裏綴 八月二十五日、廃ホテルにて 後編
村でいくらか聞き込みはしたが、彼らが動画内で聞いていたこと以上のことは分からなかった。私が聞く以上に、村人たちは私のことを聞いてきたのだが、適当に言葉を濁し今日の宿へ向かう。
廃ホテルは村からそれほど離れていなかった。
ホテル前の坂に置かれた鉄柵の前に車を止めた。柵は胸の下程度のもので、問題なく乗り越えられそうである。安藤紀之たちはこの柵に掛けられた南京錠のカギを借りたのだろう。当然私にはないから、彼らが使っていた駐車場まで車で行くことはできない。
リュックを柵の向こうに慎重に置き、次は自分が乗り越える。高い位置に足を掛ける場所がなく、うまくいかない。無理やり足を隙間にはめることはできたのだが、体が硬く脚が持ち上がらない。まともな運動なんて高校を出てから一切やっていない。柔軟体操くらいやっておけばよかっただろうか。仕方なく、不安定な柵の上に身体を預け、転がるように柵を越えた。
「った……」
くるぶしを柵の角で引っ掻いてしまった。垂れるほどではないが、血がにじんでいる。無理やりはめ込んだ足を力任せに引き抜いたときだろうか。まあ、このくらいなら問題ない。
外観は綺麗な廃ホテルというべきものだろうか。綺麗な廃ホテルとは何なのだ、と少し考えたが、それ以上言うことがない。それなりに管理の手は入っているようだが、時間の流れによるほころびは着実に進んでいる。
何もない駐車場からホテルの外観を観察し終え、中途半端に開いていた正面入り口から無理やり内部に入った。彼らがこのドアから無理やり出入りしたのだろうか。彼らは従業員出入り口のカギも持っていたはずなのだが、そっちは使わなかったのだろうか。
地下から順繰りに時間をかけて見て行ったのだが、あの映像と変わっているところは出入り口以外今のところはない。
彼らと違って、私は夕方からの探索である。懐中電灯は持って来ていたのだが、これだけでは少し心細い。暗闇への耐性とでも言うべきものはなくはないのだが、やはり怖いものは怖い。怖いものは怖いとはっきり認めた方が疲れないことは経験で学んだことなのだが、認めてしまうと足が遅くなるので、今回の場合は無理にでも気合を入れた方が良かったかもしれない。丑三つ時の廃ホテルなんて冗談じゃない。
この階段を登り切れば、最上階につくというところまで来た。
一息ついて、リュックの中に無造作に放り込まれたケースからビデオカメラを取り出す。どうせ後から機材を持って再訪するなら、特段必要なことではなかったが、せっかく持ってきたのだから使っておきたい。
上がりきった先には少し広い空間とそこに面する四つのドア。一つだけ目を引くあの部屋につながる扉はほんの少し開いているような気がする。びりびりに裂かれた札が少し動いている。部屋の方から風が吹いているようだ。
カメラは結構重い。数年前の型落ちのこれは、数分片手で持っているだけで腕が震えだしてしまう。
カメラを左手に持ち替え、右手でドアノブを握る。少し重く感じたので、肩をドアにつき、右腕全体で押し開けていく。
持つところがなくなり、口にくわえていた懐中電灯の明かりが舞うほこりを照らしている。ひどい違和感。映像に映っていたものとまるで違う。
のどに張り付くような不快感にとっさに咳をしてしまった。転がり落ちた懐中電灯を右手に構い直す。もう一度、左へ、右へと灯りを移動させるのだが、ほこりのたまった床と破れた蜘蛛の巣がふわふわと風に泳いでいる光景は変わらない。
まさか、ひと月も経たないうちにこれだけ変わってしまったのだろうか。こういった場所を一か月放置した場合の変化なんて知りようがないので、そういうこともあるのだろうと自分を納得させたのだが、粘膜にまとわりつくような不快感はぬぐえない。
ドアから数歩進んだ右手に洗面所はあった。昭和らしい、よく言えばレトロな装飾の洗面台なのだが、今はほこりとも砂ともとれない汚れで見る影もない。かすかに震えている手のせいで、鏡にときおり光が反射するのが心臓に悪い。
意を決して開けた扉の先にはタイルの上に崩れた奇妙な木の置物たちと短い木材。これは安藤の友人が倒してしまったであろうあの祭壇だろうか。浴室の端には寄木細工の箱によく似た片手に収まるほどの立方体が転がっている。
これはどうするべきなのだろうか、誰かが何かの意図をもって組んだものなら、直しておいた方が良いのだろうか。
私は頭で結論を出すよりも先に、映像で見たあの祭壇を再現するように組んでいく。一応携帯にあの祭壇の画像は入れてあるのだが、それを確認することなく組み直せてしまった。
不思議な達成感と安心感を持って、私はホテルの階段を降りていた。
車で民宿に戻った。入り口が煌々と輝くだけで、周囲の民家は暗く、もう寝静まっているようだった。民宿の主人たちももう寝てしまったようである。カラカラとガラス戸を静かに閉め、できるだけ足音を立てないように部屋に帰った。
その日はビデオカメラの充電も忘れて、適当に敷いた布団で死んだように眠った。
翌朝、携帯のアラームで目を覚ました。寝ぼけ眼で日課のメール確認をしようと思ったのだが、昨日は気付かなかっただけで、ここの村は圏外らしい。少し困るが、今日の夜にはテレビ局に戻っているのだから問題ないだろう。
昨日案内された食堂にぽつりと用意されていた朝食をとり、テレビのチャンネルをころころと変えていた。特に変わったことはやっていない。
食べ終わった食器を厨房まで下げにいったのだが、誰もいなかった。コンロの上ではやかんが火にかけられているから、少し席を外しているだけのようである。火から目を離すのはあまり感心しなかったが、口出しする程のことではない。
「すみませーん! これ、置いときますね!」
厨房奥に向かって声をかけたのだが、返事はない。
受付には人がいるのだろうと思ったのだが、これまた誰もいなかった。民宿だし、チェックアウトの時間はそれほど厳しくないだろうが、これで文句を言われたらたまらない。受付にちょっとだけ色を付けた宿泊料と部屋のカギ、それと近くにあったチラシの裏に「誰もいなかったから宿泊料とカギを置いておいた」ことと「一応後で連絡を入れる」と書き残しておいた。
気持ち悪い程に空いている、いや一台も車が走っていない高速道路を走っていく。
サービスエリアにも一台も車が止まっていない。
平日だから高速道路がこんなに空いているなんてことは絶対にないはずだ。
高速にのってからもう数分以上、いや、一般道を走っているときから、ずっと、ずっと一台も車とすれ違わないのである。車だけじゃない。人も誰一人として歩いていない。
震える手で携帯を確認するがずっと圏外の二文字は消えやしない。
サービスエリアの中央で止めた車の中で目を瞑る。力なく放り投げた腕から携帯電話が転がり落ちた。
「戸田さんから手紙? 私に?」
茶封筒には確かに『和泉 エリカ』という名前が並んでいる。数日前に取材に行くと言って、局を出たきり、今日の今日まで連絡がつかないディレクターからのものである。
「なんでわざわざ私宛なんですかね……」
「えぇーだってあの人、和泉ちゃんに気があったらしいし?」
数少ないこの番組のアシスタント仲間がおかしそうに笑っている。
「開けてみれば?」
「なんか、そういわれるとちょっと気持ち悪いですよ。」
時代錯誤なことを言う老害どもよりはマシだったが、あのディレクターにだって好感は持てなかった。いつも何かにつけて卑屈な言葉を並べたように見せて、隠しきれない威圧的な態度が気に入らなかった。
「まあ、開けてみるんですけどね。」
カッターで開けたその封筒の中には、『九月十八日』とだけ書かれたDVDが一枚裸のままで入っていた。
「なんか、あのDVDみたいでやだなぁ。」
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