第9夜 おかえりなさい

第1話 私にとっての希望

 投石によって破壊され、内部の壁掛けや絨毯を露出した状態だが、それでもなおワルダ城は城内にいる者たちを守らんとそこに存在する。


 しかし今日も日が昇ってしまった。この地に照りつける太陽は苛酷だ。まして今のワルダ城は一部屋根を失っている。


 ザイナブは、崩れた壁にもたれながら、先日城内で産まれた赤子を抱いていた。城下町から避難してきた庶民の女が産んだのだ。とてもおとなしい子でなかなか声を上げない。


「泣いてもいいのですよ」


 極度の不安と緊張を強いられた母親からは母乳が満足に出ず、城の女たちが交代で山羊の乳を搾って与えている。だが、吸う力はとても弱い。この命は近々儚く消えるだろう。


 ザイナブは空を見上げた。

 蒼穹そうきゅうは高く澄み渡っている。今日も暑くなるだろう。


「ザイナブ様」


 侍女頭が小走りで駆け寄ってくる。


「こちらにいらっしゃいましたか」

「ずっとここにいましたよ」

「ずっと、でございますか」


 鋭い声で問いかけられた。


「昨夜はよくお休みになられませんでしたか」


 ザイナブは微笑むだけで何も言わなかった。


「あなた様が子守り女のようなことをなさらずとも」

「いいえ、私が望んで抱かせてもらったのです」


 左腕で抱えて、右手で頭を撫でる。


「ワルダ城で生まれた子です。このワルダの宝です」


 呟いてから、顔を上げた。その引き締まった表情は『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』の二つ名にたがわぬ力強さと冷静さを備えている。


「すぐに城内にいるすべての武官と文官を集めなさい」


 侍女頭が深く首を垂れ、「かしこまりました」と告げてその場を離れていった。




 大きな岩の転がる中庭、ひしゃげて水がまっすぐ出なくなった噴水の見える列柱の回廊に、多くの人間が詰めている。ワルダ城に仕える書記カーティブたちと傭役軍人マムルークたちだ。急な召集だったが、ザイナブが自分たちを屋根のあるところに集めたことで慈悲を感じたらしく、皆彼女を褒めたたえていた。


「きっと総攻撃だ」


 若い傭役軍人マムルークが逸る声で言う。


「とうとうナハルの連中に目に物を見せてやる日が来たんだ。俺はやるぞ」


 年上の傭役軍人マムルークたちは何も言わなかった。彼らは事情を知っていたからだ。それでも少年たちの希望の芽を自らの独断で摘んではならぬと唇を引き結んだ。


 中庭の奥、前面開放広間イーワーンにザイナブが姿を見せた。いつもと変わらぬ黒い外套マントで、その花のかんばせは外に露出していた。滑らかな肌も輝く黒い瞳も、何ひとつ平和だった頃と変わらない。彼女のそんな様子は、そこにいた皆を安堵させた。


 ザイナブが、前面開放広間イーワーンの奥、かつて城主である国主アミールハサンが座っていた席に腰を下ろした。


「皆の者、私の声が聞こえるところに移動して、各自座りなさい」


 言われるがまま、前のほうにいた面々が広間の中に移動して、ザイナブの正面に座った。後ろのほうにいた面々も広間の中が見えるあたりで立ち止まってザイナブを眺めた。


「前置きは省略します。単刀直入にこれからの話をします」


 全員が、息を呑む。


 ザイナブは、あくまで冷静だった。


「ワルダは本日をもってナハルに降伏します」


 一瞬、時が、止まった。


 後ろのほうで立っていたある年配の書記カーティブがその場に崩れ落ちた。外聞構わず大きな声を上げて子供のように泣き出した。その涙がさざなみのように部屋の中全体へ広がった。


「いえ、まだです!」


 若い傭役軍人マムルークたちが駆け寄る。


「俺たちはまだやれます!」

「今からでも遅くありません!」

「総攻撃のご命令を!」

「最後まで戦います!」


 ザイナブは決して頷かなかった。厳しい顔と声で「なりません」と言った。


「命を無駄に捨てるような真似は禁じます」

「いえ、負けません! 絶対に生きて帰ってみせます」

「禁じます。何度も言わせるのではありません」


 少年たちもその場で膝を折った。


「ではせめてザイナブ様をお連れしてここを脱出します。おっしゃるとおり、生きてこそです。ザイナブ様が生きていれば俺たちは何度でも立ち上がれます」


 懇願するように言う言葉を、彼女はまたもや拒絶した。


「私はナハルに下ります」


 その瞳には固い決意が見える。


「私がムハッラムのもとに行くまでの間、少しは時間を稼げるでしょう。その隙にお前たちは城内にいる人間をできる限り外に逃がしなさい。一人でも多くを」


 声は確かで悲壮感すら感じさせてくれない。


「私のために戦うと言うのならば、今は生きて逃げて雌伏の時を過ごすのです。やがていずれきたるべき時に結集しましょう。あなたたちさえいればワルダは何度でも復活します」

「ザイナブ様……」

「私がいなくても。土地を離れても。薔薇の都ワルダは、不滅です」


 涙をすする声はさらに広がった。

 ザイナブは決して表情を変えなかった。


「ですが……、ですが――」


 年かさの傭役軍人マムルークが、呟くように言う。


「ギョクハンは……、あやつはいかが致せば。あやつは、今もなお、皇帝スルタンにお会いするために戦っているのではござらぬか」


 そばにいた傭役軍人マムルークの青年が、「そうだ、ギョクハンが」と声を出す。


「ザイナブ様は、ギョクハンが帰ってきた時のために、ここでお待ちくださるのではなかったのですか」


 ザイナブは落ち着いた声で言った。


「今日で一ヵ月が経ちました。その間音沙汰はありませんでした。これ以上待っては城内に死者が出ます。感傷で刻限を引き延ばすわけにはまいりません」

「でも――」

「いいのです」


 彼女は初めて、大きく息を吐いた。そして、少し表情を緩めた。


「生きていてくれれば。あの子たち二人が――ギョクハンとファルザードがどこか遠くで生きて無事に大人になってくれるのならば、私はそれでも構いません」


 年かさの傭役軍人マムルークが声を荒げる。


「ギョクハンはそのような恩知らずではござらぬ」

「知っていますよ。あの二人はいつか必ずここに帰ってきてワルダを再興してくれるでしょう。それが私にとっての希望です。私とて、今もまだ、あの子たちがいつか戻ってくると信じているのです。ただ事実として、今、いない。それだけのことです」


 全員が首を垂れ、沈黙した。


 ザイナブが立ち上がる。


「さあ、皆の者、泣いている場合ではありません。立ちなさい。すぐに支度をするのです。私はこれからムハッラムに手紙を――」


 その時だった。


 玄関のほうから、重い金属がこすれ合う音――鎖帷子をまとったまま走る音が聞こえてきた。

 全員が音のするほうを向いた。

 城壁を守っていた傭役軍人マムルークが、中庭に転がり込んでいた。


「ザイナブ様!」

「ここにおります。どうしましたか」


 ザイナブが中庭に歩み出ながら問いかけた。

 入ってきた傭役軍人マムルークが、興奮と歓喜を抑えきれぬ笑顔で叫んだ。


「援軍です! 援軍が見えます!」


 ざわめきが広がった。


「遠くから皇帝スルタン直属軍と思われる集団がものすごい勢いで迫ってきています!」

「確認します」


 ザイナブが走って列柱を行き、階段を駆け上がった。その場にいた全員が後に続いた。


 屋上にたどりつく頃には、すでに人馬の声が城の郊外まで押し寄せてきていた。その数一万騎はあろうかという大軍だ。


 黒い旗がはためいていた。黒地に金の刺繍――皇帝スルタン直属軍の証だ。


 勝鬨かちどきが聞こえる。


「間に合った……!」


 誰かがそう言った。

 途端、緊張の糸が切れたのか、ザイナブが一歩後ろによろめいた。周囲にいた人間が総出で受け止めて彼女を床に座らせた。




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