゃい子の「なぜなにどうして?」の相手をしているのに近かった……最後の方はよく覚えていない。耐え切れなくて眠ってしまったのだろう。
結局、ぼくが知り得た情報はほんの少しだけだった。
「ちょっとくらい遅れてもいいんだよ。あんまり急ぐと危ないからねぇ」
キッチンから顔を出したお
玄関のドア――というか、古い家なので引き戸になっている――に手をかける。玄関横の姿見に映ったのは、黒のハイネックセーターの上にグレーのパーカーを着こみ、下はブルーのジーンズと白いスニーカー。
服装的には何の変哲もない、普通の小学生だ。
問題があるとすれば……それは首から上。 真っ白い頭は登下校の最中でもしばしば周囲の注目を集めてしまう。ぼくはパーカーのフードをかぶり、ため息をつこうとして……思い出した。今朝はもう遅刻寸前だってことを。
「やばっ! い、いってきまーす!」
玄関から飛び出した後で「いってきます」を二回言っちゃったことに気がついたけど、もうそれどころじゃない。とりあえず最初の信号までは全力疾走だ。ここの信号はタイミングが悪いと走った意味がなくなるくらい待つことになるけど、それはそれで息を整える時間ができる。
角を曲がると案の定、信号は点滅から赤に変わるところだった。仕方ない。とりあえず深呼吸して待とう……
「ねぇとーや、全力疾走してたのになんで止まるノ? 疲れちゃった?」
頭の後ろから聞こえた声にびっくりして振り返ると、そこには妖精の少女――しるふがふわふわと浮かんでいた。
「いや信号赤だし……って、なんでいるのっ!」
「えーだってー、一日部屋でじっとしてろとか無理だし~」
これっぽっちも緊迫感のない様子で話すしるふ。昨夜聞いた話の中では「【わるいニンゲン】に捕まってて、スキをみて逃げだしてきたの!」とか言っていたくせに……
「しるふは【わるいニンゲン】に追われてるんでしょ! とりあえずぼくの部屋にかくまってあげるって話したよね?」
「ソレとコレとは別だよ~。あたし達風の精霊はジっとしてると死んじゃうんだよ~」
悪びれた様子もなく答える。そうだった、一晩語り合ってわかっていた事だった……彼女は人の話を聞かないタイプの子だ。
「それに、普通のニンゲンにはあたし達は
そう――妖精は普通の人には視えない。昨夜得ることができた数少ない情報のひとつだ。彼女達をそれと認識できるのは世俗の価値観に縛られない無垢で純粋な子供か、霊感があっていろいろ視えてしまう人くらい。
ただ、ぼくはそのどちらにも当てはまっていない。小学六年生にもなって無垢で純粋とはさすがに思えないし、霊感の類に悩まされたこともない。
しるふの話では、極まれにたまたま波長が合うか何かして視えてしまう人もいるらしいので、きっとそっちの方なのだろう。
どちらにしろ妖精が視える人間は希少であり、道端で遭遇する事などほぼあり得ない。しるふも自分が視えて会話までできる人間に会ったのはぼくが初めてだって言ってたっけ。
あれ? それが本当だとすると……
「じゃあ、しるふはなんで【わるいニンゲン】に捕まったの? 視えてないんでしよ?」
「……アレ? なんでだっけ?」
本気で不思議そうな顔をしているしるふ。そこ結構重要なのに……呆れながら正面に向き直ったぼくは、信号がすでに青く変わっているのに気付いた。
「そうだ、急がなくっちゃ!」
「あっ……とーや! なんでそんなに急ぐの~!」
しるふの「なぜなに?」を置き去りにして走り出す。とにかく、今は時間がない。
「おいてかないでヨ~! ねぇ、とーやぁ~!」
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