第1話 或る、月の無い夜
「はぁ……」
強化プラスチックの窓に映った不機嫌そうな顔の少女が、これまた不機嫌極まりない溜息をついた。
すでに夕刻を過ぎ、世界は既に深い闇の帳に包まれている。
くぐもったエンジン音とそれに伴う振動も、慣れてしまえば眠気を誘う要因でしかない。これが呑気な深夜バスの旅か何かなら、いざなわれるままに眠りに落ちてしまえばいいのだけれど。
わたしは欠伸をかみ殺しながら、窓の外を睨みつけた。月も、星もない暗闇の空。そして眼下に散らばるまばらな明り。
「空の旅、といえば聞こえはよいけれど……」
お世辞にも座り心地が良いとは言えないヘリの後部座席……
それでも一応は上等な皮張りのシートの上で、わたしは再びため息をついた。
「ずいぶんと辺鄙な場所を飛ぶものね。風情も何も無い」
窓から見えるものといえば、真っ黒に塗りつぶされた景色だけ。
それ以外には映り込んだ自分自身の姿があるのみだ。
小柄な、ローティーンの少女――白を基調としたブレザー型の制服と、それと対照的な腰まであるまっすぐな黒髪。
眉間にしわを寄せ、不快をあらわにした恨めしい眼つきをしていなければ、それなり以上には端正な顔立ちの少女が。
わたし……四方院樹希は、既に不機嫌を隠す努力を放棄していた。
「お嬢様」
不意に流れてきた甘い香りに首を巡らせると、そこにはふんわりと湯気を立てるティーカップを携えたメイド服の女性の姿があった。
夜の闇を切り取ったような黒髪を丁寧にアップにした、年齢不詳の美女。
シンプルながらも品のあるロングスカートのメイド服は、巷にあふれるコスプレまがいのそれとは明らかに異なる気品を漂わせている。
無論、本格的なのは服だけではない。彼女はわたしの専属になる前は四方院家のメイド長を勤めていた本職なのだ。
仕草、振る舞いに至るまで、まさに完璧なメイドを体現している。
……逆に彼女がメイドに徹していなければ、その美貌は主人よりも周囲の注目を集めてしまうに違いない。
「パッションフラワーのハーブティーです。心身をリラックスさせる効果があるそうですよ」
まぁ、気休めですが……と付け足しながら、わたしの手前にある後部座席とセットで設置された簡素なテーブルにそれを置いた。
「ありがとう。頂くわ……雷華」
――雷華。それが、彼女の名だ。流石に長い付き合いだけに、主のあしらい方も心得たものだ。そんな彼女の完璧さに、わたしは無意識のうちに甘えてしまっているのかもしれない。
淹れたてのハーブティの味と香りを楽しみながら自省する事しばし。
「……残念な状況だけに、余計に美味しく感じるわ。先輩方には感謝するべきかしら……もっとも、卒業式が終わった途端に行方知れずでは礼の言いようもないのだけど」
本来なら、今日は非番のはずだった。ローテーション上では上級生のチームが事にあたる手筈なのだが……事もあろうに、一足先に春休みに入った彼女達は揃って姿をくらましてしまったのだ。
「実力はともかく、自覚くらいは持っていてほしいものだわ……」
「お言葉ですがお嬢様、彼女達はまだこちらの仕事に関わって日が浅いのです……代々お役目を受け継いできた家系の者とは違います。」
「春休みだからって携帯の電源切って雲隠れとか、家系以前に人としてどうかと思うわ……それに、休み前に厄介事を押し付けられる身にもなってもらいたいわよ。こっちはまだ授業もあるし、進級前にひととおりの予習復習もしておきたいってのに」
「だったら、こちらでお勉強なされば良かったのでは?」
雷華の問いに、わたしはまたため息をついた。
「それも考えたけれど、これから仕事だって思うといまいち集中できないのよね……ほ、ほら、命のやりとりをする事だってあるわけだし……」
言葉を濁すわたしを見てくすりと微笑う雷華。
――いや、別に勉強が嫌とかそういう訳じゃないのよ? ただこんな所に来てまでするのはどうかと思っただけで――
わたしがそう言いかけた時、
「お嬢様ー、そろそろ目標地点ですよー」
副操縦席から身を乗り出した通信担当のメイド――ちなみにパイロットを含め乗員は皆四方院家のメイドである――が緊張感に乏しい口調で告げた。
どうやらこの無為で退屈な時間にも、ようやく終わりが訪れたようだ。
「いいわ。さっさと終わらせるとしましょう」
わたしは勢いよく席を立ち、つかつかとドアへと歩み寄った。このヘリは災害救助等に用いられている中型の機種で、中のスペースはそれなりに広い。ドアも物資の搬出入の為に大きく開ける仕様になっている。
わたしは半ばドアに埋め込まれたノブに手をかけロックを解除すると、無造作にそれを開け放った。気圧の差でごぅ、と空気が吐き出され、ヘリ自体もぐらりと傾ぐ。
「お嬢様ぁ! 開けるなら先に言ってくださいぃ!」
操縦席の方からそんな声が聞こえたが、無視した。
それよりも……わたしは眼下に広がる暗闇を凝視する。先程までまばらにあった明りも今は無い。これから行う“仕事”には都合がよいというものだ。
「いくわよ……雷華!」「はい。では失礼」
背後に控えていたメイドがわたしを抱き抱え、次の瞬間、わたしと彼女は漆黒の空へと飛び込んでいた。
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